戀情
「あたしは納得できないわ」
アマンダが、学校の図書室で勉強していた篠塚さんを拉致して近くのカフェへ連れ込み、ひんやり甘いタピオカミルクティーを前に、熱く問い詰めている。
わたしもそれに付き合わされているのだけれど。
「ねえ、アマンダ。それ、篠塚さんに言っても……当人同士の問題だし」
「小鈴。ちょっと黙ってて」
うっ、と、口をつぐむ。アマンダ、怖い。
「アマンダ。君が心配してくれる気持ちはうれしいけど、これは、もう決めたことなんだよ」
「決めたって? まだはじまってもいないのに、なにを決めたの? なぜはじまる前から無理だって結論になっちゃうの? 無理かどうかなんて付き合ってみなきゃわからないじゃない?」
篠塚さんは、曉慧と同じ言葉をわたしたちに聞かせた。
大人の恋愛は、気持ちだけではうまくいくものではない。
お互いに仕事も生活もあるのだから、片方が譲らなければ、もう片方が犠牲になる以外に道がないような障害の大きい交際は、双方の負担になるだけだ。
せっかく縁あってお付き合いをするのなら、互いに似た環境にあり、将来を約束できる相手のほうがいい。
だから、無理をするくらいなら友だちでいようと、ふたりで話し合い、結論を出したのだ、と。
アマンダが納得できない気持ちは、わからなくはない。
わたしだって応援したいし、できるものならこのまま終わってほしくないとも思っている。
でも、アマンダが口出ししたところで、所詮これは、曉慧と篠塚さんの問題なのだ。
ふたりのなかで結論が出てしまったものを、いまさら覆すことなんてできるのか。どうなんだろう。
「アマンダ。何度も言うけど、僕はもう三十歳だ。若いころのように気持ちだけで突っ走れる年齢じゃないんだよ」
篠塚さんが眉を下げ、苦い顔で微かに笑う。
「そんなことはわかってるわよ。でも、修は曉慧のこと、好きなんでしょう?」
「もう止めなよ。アマンダってば……」
これでは堂々巡りだ。もういいよとアマンダの横腹へ肘を突いたが、避けられた。
困り顔の篠塚さんが、大丈夫だからとわたしに頷き、小さくため息をつく。
「仕方ないな。本当は黙っていようと思ってたんだけど。君たちだから、本当のことを言うよ」
「本当のこと?」
「まだなにかあるの?」
これはふたりだけの話で、曉慧も話していないようだし、僕も誰にも話すつもりはなかったのだがと前置きをして、篠塚さんが話しはじめた内容に、すっかり驚いてしまった。
「うん。じつはこれ……僕じゃなくて、曉慧が言い出したんだよ」
「え? 曉慧が?」
「うそ?」
「僕は、曉慧が好きだ。もちろん、けっして浮ついた気持ちじゃない。だから、将来——つまり、結婚も視野に入れて彼女に交際を申し込んだんだよね」
「結婚……」
「曉慧がどんな子か、君たちもよく知っているだろう?」
曉慧のお兄さんは、結婚後仕事の都合もあり、実家を離れている。兄嫁さんは、母ひとり子ひとり。あちらのお母さんは、いまはまだ元気で働いているが、将来的には同居して老後の面倒を看ることになるだろう。
篠塚さんがもうしばらくしたら日本へ呼び戻されるのは、決定事項。ただ、仕事の性質上、そのまま日本での勤務になるより、他国の支社へ転勤になる可能性が高いらしい。
一時的な遠距離恋愛であれば、まだいい。だが、一時的なことで済むかどうか、それは疑問だ。
さらに、曉慧が篠塚さんと結婚したならば、ふたりは日本、あるいは別の国で暮らし、曉慧のご両親は、ふたりだけで台北に残されることになる。
いまはまだふたりとも若く元気だから心配はないが、将来を考え不安になるのは無理も無い。
仕事だってそう。夢を実現させるべく着実に計画を立てて努力し、やっといまの職に就くことができた曉慧が、篠塚さんについて行くということはすなわち、せっかく実現した夢を手放すこと。家庭も仕事も。曉慧が失うものは大きい。
自分の家庭や、積み上げてきたものを捨てられない。だから、篠塚さんへの気持ちはあるけれど、お付き合いはできない。
曉慧を誰よりも大切に思い、彼女の意思を尊重した篠塚さんは、その選択を受け入れる決断をしたのだ。
だが、本当にそうだろうか。
曉慧は言っていたではないか。修哥の負担にだけはなりたくない。と。
曉慧は、篠塚さんが好きだ。それがどれだけ真剣な想いなのかは、わたしもわかっているつもり。
篠塚さんと添い遂げたいと決断すれば、曉慧は喜んで新しい生活へ飛び込んでいくだろうし、これまで以上に努力をするだろう。
もちろん、小父さんや小母さんだって、負担とも犠牲とも思わず、応援するに決まっている。
しかし、そのことが原因で、篠塚さんが負い目や義務感をもってしまったら。それこそ曉慧の本意ではない。
