それは海から来た

陶木すう

 『それは海から来た』と私は書いた。


 ――青緑色の波が白く泡立ちながら、繰り返し打ち寄せる。打ち寄せる波以外、特に何もない、穏やかな海面が黒く翳って見えるような気がする。単なる光射す海の陰影か、海藻か、魚の影のようにも見える。――


 私はこれまで何度か、海の話を書いてきた。

 海から混沌や恐怖をもたらす何かが現れて、主人公の日常を脅かされる話だ。あるいは主人公が海に向かい、そこで怪異に出会う。

 繰り返し海の話を書くのは、小さな頃から海の話に魅せられてきたからだ。

 特に海の近くで育ったというわけではない。実家に一番近い海と言えば、混んだ電車を乗り継いで行った先にある、固められたコンクリートの浜辺から眺める、波の立たない川のような灰色の海辺だ。

 小さい頃、表紙に大きな渦の絵のあるホラー小説を読んだことを覚えている。嵐に荒れた海で、船の高さよりも高い波に巻き込まれる話だ。主人公はからくもその渦から逃れて生き延びる。

 潜水艦に乗った人が深海で溺れ死ぬ映画を観たときは、夜、なかなか眠れなかった。映画の最後に悪人が一人、潜水艦で逃げようとする。しかし小さなカプセルみたいな潜水艦の窓が割れて、あっという間に溺れ死ぬ。悪人がいなくなったのだから、観客にとって安心する展開なのだろうが、その死に方は怖かった。

 灰色の海しか知らない私は、高い波の立つ海、深い海があることを想像できなかった。溺れる可能性がある川やプールでも、深さは一メートルちょっとだ。それを何百メートルも下に潜り、光の射さない、真っ暗で海の底に行く。冷たい海水とは、潜水艦の壁一枚しか隔たっていない。事故があれば逃げ場はない。


 ――不意に緩やかにうねる波が不自然に盛り上がり、合間からどろどろとした何かが姿を現す。それは人の形に似ていたが、手足は人より細く長かった。表面は焼け爛れた皮膚のような、あるいは黒い泥のようなもので覆われていて、波間からそれが這い上がると、潮の匂いに混じって、むっとするような悪臭が鼻をついた。――


 映画や小説のなかで描かれる、恐ろしくも美しい海をあまり見たことがないから、かえって強く惹かれるのかもしれない。波の立たない海と比べて、荒々しく泡立つ海は生きているように思える。




 私がその土地に旅行をしようと思ったきっかけは、一通のダイレクトメールだった。

 そのダイレクトメールはそもそも私宛てではなかった。『日野紬様 先日は当ホテルのご利用ありがとうございます』という、知らない宛名から始まる、リゾートホテルからのものだった。この『日野紬』という人は、おそらく私のメールアドレスと似た綴りのメールアドレスを持っているのだろう。メールの内容は当たり障りのない、ホテルの宿泊プランの紹介だったので、私はあまり見ることもなくメールを捨てた。それから一ヶ月ほどして、またホテルからダイレクトメールが届いた。見るともなしに見ると、美しい海や品の良いホテルの部屋の写真が並んでいる。こんな部屋でゆっくりできたら良いなと思うような写真だった。

 リゾートホテルのある場所は、名前を聞いたことがあるかもしれないという程度だったので、インターネットで検索すると、やや寂れた観光地といった趣の写真と記事が出てきた。以前は人気のあった観光地なのかもしれないと私は思った。海の写真に見覚えがあるような気がする。懐かしいような気持ちにさえなる。もちろん行った記憶はない。

 『原風景』と言ったらおかしいだろうか。

 海に惹かれて話を読むうちに、行ったことのない架空の海を繰り返し、思い描いていたのかもしれない。あるいは本当に、この場所をモデルにした話があるのかもしれない。

 朝焼けに、夕焼けに、表を変えた海の写真がたくさんある。淡い鴇色の空からターコイズブルーの海まで。沈む朱色の夕陽に焼けた海面、極彩色に光る雲がかかる空は徐々に端から夕闇に沈み暗くなっていく。

