私の貧しいところは
子どものとき、よく母がスーパーへ買い物へ行くのについて行った。私はお菓子を買って欲しいと自分から言ったことがない。「明日お友達の家に持っていくから」とか、免罪符となる理由があれば言えた。
具合が悪くて保健室で休みたくても、どうしても手を挙げられなかった。もしも先に誰かが「保健室に行きたい」と言ってしまったら、もう本当に諦めるしかない。
一度だけ勇気を振り絞って「英会話教室を辞めたい」と母に言ったことがある。なぜそれほどの勇気を振りしぼれたのか忘れたが、とにかく言ってやった。
すると、母は激怒した。
「大人になったらどんなに嫌な上司に当たっても我慢して働かなきゃいけないの。先生が嫌だから辞めたいなんて、甘ったれたことを言うな」
めちゃくちゃなことを言う。しかし母は死ぬほど前向きで、鋼より強い心身の持ち主なので、とっくに還暦を過ぎた現在でもそのスタンスを貫きお元気に働いている。
ちなみに、後日塾で保護者面談のようなものがあったとき、父が「あのクソババア!」とキレたことで、私は無事クソババアの英語塾から解放された。
つまり何の話かと言うと、私は昔から言いたいことを言えないタイプだった。大志を抱いても表明しないので叶わない。だから夢は夢のまま、私にとってはそうだった。
そういえば中学時代はあまりにも志望校を決められず、担任の前で泣き出したことがある。
なにしろ大事なことは大抵母が決めるものだった。当時は「こんな理由でこういう学校に行きたいが、この点を重視してこの高校を第一志望にする」という考え方が多分できなかった。
話は変わるが、以前に芸能事務所にてレッスンの様子を見せてもらったことがある。
バカみたいな感想だが、彼女たちは自分で演技や声の仕事をしたくて事務所に入ったのだな、と思った。世間一般ではそんなことは当たり前だ。しかし私にとってはとても勇気あること、凄いことに思えた。
もし私が学生時代に彼女たちと同じ志を持っていたとしても、家族に向かって「芸能事務所に入りたい」なんて、口が裂けても言えなかったに違いない。
と、こんなんはもうTwitterに書けよ、みたいなどうでもいい前置きである。もしももっと共感して感情移入したくなったら「凱歌のロッテ」の一章を読んでください。
ここから先は「まあ実は私ってそんな感じだったんですよね~」という前提でもって読んでほしい。
昨今はあちこちで自己肯定感という言葉をよく聞く。個人的にはこれを高いとか低いとか言うことにやや違和感がある。肯定しているかしていないかが焦点ではないのか? いうたら「ある」か「ない」かのどちらかでは? みたいな。
もちろん「自己肯定感がとても高い(強い)」というパーソナリティがどのような感じかはわかる。高い低いの形容は絶妙なニュアンスを表現するのに便利であるな。
先に結論を言ってしまうと、なんとなく近頃「兎にも角にも自己肯定がなけりゃ始まらないよな」と思えてならない。
例えば、好きな若手俳優「残雪っち」のインスタグラムをフォローしているファンが「誰も俺なんかに期待してないと思うけどね……」みたいな投稿を見まくったらどう感じるか。
「いや、私この前のミュージカルでも差し入れしたし、インライでも毎回めちゃくちゃコメントしてるし、先月のイベントではチェキ券四枚買ったし、現在進行形でCD積んで来月のバーイベ全通狙ってんだが? 私はおまえの中では存在してない人間なんか? どういうことや?」
ってちょっとカチンと来るんじゃないか。
そこまでしているファンでなくとも「この人はダンスがかっこいいって、友達と話してたばかりだったのに、印象悪いな」となるかもしれない。
実在する若手俳優たちは自分を否定するような言葉を投稿をしない。
「辛かったけど、ファンのみんなが支えてくれるから頑張らないとね!」
と言う。
いまどきは、ファン一人一人を大切にしない俳優はウケないのである。
とはいえ、本当に残雪っちが心の底から「自分は誰にも期待されていなくて価値がない」と感じているタイプなら、いくらファンから賞賛されても「そんなことはない」「優しい人が気まぐれに優しいことを言っているだけで、本当の自分はダメなやつのままだ」としか感じないかもしれない。
その本音をひたすらに隠して仕事を続けていれば、ふとした瞬間に自己肯定感のある人間に転じる……ということもあるだろう。実際に以前、そういった話を俳優業の方から聞かせて頂いた。
健康でダンスが上手い俳優の残雪っちは、諦めなければいつかは人生を変える好機に巡り合うかもしれない。だが、不健康で左右反転でしか踊れない初雪っちはどうだろう。
世間ではよく自己肯定感を上げよう、と言う。
上げようと思って上がるものなのだろうか、これ。
先に述べた通り、私は自己肯定って「ある」か「ない」かのどちらかだと考えている。実は私は「ない者」なので、どうしたら「ない」から「ある」状態へ変えられるのか、本当に想像がつかないのだ。
進路志望先の決め方がわからず、思わず泣いてしまった頃のことを思い出す。
新しいことに挑戦して一定の成果を上げられる人は、自己肯定感が「ある」ように見える。もちろん実際はそうでもなくて、そのように振る舞っているだけかもしれない。それはそれで、ますます「ある」ように見せること自体が大切なのでは? と思えてくるのだが。
自己肯定感がない、あるいはありすぎることの弊害として、個人的には「自分の能力や美点(武器)を正確に把握していないこと」を真っ先に挙げたい。
「これまで客観的に自分のアピールポイントを量れないせいで自分をうまく売り込めないから、就活や婚活など様々な場面で苦労した」
と書いたら「それな!!」と言う人も多いだろうか。
必要以上に卑屈であるとか自信過剰な状態はつまり、自分への偏見が強いということだ。
私の場合、自分に関するすべてのことに上手な自己採点ができず悩んでいる。自分はダメなやつだから……という偏見が本当に邪魔くさい。邪魔すぎて前が見えない。
今日なぜこんなことを書いたかというと、夢を見たからである。
まるでデッサンの講評のときのように、私の小説が誰か知らない大人達に講評される夢だ。局部的にしか覚えていないが、とにかく全然ダメみたいなことを言われた。
曰く、私の作品は書き手の思い込みが激しいので、何が書いてあるのかさっぱりわからないらしい。さすが自分の夢、私が最も恐れている点を的確に突いて来る。
夢の中で私は、自分の見ている世界はやはり歪んでいるのだとはっきり思い知らされて、世界のすべてがガラガラと崩れ落ちて無になるような心地がした。
しっかりとした自己肯定の土台があれば、夢から醒めた後も「やっぱり自分の作品は歪んでるのかもしれない……」なんて不安にならないだろうに。
私の貧しい自己肯定感。クリエーターの端くれとしては、こんな歪みフィルターと死ぬまで付き合っていくなんてまっぴら御免だが、どう努力したらこれが改善できるのか見当もつかない。
これからも私の夢は夢のまま死んでいくのだろうか。自分の中にどれほど気高く豊かな大志が生まれても、私はそれに気づきもしない。「これは私の夢」と名付けもしないまま、いつしかぼんやり消えて無くなる。
現在は昔よりだいぶ要望を言えるようになったと思うが、未だに私はいくつもの夢を自覚なく、みな殺しにしているのかもしれない。
いやマジでな。どうしたらええんかな。
自然と解消する可能性もありそうだが、おそらく生涯抱え続ける厄介な問いとなる気がする。
とりあえず、初雪っちは応援ハートを押してくれた人のことは生涯大切にします。
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