中秋節

 食欲を刺激する香ばしい匂い。

 宵闇迫る中秋節、街中の空気は焼き肉色に染まる。つまり、煙い。


 台湾ではなぜか、中秋節の夜はバーベキューと決まっているらしい。だから今宵は、道端のそこかしこに、バーベキューを楽しむ集団がいる。

 当然、わたしも例外ではなく、その集団のひとつに紛れ込んでいるのだ。


 曉慧の家の前には、バーベキューコンロはもちろん、屋外用の大きなテーブルとベンチのセットが設えられ、車が追い出されたガレージには、メインの肉以外にも、多種多様の食材とドリンク類の箱が積み上げられている。


 焼きの主役は、曉慧のお父さん。普段から料理をしているのか、コンロの前に立つエプロン姿がサマになっている。

 アマンダは「バーベキューの血が騒ぐ!」と、張り切って、お父さんの隣で焼き上がった肉にタレをペタペタ。ちょっと塗りすぎじゃないのか。

 曉慧のお兄さんは、食器や箸を準備したり、できあがった料理を運んだり。かいがいしさに目を見張ってしまう。

 曉慧と彼女のお母さん、兄嫁さんに篠塚さん、そして、芙蓉姐とわたしの六人は、テーブル組。

 立ち働く彼らを眺めながら、前菜の枝豆とサラダをつまみ、台湾ビールを煽る。いい気なものだ。


「ほい、おまち! 第一弾はアマンダ特製ダレつきアンガス牛リブアイだよ。次々焼くから熱いうちにさっさと食べてね」

「わー。いい匂い!」


 曉慧が早速箸をつけようとしたその手を、お母さんがぴしゃりと叩く。


「曉慧! お客様が先でしょう?」

「あ、そうだった。失礼しました。 修哥シィウガー、熱いうちにどうぞ。食べて食べて」


 香ばしい肉と甘辛いタレの香り漂う山盛り肉の紙皿を、曉慧が篠塚さんの前に差し出した。


「曉慧、ありがとう」

「へへ。どういたしまして」


 ちょっとバツが悪そうに曉慧が肩を竦めて笑う。


 アマンダに「おいしいお肉をたくさん食べさせてあげるわよ」と、篠塚さんが呼び出されたその先は、まさかの曉慧の家。

 篠塚さんは曉慧に優しい眼差しを向けながらも、彼女一家との初対面に少々緊張している模様。


「小鈴も。まったく箸が進んでないんじゃない?」


 曉慧のお母さんに指摘され、そんなことはないと言おうとしたが、目の前には明らかに未使用の取り皿が。


「ほら、食べて食べて!」

「ありがとう、小母さん」


 取り分けられた焼き肉を早速ひとくち。甘辛さのなかにピリッと効いたスパイシーな香りが、香ばしく焼けた肉の甘みと相俟って味わい深い。

 このタレ、なかなかイイシゴトしているじゃないの。


「どう? おいしいでしょう?」


 焼き上げたトウモロコシやタマネギ、ピーマンなどを山盛りにした皿をテーブルの中央にどんと置いたアマンダが、自慢げに胸を張る。


「うん。すごいよ。おいしい」

「でしょでしょ! このソース、我が家秘伝の味なのよ。野菜も食べてみて。おいしいわよー」


 隣に座り込んだアマンダが、缶ビールに手を伸ばした。プルタブを開けグイッと煽り、新しい缶をもうふたつ手にして戻っていく。

 それはそうだ。焼き方だって飲みたいに決まっている。


「いいなぁ。私もビール飲みたい」


 箸を咥え、口を半開きにしたまま缶ビールの行方を目で追う芙蓉姐が、恨めしそうにため息をつく。


「小蓉、あなたはもうすぐお母さんになるんだから。ビールは諦めなさいね」

「そうだよ、芙蓉姐。いっそこれを機会にお酒止めちゃえばいいんじゃない?」

「えー? 絶対嫌よそんなの」