そのうえ、篠塚さんが曉慧のために、人生の方向転換を強いられるような未来があるとすれば。
曉慧は、自分を後回しにしても他人を思いやる優しい子だ。自分の想いを貫いた結果を描き、黙って身を引く決断をしたのだと、わたしは思った。
「曉慧ってさ、ほん——っとに、ばかだよね」
篠塚さんが立ち去ったあとのカフェで、すっかり温くなってしまったタピオカミルクティーのタピオカを啜り、キュウキュウと咀嚼しながらアマンダが毒づく。
「うん」
「ここまでわかってて、このまんまってわけにはいかないよね?」
「うん」
「でもさ、どうすればいいと思う? あたしたちがなんか言ったって、曉慧が聞くと思えないし」
「それなんだよねー。いい方法があればいいんだけど」
わたしもズルズルとグラスの底に残るタピオカを啜った。
「いい方法なんて——あああーっ、もうっ!」
アマンダがテーブルに突っ伏して頭を抱え、うーうーと呻いている。
わたしだって、呻きたい。
*
スーパーマーケットの売り場で研究をしようと思い立ったのは、強ち間違いではない。調味料売り場の陳列棚にこれでもかと並ぶ、多種類の醤油を見て、わたしは確信した。
「これは……すごいわ」
インターネット上には、魯肉飯のレシピが、驚くほどたくさんあった。しかも、同じ魯肉飯だというのに、みんなそれぞれ受け継いだ家庭の味であったり、創意工夫を重ねていたりと、どれもが少しずつ違う。
材料も然り。
主材は、豚肉に違いないが、バラ肉であったり、肩ロースであったりと、部位もさまざま。
日本では見たこともない皮つきバラ肉の塊には驚かされたし、粗挽きであれば挽肉でもいいことも知った。
ちなみに、前回の肉は、日本で売っているのと同じ、細かい挽肉。
まな板も包丁も持っていなかったため、これでいいわと、お手軽な選択をしたのだが、なるほどあれでできるのは別物だな、と、レシピやブログを読んで理解した。
調味料も同様に、醤油ひとつをとっても、甘いものから塩気が強くて色の薄いものまである。魯肉飯に最適なのは、甘めのもの。これも覚えた。
砂糖は、これも驚いたのだが、こちらではなんと、氷砂糖を煮物に使うらしい。
氷砂糖は口寂しいときにガリガリ囓って食べるおやつだと思っていたのだが、違ったようだ。
香辛料にいたっては、もう言葉もない。八角、唐辛子いろいろ、花山椒などの単品は当たり前。
陳列棚の前に佇んでは、ひとつひとつの商品を手に取ってじっくりと観察し、説明書きがあれば読んでいく。
月老の『基本を押さえろ』との言葉を、けっして忘れたわけではないが、これだけのものを見せられると、魯肉飯に限らず、料理への挑戦意欲がムクムクと湧いてくる。
そして最後に、道具類。
肉を切るためには包丁とまな板。これは基本中の基本。材料を入れるボールや菜箸などの細かい道具も揃えなければならない。
前回、ここを訪れたときには、電気製品売り場で電鍋を買い、食品売り場では、物珍しさに目を奪われ無関係な食品を買い漁った。
目的の物にいたっては、ろくに吟味もせず——正しくは、吟味のしようもなかったのだが、単に目についた物を適当にカゴへ放り込んだだけだった。
電鍋と適当に揃えた材料さえあれば、簡単に魯肉飯を作れると思っていた、あの日の自分の甘さを呪いたい。
「今日一日で終わりそうもないな」
素材を吟味し、道具を揃えるだけで必要となるこれだけの労力。調理の研究にかかる時間と労力は、どれほどになるだろう。気が遠くなる。
メモをバッグにしまい、ため息をついた。
月が変われば、学校は新しいクラスになる。授業も難しくなり、予習復習は必須。宿題も増えるだろう。それを考えると、月老のミッションは、今月中に決着をつけたいところだ。
「リンリン、いいかげんに寝ろよ。もう二時だぞ」
「うん。あとこれだけ」
インターネットでレシピを検索しつつ、スーパーで書き留めたメモを元に、購入予定の材料と道具を整理する。
そうそう、忘れずにご飯を先にたくさん炊いて、冷凍しておかなければ。
わたしの背で、カイくんが吠える。
「おまえ、昨日も一昨日もまともに寝てないだろ。体壊しても知らねえぞ」
「大丈夫」
振り返ってニッと笑ってみせる。
「目の下にクマ飼ってる奴に大丈夫って言われてもな……」
「フフフッ。カイくん、わたしのこと心配してくれるんだ?」
目を泳がせそっぽを向いたカイくんは、オレは先に寝るぞとベッドへ横になった。
照れている。が、それにしても。
なぜ、カイくんにわたしのベッドを占領されなければならないのか。
解せぬ。
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