閨蜜

 月老に与えられたミッション——魯肉飯作りには、大きな問題があった。


 あの場で思い出していれば、安請け合いはしなかったのに。なんて迂闊なことをしてしまったのだろう。

 すっかり失念していたが、アパートの部屋にあるのは、小さな低機能電子レンジと冷蔵庫だけ。つまり、キッチンがないのだ。


 安くておいしい外食産業が発達している台湾では、早朝から深夜まで、空腹を感じたら即、近くの店へ飛び込めばそれでいい。

 もちろん、どこで何を食べてもまずハズレはないし、肉、魚、野菜と、なんでもござれで、栄養バランスも無問題で、自炊の必要なんて、まったく感じない。


 そんなお気楽な食生活を続けていれば必然的に、冷蔵庫はいつの間にやらドリンクバーへ、電子レンジはただのオブジェと化した。


 当然のこと、出番のあるわけもない調理器具も一切なし。食器だってマグカップひとつと箸とスプーンがあるくらい。これでは、魯肉飯はもとより、インスタントラーメンすら作れない。


 作ろうと思ったこともないが。


 後悔先に立たず。まずいどうしようと両手で頭を抱えたその瞬間、わたしは閃いた。


 そうだ。電鍋だ。電鍋を買おう。


 台湾では、一家に一台以上必ずある電鍋。これは、ご家庭のみならず、それこそ海外へ留学する学生までもが、嵩張るこの鍋の箱を抱えて機上の人になるといわれるほど、台湾人にとって必須のアイテム。


 基本の炊飯は当たり前、インスタントラーメンから豪華中華料理、デザートまですべての料理がスイッチポン。この電鍋ひとつあればなんでも簡単に作れてしまう万能調理器具なのだ。


 つまり、この電鍋を手に入れさえすれば、魯肉飯なんてちょちょいのちょい。もうできたも同然だ。


 曉慧とアマンダを待ちながら、このあと手に入る予定の電鍋に思いを馳せた。


「ふふっ。これでわたしも料理の達人?」


 素晴らしい思いつきに自画自賛。ニヤニヤと口の端が上がってしまう。


「本当にやる気なのかよ?」

「当然でしょ! やるって言った以上、やるっきゃないじゃない」

「だけどさ、あの月老はなんか……」

「もういいでしょ? 決めたんだから。それにわたし、気がついたのよ。もし、月老の話が全部嘘だとしたら、カイくんはずっといまのままなにも変わらないんだって。だから、万が一のことを考えて、試してみるのは悪いことじゃないんじゃないかな? わたし、間違ってる?」


 ベンチに腰掛け、行き交う人々を眺め待ち人の姿を探しながら話す相手は幽霊のカイくんだ。

 もちろん、周囲の人に彼の姿は見えないから、こうしてカイくんと喋っているわたしは、普通なら誰の目にも奇異に映るはず。


 それを防止するためにカイくんが思いついたのは、無線のヘッドセット。これを耳に装着してさえいれば、ひとりブツブツと喋っていても電話をしていますふうを装える。


 さすがは理系男子カイくん。頭がいい。


 唯一の欠点は、誰かと一緒にいるときは不自然で役に立たないこと。だが、そこまで求めるのはさすがに無理。贅沢は言えない。


「ねえ、曉慧たちが来たら、話しかけないでね」

「なんでだよ? おまえが返事しなきゃいいだけだろう?」

「気が散るし、邪魔!」

「へーへー。わかりましたよ。黙ってりゃいいんだろ黙ってりゃ」

「ついでに姿も消してくれたら最高なんだけど?」


 月老の紅線の効果か、あの日以来カイくんは、少しずつ幽霊らしさを増してきた。突然姿を消したり、大きな物音を立てたりと、新しい技らしきものも身につけている。そのたびに驚かされるのはたまったものではないのだが。