 新婚ほやほやで赤ちゃんまで授かり幸せいっぱいの芙蓉姐が唯一、辛いこと。それは、お酒が飲めないことらしい。


 不満げに口を尖らせ曉慧を睨みつける芙蓉姐をみんなが笑う。お酒を飲まない芙蓉姐なんて、誰も想像できないようだ。


「小父さんたちは? 座らなくていいの?」

「いいのよ。ウチのバーベキューは男の仕事。手出し無用なの」


 ビールを飲みながら焼きに徹する彼らに目を向けると、曉慧のお兄さんが焼き上がったばかりの骨つき肉に齧りついているところだった。豪快だ。


「なんだかちょっと気が引けるな。僕だって男なのに、ひとり座って飲み食いしてるなんて」

「いいのよ。修哥はお客様なんだから」

「そうよ、修。遠慮しないで。ほら、冷めたらおいしくなくなっちゃうから、熱いうちにどんどん食べて」


 曉慧親子の接待攻勢に、篠塚さんはタジタジだ。次々取り皿に盛られる肉や野菜を前に苦笑している。その様子を眺めながら、パイナップルビールをひとくち啜った。


 ふと、頬を掠める風に誘われ、空を見上げる。


 建物の合間にぽっかり空いた濃い藍色の空間には、星ひとつ見えない。熱と湿気がじっとりと肌に纏わりつく。雨が、降ってきそうだ。


 昼間、霞海城隍廟で遭遇したあれは、なんだったのだろう。


 突然、金縛りに遭ったように動かなくなった体。

 頭の芯に直接響く、あの低い声。

 月老と呼ばれるあの人は、間違いなくわたしを『林美鈴』と呼んだ。


 なぜわたしの名前を知っていたのか。以前どこかで会ったことがあった?

 いやそれは、あり得ない。あんなに印象的な人だ。一度見たら、忘れるはずがない。


「小鈴? 食べてる?」

「あ、うん……」

「どうしたの? 具合でも悪いの?」

「いえ、そういうわけじゃなくて」

「そういえば少し痩せたんじゃない? 大丈夫? ちゃんとご飯食べてる?」


 曉慧のお母さんが心配そうに眉間に皺を寄せ、わたしの頬に掌を当てた。


「勉強だけでも忙しいのにウチのためにいろいろしてくれて……店の手伝いまでさせちゃってるし。疲れが溜まってきてるのかも? 小鈴、ごめんね」


 芙蓉姐は、もうしわけなさそうに眉を下げる。


「芙蓉姐、それはないよ。大丈夫。いまのは、ちょっとぼーっとしてただけだから」

「あ、そっか。わかった。あんた——」


 突然ぽんっと手を打った曉慧が、「奇哥チーガー! 小鈴の腸詰めまだぁ?」と、大声で叫んだ。


 なんだ、お腹が空いていただけだったのね、と、みんなが一様に納得する。


 どうしてみんなそれで納得しちゃうのよ。

 内心ちょっと拗ねつつ、パイナップルビールをまたひとくち啜った。


「ねえ、小鈴はあと三ヶ月でしょう? 語学学校終わったらどうするの?」

「どうするって……いまのところは帰るとしか」

「そっかぁ、やっぱり帰るんだよね……」


 曉慧が残念そうな顔でぼそっと言う。


「こっちの大学への編入や就職は考えなかったの?」

「いまとなっては、それができたらいいなと、思う気持ちもあるんだけど……」


 カイくん一家や曉慧たちと別れて日本へ帰るのは、わたしだって寂しいし、できることなら帰りたくないと思う。だが、このままいられるわけではないから、仕方がない。


 あと三ヶ月か。ああ、どうしてちゃんと先々まで計画してから留学しなかったんだろう。


「小鈴には日本に戻らなければならない事情があるのかな? もし特別な事情がないんだったら、せっかく中国語を勉強したんだし、いまからでも遅くないよ。こちらで生計を立てることを考えてみてもいいんじゃない?」

