侵入者
休日のランチタイムは、弁当待ちのお客さんが少なく、店内も平日ほどの混雑はないが、客足は、一日中メリハリなくだらだらと途切れず。そのため、スタッフの休み時間がうまく取れないのは仕方がない。
夕方近くになり、疲れが出たのか顔色が悪い芙蓉姐を奥で休ませ、わたしは夜の閉店時間まで店先で注文を受け、料理を運んだ。アパートに帰るころには疲れ果て、夕食を取るのも億劫だった。
「ああ今日も、西日が暑い!」
九月半ばとはいえ、最高気温は連日三十五度にもなる台北は、秋の気候とはほど遠い。
締め切った窓。外気温の高さ。おまけに西日に炙られた室内は、日が落ちたあともまるで蒸し風呂。そんな暑さに備えつけの旧型クーラーが太刀打ちできるはずもなく。
タオルで拭っても拭っても汗が噴きだす。気持ちだけでも涼をと、部屋の照明を点さずにカーテンを開け放ち、薄暗がりのなか、硬いベッドに寝転がり目を閉じた。
「暑い……。冷たいシャワー浴びたい……」
とはいえ、起き上がる気力もない。体がだるく、少し頭痛もする。そのまま横向きに丸くなると、とろとろと意識が沈み込んだ。どれくらいの時間が経ったのか。
ふと気配を感じ、目を開けると、鼻先にぼやーっとした輪郭と、目と鼻と口らしきものが見えた。
「……!……」
瞬きをひとつしてみたが、消えない。瞬間、ひっと息を吸い込み。
「ぎゃああーっ!」
それが人間の顔だと頭が認識したのと同時に、悲鳴を上げてベッドから転がり落ちた。ガチャンとなにかが落ちて、どこかに当たった気がするが、そんなことはどうでもいい。
「だ、だ、だ、だ、だ、だっ、だれかっ?」
——たすけて!
痴漢? 変態? 泥棒?
逃げなきゃ?
手足をばたつかせお尻で後退ったが、所詮、居室とバスルームを合わせてもたった七坪のワンルーム。あっという間に壁際へ追い詰められた。
もぞもぞと起き上がった大きな人影らしきものがベッドに腰を掛ける。いまにも立ち上がりそうなそれの顔が、わたしに向けられている。
「いや。いや。こ、こ、こないでぇ! いやぁあああーっ!」
恐怖で気を失えたら、どんなにいいだろう。そんなことを思いながらも、必死で首を振り、叫んだ。
「小鈴?」
「林さん!」
「小鈴! ここ開けて!」
「林さん! 大丈夫?」
わたしの名を呼ぶいくつもの声と、ドンドンと背中に響くドアを叩く音で、恐怖が少しだけ和らいだ。
ドアを開けなきゃ。
そうは思えど体は言うことを聞いてくれず、立ち上がろうにも腰が抜けて足が立たない。
必死で手を伸ばしてドアノブにつかまり、震える手で何度も失敗しながら内鍵を外した。次の瞬間、外からものすごい力でドアが押し開かれ、頭への衝撃とともに体がぐらりと揺れて転がった。
「いったぁ!」
目のなかを星がチカチカと飛び散る。ガンガンと痛む頭を押さえようと上げた両手をがっしりつかまれ部屋から引きずり出され、ドアがバタンと閉められた。
まさに、命からがらである。
「大丈夫? なにがあったの?」
「怪我してない?」
「小鈴?」
口々に心配の声を上げる隣人たちの腕に縋りついた。
「ひ、ひとが部屋に……」
やっとの思いで震える言葉を絞り出す。みんながもう大丈夫心配要らない、と、抱き締め頭を撫でてくれた。
「人? 人がいるの?」
うんうん。大きく何度も頷く。
「泥棒?」
「変質者かも?」
「私、見てくる!」
「危ないからダメだってば」
「警察呼んだよ。すぐ来るから待ってて!」