 しかしこれが、月老が言うところの、魂が安定してきている状態なのかも知れないと思うと、少しホッとする気持ちもある。


「あ! アマンダ! こっちよ」


 アマンダが人波をかき分け走ってきた。


 台北は、どこもかしこも、人、人、人。しかも夜は、日中よりも賑わっているから不思議だ。

 昼間は比較的閑散としている忠孝復興駅近くのデパート前広場もご多分に漏れず。どこから湧いてきたのかと驚くほどの人で溢れかえっている。


「ごめんねー、待った?」

「ううん。わたしもさっき着いたところ。曉慧はまだ来てないよ」

「いま、何時?」

「ちょっと待って」


 トートバッグを肩から膝へ下ろし、ごそごそと携帯電話を取り出した。時間を確認すると、すでに七時ちょっと前。待ち合わせの時間から三十分以上過ぎている。


「もうとっくに会社を出てる時間だよね? 曉慧にしては遅くない?」

「そうだね。電話してみようか」


 発信アイコンをタップし呼び出し音を鳴らすが、延々と鳴り続けたあと、留守電に変わってしまった。

 反応がないなんて、どうしたのだろう。きっちりした性格の曉慧は、普段から時間にも正確なのに。なにかあったのだろうか。

 諦めて携帯電話をしまいかけたとき、震えた画面に曉慧の名が表示された。


『なにやってんのよあんたたち! いつまで待たせる気?』


 携帯電話を耳に当てずとも聞こえる曉慧の甲高い声に驚き、アマンダと顔を見合わせた。


『ちょっと聞こえてるの?』

「あーごめん。聞こえてる。曉慧、いまどこにいるの?」

『靴売り場よ! 早く来て』


 ブチッと通話を切られた。今日の曉慧は、かなり機嫌が悪そうだ。


「とりあえず行ってみる?」

「そうだね。行かないと女王様のご機嫌がさらに悪化しそう」


 ふたり同時に苦笑いして肩を竦め、混み合った店のなかを靴売り場へと急いだ。


 間もなく見つけた曉慧は、椅子に腰掛け靴を物色中。その足元には、試し履きをしたのであろうたくさんのサンダルやパンプスが散乱している。


「ふたりとも遅いよ!」


 アマンダはたしかに遅刻だが、わたしは五分前には約束の場所にいたわけで——どうやら待ち合わせ場所の相談がうまくできていなかったよう。


「まあまあ、来たんだからいいじゃないの。ねっ?」


 察しのいいアマンダが、ニッコリと笑う。


 ちょっとした行き違いはよくあること。気にしないのが一番だ。


「べつにー、私も買い物してたからいいんだけどさ。ねえ、こっちとこっち、どっちがいいと思う?」


 心なしかおざなりに言葉を吐く曉慧の足元を彩っていたのは、華奢な造りの白いサンダル。手にぶら下げているもう一足は、大きなリボンのついた白いローヒールだった。


 おかしい。オンはできる女ふうのモノトーン、オフはきれいめカジュアルなパンツスタイルを好む曉慧が、こんなにかわいらしい靴を買おうとしているなんて。


 曉慧は求めた意見の返事を待たず、二足とも購入を決めて店員を呼んだ。その椅子の横にあるのは、いくつものショッピングバッグで。それらもすべて、曉慧の戦果だった。


 アマンダとふたり、手分けして荷物を持ち、脇目も振らず化粧品売り場を目指す曉慧のうしろを早足で歩きつつ、目配せで会話する。


 ——曉慧ってこんなに買い物好きだったっけ?

 ——いや、違うと思うよ。

 ——なんか、趣味変わってない?

 ——恐いね。なにかあったのかな?