 その海を見て、昔の人々が極楽浄土を幻視したのも理解できる。浜辺は白い砂が広がり、海の上には小さな島がいくつかあるほかは遮るものもなく、空と海の境界は曖昧で、夕陽に光る雲と海の間を進んだ先にあるものを想像するのはたやすい。

 そこは昔から人気のある観光地の一つだったが、しかし十数年前に、その浜辺で大規模な火災が起きてしまった。単なる火災事故だけではそれほど話題にならなかったかもしれない。火災事故に加えて、杜撰な管理と貧弱な防災体制が重なり、被害は小さくなかった。おりしも観光客の多い夏期休暇の頃で、その火災事故のニュースは全国に流れた。翌年から観光客は一気に減った。

 それから十数年経ち、事故の記憶も薄れた今、再開発が進んでいるようだ。もともとの美しい景観が失われたわけではない。人でごった返すほど観光客が戻ってきているわけでもないため、ひそかに人気を集め始めているようだ。

 ダイレクトメールのホテルも、二年前に始めた改築が終わったところだという。

 背の高い天井に木目の美しいダークブラウンの木材を合わせ、品の良い家具を配置したプレミアムルームや、それより狭いが、同じようにデザイナー監修の入った安価な部屋もあり、クラフトビールと地元の食材を使った料理を出すレストランもある。

 興味を惹かれた私は、そのホテルを予約した。



 連休前の週末、私は飛行機に乗った。空港からタクシーに乗り、市内を抜けて、海沿いの道を進むとホテルに着く。

 エントランスもロビーも、ベージュを基調として模様の濃い大理石とダークブラウンのマホガニーの家具で統一されていて高級感があった。あちこちに置かれた観葉植物のみずみずしい緑と、目隠しのために天井から垂れる荒い目の布はどこか水上コテージの草ぶき屋根を思わせて、ここがリゾートホテルだということを感じさせる。

 新しくオープンしたと言っても通じそうなほどで、ただロビーの隅の壁に掛かっている、ホテル創業者の色褪せた写真だけが建物の古さを思わせた。

 プレミアムルームほどの華やかさはないが、取った部屋も品良く居心地がいい。ホテルのレストランでクラフトビールと地元の魚料理を食べて、その晩は早めに休むことにした。

 横になると、何かざわめきのようなものが聞こえてくることに気づいた。かすかな音なので横になるまで気づかなかったのだろう。どこかでパーティでも開かれているのか、イベントかと思い、しばらくしてそれが波の音であることに気づいた。それほど波は高くなかったと思うが、小さな音とは言え、五階に眠る部屋まで届くとは思わなかった。急に海の近さを感じて、私は落ち着かなくなった。まるで海のすぐそばで寝ているようだ。

 そのうち、誰かが部屋にいるというおかしな妄想にとらわれ始めた。目を開けているうちは寄ってこないが、目を閉じた途端にやってくる。私は耐えられなくなって、部屋の明かりをつけ、ベッドサイドのラジオを掛けた。小さい音で音楽が流れ出し、波の音が少し小さくなった気がした。

 しかし曲の底から波の音がする。海の気配がある。すぐそばに、壁一枚隔てて、暗く冷たい深い海が広がっている。それは小さい頃観た映画の潜水艦を思い起こさせる。

 結局、明け方までなかなか寝つけなかったが、夜が明け、あたりが明るくなってくると、夜の妄想がバカバカしくなった。

 薄い青色の空は透明で、風は心地良い。カーテンを開けた窓から見える海は朝の光に白く輝いている。

 気楽な一人旅で、特に目的もなく、誰かと会う約束もない。

 海のそばを散歩するのも良いし、人気の水族館まで脚を伸ばすのも良い。

 ホテルから町まで歩きながら鮮やかな赤い花の咲く通りを眺めていると気持ちも浮き立つようで、私は水族館に行ってみることにした。海に面した水族館はまるで海の一部のようだった。巨大な水槽越しに、群れをなして泳ぐ小さな魚から、ゆったりと巨軀を浮かべるクジラを見る。

