電鍋

「じゃーん! どうよこれ? いいでしょう?」


 机の上に鎮座しているのは、ミニサイズの白い電鍋だ。


 延々と買い物に付き合わされたカイくんは、すっかりご機嫌斜め。

 べつに付き合ってくれって頼んだわけじゃないんだから、わたしの知ったことではないが。そんなことより——。


 狭い我が家の机にピッタリ収まるサイズ感。コロンと丸くかわいらしいフォルムに惚れ惚れする。


 使い方は従来の大型品と同じ、スイッチポンだけれど、これはなんと最新式。

 外鍋にすっぽり収まる大小ふたつの内鍋が付属しており、一度にご飯やスープ、おかずが作れてしまう優れものなのだ。


 蓋をパカパカ開け閉めしながら電鍋の蘊蓄を熱弁するわたしの横で、カイくんが呟いた。


「つまんね……」


 わたしには、なんにも聞こえません。


 電鍋の使用マニュアルを熟読し、鍋を洗い材料を揃える。

 さあ、ここからが実力の見せどころだ。


「電鍋準備よし、肉、生姜、大蒜、フライドエシャロット、醤油、砂糖に八角。それと、たくあん! これは絶対に外せないよね。っと、材料も全部よ……ああっ!」

「どうした?」


 叫び声に驚いたカイくんが、わたしの背後から机の上を覗き込んだ。


「卵買い忘れちゃった」

 ——あーあ。煮玉子好きなのに。残念だが今回は仕方がない。


「そんなんで本当に作れるのかよ?」

「大丈夫。まあ見てなさいって!」


 疑わしそうにじろじろ見ているカイくんを牽制しつつ、調理に取りかかる。

 水を付属のカップで計って外鍋に入れ、食材と調味料、水を合わせた内鍋をセット、と、調理はいたって簡単。蓋を閉めてスイッチを入れたらあとは、終了の合図を待つだけだ。


「おお! カンタン!」


 仕上がりを待つ間は、のんびりと頭のなかで自炊リストを作る。

 おこわ。肉まん。小籠包。混ぜそば。白玉団子。スープ各種。お粥——想像しただけで頬が緩んでしまう。


 部屋中においしそうな匂いが充満し、いよいよ完成間近。この日のために茶碗と一緒に購入したお玉を手にスタンバイする。


 ついにカチンと調理終了の音が鳴った。はやる気持ちを抑え、蓋を開けるとそこには。


「え?」


 ほわほわ湯気の向こうに見えるこれは——なんでこんなことに?


 でもまあ、変なものを入れているわけではないし、食べられないことはないでしょう。きっと。


「おい」

「見た目はともかくとして、匂いはおいしそうよね」


 鍋のなかをくるくるとかき混ぜる。


「リンリン」

「なによ? 煩いなぁ」


 カイくんも食べたいの? 幽霊のくせに、と、振り向けばそこには、いるはずのないナイスミドルがひとり。


「わっ? 月老っ? なっ、なんでいるの?」


 窓は閉め切り施錠済み。もちろん、玄関ドアも同様だ。


「……どこからどうやって入ってきたんですか?」

「さて? そろそろできるころだと思ったのでな。ほら、土産だ」


 さて? じゃないでしょう?


 四六時中幽霊との共同生活。そのうえ、正体不明の月老まで現れ、不可思議な体験もすっかり日常に溶け込んでしまっている。

 だから、ちょっとやそっとで動揺することも、ない。


 わたしの問いに答える気のまったくない月老からわたされたショッピングバッグを覗き込む。そこには、レンジでチンすればすぐに食べられるパックのご飯がふたつ?