「ふたりとも! 今日はウチに泊まるよね?」


 振り返った曉慧が、一応質問形式で決定事項を告げた。

 やはり様子が変だ。機嫌も悪い。絶対になにかあったのだ。これは、朝までコース覚悟だな、と、アマンダと頷き合った。


 電鍋は——残念だが今日は諦めるほか、ない。


 ぽってりと唇を彩るピンクベージュのルージュを筆頭に、コスメを次から次へと試してはお買い上げしていく。

 わたしはもとより、一緒に燥いでいた買い物好きのアマンダまでもが疲れを見せたころ、やっと地下のフードコートで遅い夕食にありつけた。

 閉店間際までお喋りに花を咲かせて店を出て、途中、コンビニでスナック菓子とビールを調達。曉慧の家へ帰り着いたときにはすでに、午後十時をとっくに回っていた。


 パジャマにガウン姿で出迎えてくれた曉慧のお母さんへの挨拶もそこそこに、忍び足で曉慧の部屋への階段を上がる。部屋へ入り荷物を下ろすと同時に、アマンダとふたり床にへたり込んだ。


「はぁ、疲れたー。こんなに歩き回ったのって、ひさしぶりかも」


 アマンダがスリッパを放りだし、脹脛を揉んでいる。


「情けないわね、これくらいなによ」


 曉慧はどっかりとソファに座り込み、早速ビールのプルタブを開け、ポテトチップスの袋をバリバリと破いている。ここまで機嫌の悪い彼女は、知り合ってこの方、記憶にない。


「ねえ、曉慧。今日はどうしたの? もしかして、篠塚さんとなにかあったとか?」


 一瞬、缶を口から離してアマンダを睨んだ曉慧が、なにかと決別するようにビールを一気に煽った。


 まずい。アマンダってば、単刀直入すぎる。


「ちょ……曉慧、やめなよ! そんな飲み方」


 慌てて体を起こして手を伸ばし、曉慧の手から缶を奪い取ったが、中身はすでに空。俯いた曉慧は、いまにも泣きそうに表情を歪め、両手で顔を覆った。


「曉慧? いったいどうしちゃったのよ?」

「ねえ?」


 ビール缶をテーブルに置いて隣に座り、宥めるように曉慧の肩を抱く。アマンダも心配そうに下から顔を覗き込んでいる。

 しばらくして顔から手を離した曉慧は、ひとつ大きなため息をついて顔を上げ、重い口を開いた。


「修哥とね、話したんだ……」

「篠塚さんと?」

「……結論から言うとね、これからもいいお友だちでいましょう、ってこと。かな」


 てっきり泣いていると思ったのに、顔を上げた曉慧の目に涙はなかった。


「うそ?」

「友だちって、なにそれ?」

「なんでそんなことになってるの?」


 アマンダもわたしも、ふたりの気持ちを知っている周囲の人たちも、てっきり曉慧と篠塚さんはうまくいくものだと思っていたのに。


「私の気持ちも伝えたし、修哥も誠実に話してくれたの。そのうえで、お互いの状況を考えたら、やっぱりいまの関係以上にならないほうがいいって、結論に達したってことよ」


 無理矢理作った曉慧の笑顔が、痛々しい。


「お互い好き同士なのに? それなのに、なんでそんな結論になっちゃうの?」

「曉慧は、本当にそれでいいの?」

「だってしょうがないじゃない? 修哥の生活基盤は日本だし、私は私でこっちに仕事も家もあるんだしさ。もし付き合うことになっても、いずれは遠距離確定だし……」

「そんな理由なの? そんな理由で諦めちゃうわけ?」


 アマンダが食い下がる。わたしも同意。


 恋愛って、仕事でも生活でも、障害はお互いの気持ちをひとつにして、乗り越えるものじゃないの?


「私だってものすごく考えたのよ。でも、お互い譲れないものがあるのよね。それに私、修哥の負担にだけはなりたくないしさ。ま、縁がなかったのよ」


 縁がなかったって——そんな言葉ひとつで割りきれるものなの?