 水族館から出た私は、近くにある小さな植物園まで歩いた。崖の下にも整備された公園が広がっている。草木はきれいに刈り込まれ、街中で見たのと同じ、赤い花が美しく咲いているのが見える。少し歩いたところで、私は崖下のそれが公園ではないことに気づいた。それは新しい墓地だった。もしかすると、まだ土の下には死者はいないかもしれない。ここは新しく人が住み始めた土地ということだろうか。同じ形をした、灰色の御影石の墓が均一に並んでいるのが見えた。



 夜になると、私はまた落ち着かなくなった。

 昼間はあれほどバカバカしく思えた妄想がまた急に真実味を帯びてくる。ベッドに横になり目を閉じると、海のざわめきが聞こえる。それは誰かの話し声のようだった。私が目を閉じた途端に、何かが近づいてくるような気がする。私は目を開き、そのまま天井を見つめていたが、落ち着かずに身を起こした。これは妄想だ、昼間を思い出したら良い。あんなに夜に考えたことがバカバカしかったじゃないか。そう考えてみても背筋に這い上る何かがある。

 どうしてホテルを変えなかったのか。

 私はベッドサイドのラジオをつけた。小さくクラシック音楽が流れ出す。いくぶんマシになったが、それでも目を閉じることができない。

 私は寝ることを諦めて起き上がった。波の音が気になるなら、いっそのこと、浜辺に散歩に行けば気が紛れるかもしれない。きっとかすかな音だから気になるのだろう。そう考えて私はジーンズとシャツを身につけるとホテルの外へ出た。

 しかし外へ出てもおかしな気分は薄れてはくれなかった。

 部屋のなかでは目を閉じると何かがやってくるような気がしたが、暗い外では街灯の届かない場所が怖かった。もし街灯の光が消えたら? どうやって安全な場所まで戻るのか? 浜辺はところどころライトアップされているが薄暗い。

 妄想だ、と私は思った。安全な場所に戻るとは? 存在しないものを恐れている。昨夜、寝ていないためにおかしくなってしまったのだろうか。きっとそうだろう。

 夜の海は黒く、昼間の透明な青い海と異なり、コールタールの波が揺れているようだった。侘しくもあるが、それでも美しい。背筋に這い上る何かではなく、目の前の光景を楽しもうと私は考えた。浜辺の灯りが当たった黒い海面は鈍く光り揺らぐ。海から吹きつける、冷たい風が私の頬を撫でる。

 私は小道を通り海辺へと出た。スニーカーの底と砂が擦れ合って、かすかにざりざりと音を立てる。夜更けではあるが、ライトアップされているせいだろう、波際に二人、座っているのが見えて、少しホッとした。恋人だろうか。お互いの方を向いて顔を寄せ合い、話しているように見える。散歩をするのは私だけではないようだ。私は波打ち際に近づこうとして、ふと二人の方を見た。彼らは互いの顔ではなく砂の上を見ていた。いや、見ているのではない。二人の間には何か黒い魚のようなものがあり、二人は手を伸ばしてそれを掴み、無心に食べていた。潮の匂いが鼻をつく。それに混じって、生の魚の匂いが漂ってきたような気がした。

 どうしてそれがそんなに恐ろしく思えたのか、後から考えても理解できない。

 ただ私は膝が震えそうなほどに怖くなって、夢中でホテルの部屋に駆け戻った。先ほどまで部屋のなかにいるのが怖かったが、浜辺で見た光景よりは何倍もマシに思えた。軽くシャワーを浴びて着替えて、私はベッドに潜り込んだ。ざわざわと海の音が聞こえる。私は無理やり目を閉じ、そしていつの間にか眠りに就いていたようだった。

 朝が来ると、夜の妄想はすっかり消えてしまった。



 朝食はホテルにあるレストランで取っている。夜には照明を落としていたテーブルに白いテーブルクロスが掛けられて、外から陽差しが差し込む。空は薄く青く晴れて、今日もからりと晴れそうだった。朝食はとりたてて何ということのない、スクランブルエッグと食パンにサラダだが、サラダに入っているチキンが妙に滋味があって美味しい。地元の料理に鳥肉料理が多いので、もしかすると地元の特産品なのかもしれないと思った。