「あああっ! ご飯炊くの忘れてたっ」


 炊くのを忘れていたもなにも、米を買うことすら頭になかったのが本当で。失敗は成功の元とは言うが、自炊の達人への道程は険しい。


「いつまで待たせるのだ?」


 この狭い部屋には、ダイニングテーブルなんて気の利いたものはない。勉強も調理も食事もすべて、この小さな机ひとつで賄っている。


 そのたったひとつの椅子に座り机に向かう月老に見守られ、いざ魯肉飯の盛りつけを開始。

 レンジでチンしたご飯を、ひとつしかない茶碗によそい、できたての魯肉を乗せ、たくあんをトッピング。

 うん。完璧。


「どうぞ」


 机に茶碗を置き、斜向かいに立つ。師父(仮)のお言葉を待つこと、数十秒。茶碗を凝視していた月老が徐に口を開いた。


「これは、なんだ?」

「……開発中の新メニューですがなにか?」


 失敗を認めるのは癪に障るので、悔し紛れに言い放った。


 月老は、一瞬ピクッと片眉を上げ、そのまま表情を固めた。無言で茶碗を凝視したまま微動だにしない。


 ちらっと横を見れば、背を向けているカイくんの肩が小刻みに震えている。


 笑いたければ笑えばいいでしょう。


 なるほど、と、頷いた月老が、内ポケットから徐に取り出したのは、マイ箸とマイスプーンのセットだ。


「地球環境を守るのは、ひとりひとりの努力だ」


 仰せのとおりでございます。


 ケースから取り出したマイスプーンを右手に持ち、魯肉飯をかき混ぜながら月老が呟く。


「……粥?」


 できる限り肉をかき集めてよそいはしたのだけれど。これは、魯肉飯つゆだく、いや、魯肉茶漬けとでも呼ぶべき代物で。


「ごめんなさい嘘です魯肉飯です」


 無言で頷いた月老が、魯肉飯を口へ運んだ。咀嚼するごとに、眉間の皺が深くなっていく。飲み下したあとに残されたのは、これ以上ないであろうほどの、渋い顔だった。


「そもそも、この肉は? どの部位の肉を使わなければいけないと決まりがあるわけではないが、それにしても……。魯肉飯作りは主役の肉を吟味するところから、はじめるべきである。調理法も同様。はじめて作るのであるならなおさら、基本を押さえるのが当然だろうが。材料も足りていない。ろくに下拵えすらしていない。生姜、大蒜は言わずもがなだ。味つけのバランスも最悪。この八角は? 明らかに匂いが勝ちすぎている。醤油と砂糖、水の分量も多すぎる。レシピを確認し、分量を計り、調理手順を守りさえすれば、このようなものができあがるはずがない。ましてや——」


 *


 流水を使い、大きなタライに山盛りの青菜の汚れを落とし、枯れや傷んだ葉を手でひとつひとつ丁寧に取り除く。きれいになった青菜は、ひと株ずつ葉と根の部分を分けていく。

 刻まれ、油で揚げられるエシャロット。丁寧に皮をむかれた大蒜の欠片と生姜。


 汚れをきれいに掃除したあと、いかにも切れそうな中華包丁で細切れにされた肉は、鉄鍋で豪快に炒められている。その横では、焦げつかないよう大きな杓子で丁寧にかき混ぜられる寸胴鍋。