 面と向かって口にできない言葉が、もやもやと頭のなかに浮かんでは消える。


「さてっと。報告はこれでおしまい! 今日はふたりとも、失恋したかわいそうな親友に付き合ってくれるんでしょ。飲もう?」


 曉慧がアマンダの肩を力強く叩いた。


「よし、わかった。飲もう!」


 これ以上なにを言っても無駄と、アマンダは結論づけたようだが。本当にそれでいいのか。


「ほら、小鈴も」

「う、うん」


 二缶目のビールを高々と掲げる曉慧に倣い、わたしとアマンダもビールの缶を手に取った。音頭を取る曉慧が「失恋に乾杯!」と、わたしたちのビールにガチャガチャ缶をぶつけ、一気に煽る。


 酒に酔い、たとえ一時的にでも辛さを忘れられるなら、それもいい。わたしもごくごくと喉を鳴らした。


 スナック菓子とビールって、なんて罪作りなんだろう。遅い夕飯をそれなりにではあるがしっかり食べたのに、これは別腹らしい。


 帰りがけに仕入れた六本パックふたつは疾うに握りつぶされ、スナック菓子の空き袋と一緒にゴミ箱に沈んだ。


 酒が切れた飲み足りない、と、三人で階下へ下り、キッチンを物色し、冷蔵庫から発掘した、きっと誰かの取って置きであろうチーズをつまみに、白ワインであらためて乾杯する。

 もともとお酒にさほど強くない曉慧はそこまでで撃沈。いまはベッドで夢のなかだ。


「泣くかと思ってたけどね……」

「泣きたくないから飲んだんでしょ!」


 アマンダのグラスにワインを注ぐ。

 そうだねと頷きつつも内心では、泣けばいいのに、と、思う。

 曉慧は、我慢強い。人に弱みを見せないし、なんでもひとりで抱え込む。けれども。


「本当にいいのかな?」


 寝顔を眺め、つい本音がぽろっと口から溢れてしまった。


「いいわけないでしょう? あたしは納得してないよ」

「オレも。納得できないな」

「やっぱりそうだよね。いいわけないよね……」

 ——でも、恋愛は当人同士のことだからなあ。


「だいたいこいつはさ、ホントはわがままお嬢のくせに、外面がよすぎなんだよ」

「なにが譲れないものよ? なにが生活基盤よ? 修のこと好きなくせに大人ぶっちゃってさ。気持ちは二の次だなんて、そんなのおかしいわよ。恋愛ってそんなもんじゃないでしょう?」

「そうだよねぇ……」

 ——本当にそう。人の心配ばかりして、自分は後回しなんだから。


「遠距離だからなんだっていうの? そんなのお互いの気持ちさえしっかりしてればいいことだし、どうにでもなるじゃない」

「うん」

「修だってそうよ。男だったらもっとガンガン攻めるべきじゃない? 小鈴もそう思うでしょう?」

「オレだって『過去、現在、未来永劫、生まれ変わってもあんただけは、ない!』じゃなくて『いいお友だちでいましょう』って言われてみたかったよ」

「それは……日頃の行いのせいでしょ」

 ——そこまで手酷く振られても『いいお友だち』って、あ、だから腐れ縁なのか。


「なあに?」


 アマンダに不思議そうな目を向けられ気づく。いまのは?


「え? あ?」

 ——ちょっと! いつの間にカイくんが参加してるのよ?


 酔っ払いに睨まれたって怖くもない、と、カイくんが意地悪げに笑い舌を出した。

 憎らしい奴。


「だよねー。笑っちゃうよねー。ホント、まどろっこしくて嫌になっちゃうよ」


 話がすれ違っていることに気づかぬアマンダも、いい具合にできあがって、抱いた膝に顎を乗せ、半分目を閉じている。


「ハハハッ。こいつもそろそろ限界だな」


 わたしだって『いろいろな意味で!』もう限界。グラスの底に残っていたワインを一気に喉へ流し込んだ。


 じき夜が明ける。明日の授業は、ふたりしてサボり決定だ。




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