 レストランを出ようとしたところで、すみませんと声を掛けられて驚いた。振り返ると女性がルームカードを持っていた。

「落としましたよ」

 私は慌てて自分のルームカードがないことを確かめて、ルームカードを受け取った。

「すみません! ありがとうございます」

 そそっかしく見えたのだろう、女性は笑った。私も微笑んで、再度ありがとうございます、と言った。落としたのが分かって良かったと私は思った。もし落としたことに気づかなかったら、ホテルの中とは言え、焦りそうだ。

 私はその日、昨夜の海にふたたび行ってみることにした。

 昼間の海は、夜とはまったく異なる。

 海は明るく輝き、白い砂浜がどこまでも広がっているのが見える。岩場が少しと、それに背の高い木々がまばらに生えるだけで影はない。ただ素直に美しく、のどかでさえあって、暗いところはどこにもない。夜に感じた圧迫するような恐怖が嘘のようだ。この、まばゆいばかりに白い砂浜が、夜目にはただ暗く、かえって果てのない闇に見えるのかもしれない。

 海岸沿いの道にも、砂浜にも人がいる。まだ海水浴には早い季節で、まだ海で泳ぐ人はおらず、それほど混んでいない。ちょうど良い時期に来たかもしれないと私は思った。

 陽光にきらめく白い砂浜を歩いていると、波打ち際に黒いものが見えた。海藻だろうかと思いながら近づいてみると、それは海蛇の死骸だった。死骸は尻尾と頭以外、きれいな形をしておらず、鳥に食われたのか、引きちぎられたようにバラバラだった。死骸はまだ新しい。ふと私は昨夜、ここで見かけた、何かを貪っていた二人を思い出してぞっとした。

 いや、きっと勘違いだろうと私は思った。本当にこの場所だったのか覚えていないし、夜のことだ。何かを食べていたというのも見間違いかもしれない。

 しかし私はそれ以上、砂浜を歩く気になれず、踵を返して元来た道を歩き始めた。

 歩道に出るところで、ふと真新しい石碑が建っていることに気づいた。石碑は海に面して建てられているため、海に向かうときには、石碑だということにも気づかなかった。刻まれた日付は十数年前のものだった。

 それは慰霊碑だった。御影石は風化しておらず、新しく見える。

 旅行前に読んだ記事を思い出す。火災事故が起きたのはこの海岸だ。当時はここに海の家があり、観光客でごった返していたのだろう。

 私はそれから特に目的もなく、街の中心部にある通りを歩き、店を冷やかして歩いた。店頭を所狭しと観光客向けの土産物をにぎやかに並べた店もあった。変わった形のグラスや皿を売っている店もあったし、さまざまな地酒を取り揃えている店もあった。

 夕方になって私は昔ながらの地元の料理を出している店に向かった。茅葺きに似せた屋根のついた、こぢんまりとした店構えだったが、店の前には並んでいる人たちがいる。特に急いでいるわけでもない、私は後ろに並ぶことにした。しばらくすると店員が出てきてメニューを渡された。私がメニューを眺めていると、また一人、私の後ろに女性が並んだ。彼女がこちらの顔を見た気がして、何気なくそちらを見やった。

「あ」

 思わず声を立ててしまったのは、それが誰か思い出したからだ。朝、ホテルでルームカードを拾ってくれた人だった。私は笑った。

「今朝はありがとうございます」

 彼女が笑い返す。

「ここ、美味しいですよね」

 と彼女が話す。

「そうなんですか? 私は初めてで」

 それからしばらく私は彼女と話した。私はこの土地が初めてで、一人で旅行に来たことを話し、彼女がダイビング目的で、よく遊びに来るのだということを知った。インストラクターを目指しているという。見ると、私と違って、健康そうに肌が焼けて鍛えられていて、少しまぶしく見えた。それでいて初対面にも関わらず話しやすかった。

 やがて順番が来て店に入り、私と彼女はカウンター席に案内された。メニューはやはり鳥肉と魚介類が多い。私は食べたことのない地元の料理を頼んだ。豆腐に似た食感の甘くふわふわした料理、酸味のあるタレにつけて食べる海産物を揚げたもの、鶏肉を柔らかく甘辛く煮たもの……、どれも美味しかった。地元の酒も甘みがあるようで、舌の上で弾み溶けるように思う。