「そうだよー。帰るなんて言わないでさ」


 せっかく仲よくなったのに小鈴が帰ったら寂しくなるわと、曉慧のお母さんも残念そうにしている。


「まだ若いんだから、やりたいことはやれるうちにやったほうがいいと、僕は思うよ」

「若いうちって、修だってまだ若いじゃない」


 年寄り臭い発言をしている篠塚さんの年齢は、たしか、三十歳ちょっと手前くらいだったはず。


「僕はもう三十路だからね。先も見えてくる年齢だし、そうそう冒険はできないかな」

「私は三十歳になっても冒険していたいけどな」

「曉慧は夢追い人だもんね」

大嫂ダーサオ! それを言うなら、夢を着実に実現する人って言ってよ」


 口を尖らせビールを煽る曉慧を「ハイハイそうよね」と、兄嫁さんが軽くあしらう。曉慧のピッチが速い。そろそろ酔いが回ってきているようだ。


「修はずっとこっちにいられるの?」

「僕ですか? 僕は——まだしばらくはいられると思いますけど。こちらに来てもうじき一年になるので、いつ呼び戻されるか、って、ところですかねぇ。こればっかりは本社次第だから、僕にはどうしようもないんですが」


 お仕事じゃ仕方がないわよね、と、相槌を打つお母さんの傍らで、曉慧がまた新たなビールを開け、口をつけた。


 わたしも、またまたひとくち、ビールを啜る。なぜだろう。今日はお気に入りのビールがおいしく感じられない。


 彼らの話に耳を傾けながらも、ふと気を緩めると昼間の場面が繰り返し脳裏に浮かび、月老の言葉が頭のなかで木霊する。


『林美鈴——おまえの縁は、難儀だな』


 見ず知らずの他人に、なにがわかるの?


『天空碧か……よくもそんなものが手に入ったものだ』


 天空碧ってなに?


 突然、シャーッと音が聞こえたと思ったら、眩しい光が目に飛び込んできた。咄嗟に手の甲で瞼を覆う。


「な、に? まぶし……」

「小鈴、目が覚めたかい?」

「……!……」


 ハッと目を開いて声の聞こえた方向に顔を向けると、日の差し込む明るい窓を背にした林媽媽が笑っている。

 見覚えのある天井、見覚えのある壁紙、見覚えのある家具——キョロキョロと辺りを見回せばそこはなぜか、林媽媽の寝室で。


「えっ? なんで?」

 ——バーベキューは?