ここは五階。ベランダもない。泥棒だろうが変質者だろうが、出入りできるのはこのドアだけ。
床に座り込んだままのわたしを囲み、立ち、跪く全員の目は、閉じられた部屋のドアに釘づけだ。
十分と時間を置かず、近くを警邏中だった制服の警察官が来て、部屋のなかをチェックしてくれた。
大小三つある窓にはすべて、内側からしっかりと鍵が掛けられていて、侵入された形跡はなし。もちろん、ドアから出て行く隙なんてない。取られた物もなくて——怖い夢でも見たんだね、と、みんなに笑われた。
「ごめんなさい。本当にもうしわけありませんでした!」
土下座の勢いで直角以下に頭を下げたまま固まった。
とてつもなく恥ずかしい。穴を掘って入って土をかけて埋まってしまいたい。
警察官の小父さんは、ありがたいことにわたしを咎めもせず「おかしなことがあったらいつでも連絡してください。すぐに駆けつけますよ」と、真面目顔で言い残し、去っていった。
最近この辺りも物騒だしね、気にしなくていいよ。なにもなくてよかったね、と、笑いながらそれぞれの部屋に戻る隣人たちを、頭を下げて見送ったあと、パタンと自室のドアを閉めて壁に寄りかかり、はぁーっと大きな息を吐く。
心臓のドキドキが、まだ収まらない。
何事もなかったとはいえ、ものすごく怖かった。
さっきのいまでは、さすがに暗闇のなかで眠るのは気持ちが悪い。
今夜一晩くらい点けたままでいいや、と、照明を落とさずベッドへ倒れ込み、仰向けに転がって天井を見上げると——わたしを見下ろしている顔が、ニッ、と、笑った。
目が覚めると、なぜか体が重く、だるい。
「喉渇いたな。とりあえず水飲もう」
ベッドから起き上がろうと体を捻り、体重を掛けたところで腕の痛みに顔を顰めた。腕を裏返して見てみると、右腕の肘から下が赤黒い痣になっている。
「なにこれ?」
少し動かしてみれば、腕が、頭が、お尻が痛い。節々も筋肉も全身痛い。
再度そろりと仰向けになり、考える。昨夜は——。
そうだった。ものすごく怖い夢を見たのだった。
泥棒だか変質者だか知らないが、大きな顔、多分それは、体も大きな男の顔。それが、わたしの横に寝ていたのだ。
そして、目が合って、その顔がニッと笑って——そう、こんなふうに。
「リンリン、おはよう」
目の前で、昨夜と同じ顔が、ニッと笑った。
目を見開いて水槽からうっかり飛び出てしまった金魚のように口をパクパクしながら、人はあまりに驚くと呼吸の仕方を忘れるのだな、と、逃避する頭が勝手に思う。
そうだ。これは、夢。わたしはまだ眠っている。眠って、夢のなかにいるのだ。ぜったいにそうだ。いや、そうでなければならない。
「リンリン? 大丈夫か?」
嘘だ。違う。ありえない。そんなわけがない。そうだ、寝よう。寝ればいい。寝て起きれば、きれいさっぱり何事もなく、すべてはいつもどおりのはず。しかし。
ぎゅっと目を閉じても、顔が消えない。また目を開けても、結果は同じ。
叫び声を上げる直前、昨夜の痴態を思い出し、両手で口を覆った。
あるはずのない姿が、ここにある。
しばし、睨み合った。視線を外さないままわたしが体を起こすと、それも一緒に後退し、一定の距離を保っている。
ふと、目を細め、音のないため息をついたその顔が、眉を下げた。
「リンリン、オレ……」
わたしを『リンリン』の愛称で呼ぶのは、目の前にいるこの人だけで。
夢でも幻でもなんでもいい。ただ、言いたかった。
「か……い……。な、んで……」
——なんで死んじゃったの?
