拜拜
月老が祭られている廟は台湾全土にあり、台北にも数カ所ある。
そのなかでもレトロな街並みの問屋街で知られる
当然のことながら、今日も参拝客で大賑わい。
その喧騒をかき分け、入り口でお参りセットを購入し一歩足を踏み入れれば、線香の香りと廟の醸し出す一種独特な雰囲気に、気持ちが引き締まる。
「曉慧!」
手を振りながら小走りでやってきたのはアマンダだった。
「アマンダ?」
「遅いよー、どれだけ待ったと思ってるの?」
「アマンダ、ごめんね。小鈴も連れて来たかったから、林媽媽のお店に寄り道してたの」
むくれるアマンダに曉慧がごめんと手を合わせる。
「どうせ鶏肉飯目当てで行ったんでしょう?」
「えへ、バレたか」
アマンダはわたしと同じく中国語を学ぶ留学生だ。
アメリカ国籍の華僑ゆえか、わたしより三ヶ月遅く来たにも関わらず、中国語の実力は上級クラス。ただし、読み書きはさっぱりだから、わたしと同じ中級クラスで学んでいる。
出会ったばかりのころは、言葉の壁があるうえに積極的なアマンダに押されるばかりだった。
だが、いまでは意思の疎通もバッチリですっかり仲よしで、同じ留学生同士だからこそわかる勉強や生活の悩みを、誰よりも気軽に話せる友人だ。
アマンダはカイくんの友人たちともすっかり馴染んでいる。
ちらちらと漏れ聞こえる会話と雰囲気から察するに、特に曉慧とは個人的な秘密をも共有する間柄になっているよう。
紹介したのはわたしなのに、いつの間にやらすっかり蚊帳の外とは、ちょっと妬ける。
「もうなんでもいいから、早くお参りしようよ。あたし、朝からなにも食べてないから、お腹空いて死にそう!」
「アマンダってば、またダイエット?」
「うん。お腹周りがちょっと気になって」
嘘つけ。
横に並んだわたしが卑屈になるくらいのナイスバディ。食べすぎたって太らない体質のくせに。贅沢な。
「それ、嫌み言ってる?」
ほらみろ。曉慧も同意見だ。
「なんでそうなるの?」
言いたい放題しつつも、ひとたび神様と向き合えば、ふたりともその表情は真剣そのもの。
お参りの順に沿って、まずは天公にご挨拶。その後、家内安全や商売繁盛、学力向上など、それぞれの御利益がある神様すべてと菩薩様に、名前、生年月日、住所を告げ、心のなかで丁寧に願い事をする。
「小鈴、好い人と出会えますようにって、ちゃんとお願いするのよ」
「わかってるよ」
そうは言ったものの、わたしの願いは違う。
どうせバレやしないしね。
『神様、お願いします。林媽媽が元気になりますように。芙蓉姐の赤ちゃんが、無事に産まれますように』
カイくんを亡くした悲しみを堪えて気丈に頑張る林媽媽が、心安らかに暮らせること。それが、いま、わたしの一番の願いだ。
「ちゃんとお願いしたでしょうね?」
「あー、したした。ちゃんとしたから、もういいでしょう?」
信用がないのはわかっているのだけれど。曉慧はしつこいんだから。
まあいいじゃないの、と、笑って見せれば、その向こうのアマンダが諦めろとばかりに苦笑している。
「ホント、小鈴は人のことばかりじゃなくて、自分の心配もしたほうがいいわよ」
「そういうあんたは、小鈴の心配ばっかりしてる」
「煩いわね。あんたは自分の心配だけしてればいいのよ」
お参りのあとの甘茶をいただきながら、曉慧からまたお説教を喰らった。
お説教をされるのが好きなわけではないけれど、なんでもはっきり言ってくれるのは、うれしいと思う。
曉慧だけではない。アマンダも、友人たちも、カイくんとその家族もだ。優しい人ばかりに囲まれて、わたしはとっても恵まれている。
「ねえ、ちょっと! あの人……すごく格好よくない?」
「うん?」
美しい人——老若男女を問わず、に、目敏いアマンダが指差す方向へ目を向けると、この蒸し暑さのなか、ダークカラーのスリーピースをスマートに着熟す長身のナイスミドルが、誰かと話し込んでいた。
「わっ! あれ、月老よ!」
「月老? 誰?」
「なによ? 月老知らないの? この界隈じゃ知らない人がいないほどの有名人なのに」
月老といえば、月下老人。さっきお参りした長い髭のお爺さんの神様ではなかったか。それにしても。
あの紳士然としたスタイルは、月老とは似ても似つかないのだが。
そりゃそうか。名前は同じでもさっきの人は生身の人間。神様の月老が実在なんてするわけがない。
「すごい。月老に会えるなんて! なんかもう一生分の運、使い果たしちゃったみたいな気がする」
なんと大げさな。
曉慧の目はキラキラと輝き、頬はピンク色に上気している。
「カッコいい……」
「きゃあ! こっち見た!」
それはそれは見事に色気たっぷりの流し目に射貫かれた、ふたりの女。
スターか。
サインでももらいに行きそうな勢いだな、と、思うが早いか、ふたりはすでに月老と呼ばれるダンディなその人に向かって走り出していた。
「月老! ファンなんです! サインもらえますか?」
「握手してください!」
ちゃっかりサインと握手を強請るふたりの燥ぎように、開いた口が塞がらない。
ここは他人の振りをしたいところではあるが、あちらもきっと迷惑に違いない。
自分の連れだし、やはり止めに入るべきだろうと一歩踏み出したところで、ふと目を上げた月老の視線が、わたしの視線と交わった。
「あ?」
——足が、動かない?