「お腹空いただろう? 朝ご飯できてるから、さっさと起きて顔洗っといで」


 ケラケラと笑いながら部屋を出て行く林媽媽のうしろ姿をぼーっと見送る。

 いったいなにがどうしてこうなっているのか。寝起きの回らない頭を無理矢理働かせてはみたものの、思い出せないものはやはり、思い出せない。


 くぅ——っと、空腹を知らせる切ない音が鳴る。


「まあいいか。とりあえずご飯」


 腹が減っては戦ができぬ。べつに……なにかと戦うわけじゃないけれど。寝乱れた髪と衣服をざっと整え、顔を洗いにバスルームへ入った。


「小鈴、おはよう! って、変な顔!」


 芙蓉姐がぷっと吹き出した。


「芙蓉姐……」

 ——そんなに笑わなくても。


「ほら、突っ立ってないで早く座ったら?」

「……うん」

 ——まるで狐につままれたような気分だ。


 芙蓉姐の隣に腰を下ろし、ほかほか湯気を立てているお粥の茶碗を林媽媽から受け取った。


 今朝のおかずは、定番家庭料理、卵とトマトの炒め物と、キュウリの和え物。それと。


「わー、腸詰め!」


 甘い腸詰め——台湾ソーセージは、林媽媽の魯肉飯に次ぐ、わたしの大好物だ。

 早速、皿から一切れ取って齧る。うーん。おいしい。


「小鈴、昨日食べ損なったでしょ。目が覚めたら絶対に悔しがるだろうから、焼いてないやつもらってきたのよ」


 昨日と耳にして、二切れ目に伸ばしかけた箸が宙に浮いた。


「え……っと、昨日は……」

「あはは。昨日ねぇ。どこまで覚えてる?」


 芙蓉姐の目が、戸惑うわたしを面白そうに笑っている。


「うう……。ビール飲んでそれから、焼き肉が出てきて、それで……」


 どう頑張っても、やはり思い出せるのはそこまでだ。


「その先は覚えてなくて当然よ? 小鈴ったら、静かになったと思ったら、座ったままビールの缶握りしめて寝てたんだもの」

「わ、わたし、寝ちゃった、の?」

「そうよー。おかしいわよね? まだ缶半分も飲んでなかったんだから、酔うはずもないのに。もしかして、どこか具合でも悪いんじゃないの? 風邪でも引いた?」

「うーん。どこも悪くない……と、思うけど?」

「本当に? どこも変わったところはない?」

「うん。べつに。いつもどおりだよ?」


 熱があるわけでも喉が痛いわけでも頭痛がするわけでもないから風邪ではないだろうし。体を冷やしたり、食べすぎたりも——思い当たる原因はなにもない。

 それなのに、一般的なビールよりもアルコール度数の低いパイナップルビールを、たった缶半分飲んだだけで寝てしまうなんて。普段のわたしではありえない。


「やっぱり無理させちゃってるのかな? 小鈴、ごめんね。私がこんなじゃなきゃもっと動けるんだけど」

「そうだよ小鈴。店だって人を雇えばいいんだからね。キツかったらちゃんと言うんだよ。若いときの無理は年取ってから祟るんだから」

「大丈夫なんだけど……うん。気をつけます」


 そもそもあんたは食が細すぎるんだからたくさん食べて元気をつけなさい、と、林媽媽がわたしの茶碗に卵とトマトの炒め物とキュウリを積む。


「それでね、雨も降り出したし、そのままにして病気になったら困るから先に休ませようって、家まで運んだのよ」

「うん……。ごめんなさい。お手間おかけしました」

「謝る必要なんてないよ。ちっとも手間なんかじゃないんだから」


 林媽媽がどんどんお食べと、山盛りの茶碗にさらに腸詰めを積み上げた。

 いくらなんでも朝からこんなにたくさん食べられないってば。


「それで? バーベキューは?」

「ああ、バーベキュー? そりゃもちろん、あんたを寝かせてからガレージに移動して続行したわよ?」

「……ガレージ?」

「だって、雨が降ってきたんだもの」


 あたりまえでしょう、と言う芙蓉姐に林媽媽も頷いている。なんでだ。

 天気の変化を見越して最初から車が追い出されていたとは。バーベキュー愛、凄すぎ。


 気を取り直して茶碗の山を崩すべく取りかかった。完食できる気はしないが。


「そういえばさ、修って優しいわよねー。曉慧とアマンダがあんたを起こそうと頑張ってたのよ。でも、ぜんぜん起きなくてさ。それを見てた修が、無理に起こすのはかわいそうだから僕が運びますって、あんたを背負ってマーのベッドまで運んでくれたのよ」

「うそっ? ぐっ……ごほごほっ」

「小鈴! ちょっとなにやってるの」

「大丈夫かい? ほら、お湯飲んで!」

「う……」


 危うく腸詰めで窒息するところだった。


 酔って正体をなくして篠塚さんに背負われ運ばれただなんて。恥ずかしすぎる。


「世話になったんだ。修に小鈴媽媽がごちそうしたいからって、ウチに連れといでよ」

「そうね。時間があるときにでも寄って、ご飯食べてもらえばいいわ」

「え、でも、そんな……」

「なに遠慮してるんだい? ウチの娘が世話になった人に媽媽がお礼をするのは当たり前だろう?」

「林媽媽、芙蓉姐……ありがとう」

「まったく、この子はまた!」

「あ、ごめんなさい」

 ——しまった。また他人行儀だと叱られてしまう。


「媽! これも小鈴のいいところだから。ね? そうでしょう?」

「ああ、そうだね。わかってるよ」


 優しい笑顔の林媽媽に見つめられながら、山盛りの朝食を必死で口へ運び——



 ——完食しました。




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