 彼女とは出身地も近かった。私と同じように青い海に焦がれて、ここに来たという。初めて波の立つ浜辺を見たとき飲み込まれそうで怖かったけれど魅了されたという。私たちは二人で、いろんな地酒を試しに飲んだ。まるで学生時代からの友人だったような気分になって、私たちは笑った。

 結局、閉店時間になるまで店で過ごし、それから一緒に同じホテルへ戻った。その頃には私たちはなんでもないことでも笑うようになっていた。自分の部屋に戻りたくないと言うと、彼女の部屋に来るよう言ってくれた。

「あなたと知り合いになれて良かった」

「私も」

 そう言って彼女と目を合わせたとき、彼女の茶色い瞳が前より濃くなっているような気がした。ときどき不思議に思う。どうしてこの人と寝てみたいという欲望は目を通じて理解しあうのだろう。私は彼女の、きれいに日焼けした腕に触れてみた。彼女が私の腕に触れる。

 その夜、波の音はしなかった。彼女の部屋が、私の部屋より高い階にあるせいだろう。



 翌日、彼女はダイビングのために島へ移動し、私たちは別れた。

 自室に戻った私はなんとなくスマートフォンで、あの慰霊碑と事件について調べた。

 旅行前に知っていたのは概要だけだ。観光地で火災が起きたこと、そして防災対策に不備があったため、被害が大きかったこと、それだけだ。

 調べるとそれが本当に概要であったことを知る。

 実際はこうだ。

 当時の町長は、家族が病気になったことをきっかけに、小さな新興宗教……、いわゆるカルト宗教にのめり込む。そこで彼は、よりたくさんの命が失われれば家族が助かると思むようになっていったらしい。新興宗教側は、それを彼本人の妄想だとして関係を否定しているが、本当がどうなのか、少なくともネットの記事では分からない。そのように考える兆候は端から見ても分かるものだったと思うが、あくまで周囲の人々の間に留まったようで、事件まで表沙汰にはならなかった。

 観光客でごった返す、とある夏の日、彼は海の家で使う飲料水のタンクに毒物を入れ、それから海の家に燃料をまいて放火した。当時の海の家は古く、今のような防火対策をなされておらず、当時の法に照らし合わせても違法な状態だった。可燃性のある板が使われており床には畳が敷き詰められていたため、あっという間に燃え広がった。日よけの屋根も、周りを囲む板も、敷かれたビニールもすべて燃え上がった。

 飲料水に入れられた毒物で致死量に至る者はほとんどいなかったが具合を悪くする者は多々おり、彼はナイフを使って殺そうとしたらしい。

 記事には、すべて燃え尽きたあとの浜辺の写真が一枚、載っていた。

 不意に私は思いだした。

 あれは特に暑い日だった。

 私は嘔吐しながら海辺近くの木の影で座り込んで震えていた。胃の中のものはすべて砂浜に吐いたが、吐き気は収まらず、唇から垂れる涎もそのままに胃液を吐いていた。

 海辺では、まぶしい白い砂の上に倒れ込んで吐く人々の姿が見えた。泣き叫ぶ声、助けを呼ぶ声を聞いた。赤く染まった人が、ある人は走り、ある人はふらふらと逃げるのを見た。海が燃えているように見えたが、実際は建物が燃えていたのだろう。

 この海に来たのは今回が初めてではなかった。

 私は昔、ここに来たことがある。私は慰霊碑の意味を知っている。すべて忘れていた。

 慰霊碑の日付から考えると、当時の私はまだ幼く、忘れているのも当然に思える。むしろ今思い出したことが不思議なほどだ。

 思い出した記憶は生々しいが、どこか遠く、自分の体と記憶が乖離しているようだった。過去の体を震えを思い出すとともに、手足が冷たくなるようで、私は何度か手を握り開き手のひらを見つめた。