目だけが、ゆっくりと歩み寄ってくる月老を見据えたまま、まるで金縛りにでも遭ったかのように、突然体の自由が利かなくなった。
なんなのこれ?
焦り混乱しているわたしの目の前で足を止めた月老が、わたしの全身を舐めるように見ている。そして最後に、首元をじっと見つめた。
「天空碧か……。よくもそんなものが手に入ったものだ」
言われている意味はわからないが、その低い声になぜか体中の産毛がぞわぞわと逆立った。
強く見透かすような漆黒の瞳に見つめられ、背筋を冷や汗が伝う。ゴクリと、唾を飲み込んだ。
どれくらいの時間が経っただろう。ふっと月老の口元が緩んだのを機に、体中の緊張が解け、脱力すると。
「林美鈴——おまえの縁は、難儀だな」
「え?」
——なにを言っているのこの人?
「体調が悪かったり、なにか不可解なことがあったりしたら、相談に来なさい」
名刺大の紙を差し出されるのと同時に、わたしの手が勝手にそれを受け取った。
自分の体が自分のものではないみたいなこの感覚。いったいなにが起きているのだろう。
「小鈴だけ、ずるーい」
「ねえ、月老になにもらったの?」
ふたりの声が耳に響くと同時に、静寂が打ち破られた。我に返ったときにはすでに、月老の姿はなく。握らされたその紙を、曉慧とアマンダが興味深げに覗き込んでいる。
それは、なんの変哲もない白無地の名刺に印刷された文字——月老婚姻紹介所。ゆっくりと裏返すとそこには、所在地らしき略図がある。
「ねえ、月老婚姻紹介所……って、なぁに?」
「なによ? アマンダ。あんたまで知らないなんて情けない。月老婚姻紹介所っていえば、成婚率百パーセントを誇る、台北一の超有名な婚姻紹介所よ」
婚姻紹介所とはつまり、日本でいうところの結婚相談所のようなものだろうか。
「百パーセント……」
成婚率百パーセントとは、ずいぶん大きく出たものだ。
「ねえ、曉慧。成婚率百パーセントなんだったら、いっそ神様の月老にお願いするより、こっちの月老に相談したほうが、早くて確実に結婚できるんじゃないの?」
アマンダ、よく言った。それ、正論です。
「えー? だってそれじゃあ……」
「あ、そっか。別の人紹介されても困るもんね。曉慧には愛しのしゅ——むぅううう」
瞬時に顔を沸騰させた曉慧が、アマンダの口を塞いだが、もう遅い。
アマンダの目配せが、代わりに問えとわたしに言っている。
「ねえ、曉慧。篠塚さんとはどうなってるの? そこら辺のこともちゃんと聞かせてもらわないと」
曉慧の想い人、
日本人離れした長身と涼やかな目元が特徴的な、落ち着いた物腰で大人の魅力たっぷりだが、茶目っ気もある楽しい人。
わたしたちは、曉慧を誘って参加した語学学校の校外イベントをきっかけに仲よくなった。
「煩い! 私のことはべつにいいのよ。それよりあんたでしょ、小鈴。あんたこそ名刺もらったんだし、ちょうどいいじゃない。相談に行きなさいよ」
「なんで話戻ってくるかな……」
「行く! あたしが行く! それであの流し目のきみを……」
「アマンダ?」
「それ! 本末転倒!」
「どうして? いいじゃない」
「アマンダ、あんた、守備範囲広すぎ」
「曉慧、あんただってサインもらってたでしょう?」
「それとこれは、別よ」
また始まった。
漫才のようなこの掛け合い。ふたりはいつでも面白い。
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