「リンリン……」
「なんで? なんでバイクになんか乗ったの? わたし、何度も雨の日は止めてって言ったのに!」
驚愕。怒り。後悔。悲しみ。複雑な想いが、次から次へと溢れてくる。
「カイくんのばかあ!」
カイくんの胸をめがけて振り下ろした拳がすり抜け、勢い余って顔からベッドに倒れ込んだ。蹲り声を殺して泣き続けるわたしの頭上で、カイくんが「ごめん」と言った。
大雨の交差点で、無理な運転をしていたトラックに追突された弾みで投げ出され、路面に叩きつけられたカイくんは、頭を強打。運ばれた病院で死亡が確認された。即死だったそうだ。
一瞬のことで苦しまなかったのだけが救いだと、林媽媽が真っ赤な目をして顔を歪めたのは、つい昨日のことのよう。
大切なひとり息子を亡くした林媽媽が、どれだけ辛いか。芙蓉姐が、どれだけ悲しんでいるか。みんなが、どれだけ泣いたと思っているんだ。
でも、一番辛く悲しいのは、やっぱり亡くなってしまったカイくん。
わかっている。だから。
謝るなんて、ずるいよ。
「リンリン……ごめん」
うん、と、小さく頷いた。
「媽も、姐も……おまえも、オレのせいでいっぱい泣かせて……ごめんな」
再び、うん、と、小さく頷いた。収まりかけていた涙がまた溢れる。薄掛け布団でゴシゴシと顔を拭った。
あの事故の一瞬の記憶がない。パニック状態とはあれを指すのかも知れないと、カイくんがあの日からのことをポツポツと語り出した。
頭から血を流し道路に横たわる自分と、それを取り囲む人々。大声で言い争う人。電話をかける人。救急車やパトカーのサイレンが鳴り響き、その一連の騒ぎを唖然と眺めていたカイくん。
運び込まれた病院で、自分の体に縋りつき、泣きながら名を呼ぶ林媽媽の姿を目の当たりにして、自分の身に起きた事実を自覚し震えたのだ、と。
「オレはここにいるって言っても、媽に聞こえないんだ。目の前に立ってるのに、媽はオレを見ないんだよ」
カイくんの目からぽろっと溢れた一粒の涙が、薄掛け布団に落ちた瞬間、パッと光って消えた。
日々続けられる葬送の儀式。カイくんを想い、流される涙。みんなの疲れた顔。伝えたかった言葉。どんなに悔やんでも死んでしまったカイくんには、なにひとつできず。ただただ、眺めていることしかできなかったのだそう。
「リンリンのウエディングドレスよく似合ってた。きれいだったよ」
「……見てたの?」
思わぬ褒め言葉に、頬が仄かに熱を持つ。
「うん」
「そっか……」
「それも。着けてくれたんだな。凄く似合ってる」
「うん」
首元を彩る青い石を、そっと握った。
「リンリン、ありがとな。おまえが媽のそばにいてくれて、本当によかったと思ってる」
「カイくん。わたしも、ありがとう。夢のなかででも会えて、うれしかったよ」
「えっ?」
カイくんの表情が消えた。
「え?」
「はぁ? なんで勝手に夢にしてんだよ?」
目を細めたカイくんの眉間に、不愉快そうな皺が寄った。
「なに言ってるの? これ、夢じゃない!」
わたしの視線がキツくなるのも、自然な反応。
「夢じゃねえよ。疑うんだったら、抓ってみろ」
「はぁ? 嫌だよ。痛いもん」
「ばーか」
そんなばかな話があるか。
「だいたいね、なんで死んでるくせに、夜中に人のベッドに、しかも隣に寝てるのよ? そんなの生きてたって許せないけど。いや、そういう話じゃなくて、あのね、カイくんのおかげで隣近所に迷惑かけるわ、恥はかくわ、警察まで呼ばれるわ、体中痛いわ——あ!」
「叫ぶな!」
両手を握り締め目を見開くと同時に、大きく開いた口を閉じた。
危ない。カイくんの静止があと零コンマ一秒遅ければ、昨夜の痴態を再演するところだった。
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