 味つけは、長年のカン。この一連の動作がすべて、職人の熟練技なのだ。


 そしてその結果が、おいしいと賞賛される茶碗一杯の魯肉飯である。それが、プロと家庭料理の違い。そう思っていたのだ。昨日までは。


 日本にいたころのわたしがしていた料理はすべて、スーパーマーケットで購入した『なんとかの素』任せ。

 材料もカット野菜だったり、適当に野菜や肉、豆腐などの食材を切るだけだったり。調理と呼べるのはせいぜい、炒めたり煮たりするだけ。


 家庭料理とは、その程度のもの。手軽にできてそこそこおいしく食べられ、お腹がいっぱいになればそれでいいのだ、と、思っていた。けれども。


 心がない。料理を舐めている。


 月老のキツい言葉に、ぐうの音も出なかった。


「小鈴? なに見てるんだい? 厨房に面白いものでもあるのかい?」


 カウンターに肘をつき、奥の厨房を眺めていると、背中をポンッと叩かれた。

 俯いて「ううん」と、首を振る。


「どうしたんだい? 元気がないねぇ」


 熱でもあるのかと、わたしと自分の額に手を当てて、心配そうにちょっと眉をしかめる林媽媽の優しさに、胸がチクリと痛くなる。


「大丈夫。熱はなさそうだ。どうしたんだい? 泣きそうな顔して」


 俯いて唇を噛みしめる。月老から受けた叱責は、自分で思っている以上に堪えていたらしい。


「林媽媽……」

「どうした? 悩み事でもあるのかい? あるんだったら聞いてあげるから言ってごらん」

「……うん。あのね。やっぱりわたし、嫁失格だな、って」

「嫁? 小鈴あんた、もしかして……」


 おやまあ、あれかい? と、目を輝かせた林媽媽に、慌てて言葉を被せ両手を大きく振って否定した。


「ちっ、違うよ! そうじゃなくて」

「だったら、どうしたっていうんだい? 突然嫁だなんて言いだして」


 いまここで、林家の嫁になりたいなんて言ったら、林媽媽はどんな顔をするのだろう。


 簡単に作れると思っていた魯肉飯も、大失敗。

 嫁のことだって、事情を説明しても信じてもらえなければそれまでだし。それこそ断られでもしたら、もう立ち直れないかも知れない。


「なんでもないの。ただ、料理もうまくできないし、自信なくしちゃったっていうか」

「料理? あはは! なにを言ってるんだい。料理なんてできなくたってちゃんと嫁に行けるさ。ほら、あそこにいい見本がいるよ」


 林媽媽の指差す先には、のんきに育児雑誌をめくる芙蓉姐がいる。


「あの子はね、小さいころから勉強はできたんだけど、料理裁縫家庭的なことはからっきしダメだったんだ。私は仕事に生きる。結婚して家庭に入るつもりなんか毛頭ないから、料理なんてできなくていいって、口答えするわ逃げ回るわでさ。で、どうしたかっていえば、偉そうに息巻いた挙げ句、料理人と恋愛してさっさと結婚。そのうえすぐに子供までできちまってんだから。ホント、もうすぐ赤ん坊が生まれるってのに、あんなんでどうするつもりなんだろうねぇ?」


 林媽媽は芙蓉姐に聞かれたくないのか、少し声を落としてとうとうと文句を言う。思わずクスクスと笑ってしまった。


「だからね、小鈴。あんたも心配する必要なんてないんだよ。でも、あんたに料理をしたい気持ちがあるんなら、店が休みのときにでも、あたしが教えてやるよ」


 娘と並んで台所に立つのがあたしの夢だったんだ、あの子は叶えてくれなかったけれど、小鈴に林媽媽直伝の味を教えてあげるから期待しておきな、と、林媽媽が笑う。


 母と一緒に台所に立つ。それはわたしの憧れだった。

 林媽媽がそれを実現してくれる。そう想像しただけで、落ち込んでいた気分が少し浮上する。


「それにね、小鈴。そもそも料理ができないくらいで文句を言う男なんて、ろくなもんじゃないんだからね。そんな小さい男とは絶対に結婚なんかしちゃダメ。あんたが苦労するだけだよ。そうだよ、小鈴。結婚したい男ができたら、あたしんところへ連れといで。小鈴媽媽があんたに相応しい男かどうか、きっちり見極めてやるよ」

「林媽媽……ありがとう」


 林媽媽の気持ちはとてもうれしい。だけれども、林媽媽にとってわたしは娘のようなものであって、嫁ではないのだ。


 どうしたら『娘』は『嫁』になれるのか。これはこれで難題だ。


 それにしても、どうして月老はわざわざ『嫁』と条件を出したのだろう。わからない。月老の意図するところはいったいなんなのか。


「さあ、わかったら皿洗うの手伝っとくれ」

「うん。あ、でも、林媽媽は休んでて。わたしひとりで大丈夫だよ」



 裏手の洗い場へ、使用済みの皿や茶碗が山になった最後の洗いカゴを運ぶ。洗い場はすでに積み重なったカゴでいっぱいだ。


 洗剤を泡立てたスポンジでくるくると茶碗や皿を洗い、水を流しっぱなしのすすぎ盥へ次々入れていく。


「リンリン、あまり悄気るなよ」


 悄気るなって言われて、はいそうですねって言えれば楽なんだけどね。


 すすぎの盥がいっぱいになったら、端からすすぎ水気を切って空の洗いカゴへ並べていく。カゴがいっぱいになったら店へ運んで、布巾で丁寧にから拭きする。


 皿洗いはかなりの重労働。わたしですら腰が痛くて辛いのだから、とてもじゃないけれど林媽媽にはさせられない。


「大丈夫だよ」


 カイくんに答えつつも、口数が少なくなってしまうのは仕方がない。


「なにが大丈夫なんだか……」


 つい文句が出てしまうのも。


「リンリンはさ、魯肉飯を作るのがはじめてだったんだし、電鍋だって使ったことないんだろう? 失敗したって仕方がないじゃないか。最初っから成功する奴なんていないんだよ。なんで失敗したのか原因を見つけて次に生かせば、いつかは必ず成功するんだから。な、オレも協力するから、元気出せよ」


 料理は化学だ。蘊蓄を垂れるカイくんに思う。自分だって料理なんかしたことないくせに。と。でも、いつになく優しく慰めてくれるカイくんの気持ちが心に沁みた。


 そうだよね。研究すればいいんだよね。きっと——大丈夫だ。




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