 私がこれまで繰り返し書いていた小説は、無意識にこのことを元にしていたのだろう。


 ――不意に緩やかにうねる波が不自然に盛り上がり、合間からどろどろとした何かが姿を現す。それは人の形に似ていたが、手足は人より細く長かった。表面は焼け爛れた皮膚のような、あるいは黒い泥のようなもので覆われていて、波間からそれが這い上がると、潮の匂いに混じって、むっとするような悪臭が鼻をついた。――


 恐れていたのはこれだ、と私は思った。

 表面上は忘れていても記憶の片隅に残っていたのだろう。

 ここの海の写真に見覚えがあるのも当然だ。来たことがあるのだから。

 海に近いホテルに泊まって眠れない原因もそうだ。海が迫ってくるような気がした。海によって波の音が違うのか知らないが、少なくとも、私は記憶の底を揺さぶられたのだろう。目を閉じると襲われるという恐怖も今なら理由が分かる。

 私は立ち上がって部屋の外へ出て、海に向かった。記憶と現実の相違を確かめるためだ。歩道を抜けて、きらめく白い砂浜に向かう。空は今日も晴れ渡っている。雲一つなく、薄い青が頭上に広がり、陽光に青く澄んだ海が輝いている。スニーカーの底と砂が擦れ合って、かすかにざりざりと音を立てる。

 慰霊碑の背面が見えた。広い砂浜はどこも変わらないように見える。どのあたりに海の家があったのだろうか。残っているのは慰霊碑だけで、昔の事件の痕跡はまったくなかった。このあたりに観光客がいたのだろうか。記憶の底を探っても断片的な記憶ばかりで、とりたててどこか分かるものはない。



 気がつくと、私はホテルに向かって走っていた。

 背中にびっしょりと汗をかいていることに気づいていなかった。

 私はホテルの部屋で震える手でスーツケースに荷物を詰める。ホテルの窓からは白く輝く海が見える。冷たい汗が垂れるのを感じるが気にする余裕はなかった。私は乱雑に荷物を詰めると、フロントに降りてチェックアウトをして、タクシーで空港に向かった。

「大丈夫ですか?」

 と空港の窓口で問われて、私はすぐには質問の意味を理解できなかった。はい、大丈夫です、と答えたと思う。


 ――青緑色の波が白く泡立ちながら、繰り返し打ち寄せる。打ち寄せる波以外、特に何もない、穏やかな海面が黒く翳って見えるような気がする。単なる光射す海の陰影か、海藻か、魚の影のようにも見える。――


 私は思い出してしまったのだ。

 あのとき、砂の上で嘔吐する人々、血だらけで逃げる人々を見たとき、私は海辺から上がってくるものを見た。


 ――不意に緩やかにうねる波が不自然に盛り上がり、合間からどろどろとした何かが姿を現す。それは人の形に似ていたが、手足は人より細く長かった。表面は焼け爛れた皮膚のような、あるいは黒い泥のようなもので覆われていて、波間からそれが這い上がると、潮の匂いに混じって、むっとするような悪臭が鼻をついた。――


 『あれは海から来た』。

 私が繰り返し書いていたのは過去に起きた火災事件ではない。

 あれこそが、私が恐怖するものだ。記憶を失っても、無意識に繰り返し書いていたものだった。



 飛行機に乗った私は、眼下に広がる青色が怖くて窓を閉めて震えていたが、少しずつ海が遠ざかっていくにつれて、徐々に落ち着いてくる。そこでようやくびっしょり汗をかいていることに気づいて私は笑い出した。

 そして自分の部屋に辿りついたとき、訳の分からない安堵感に満たされて私は玄関でしゃがみ込んでしばらく動けなかった。

 あれは何だったのか。すべて私の妄想ではなく? 睡眠不足のところに陰惨な事件の記事を見て混乱したのではなく?

 私はようよう腰を上げて部屋に入り、留守にしていた間のメールをチェックしようとノートパソコンを立ち上げたところで、例のダイレクトメールが目に飛び込んできた。

 ぞっとするような、言いようのない悪寒が背中を駆けのぼる。

 ダイレクトメールには、記憶と変わらず美しい海の写真が載っていた。



                  了

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それは海から来た 陶木すう @plumpot

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