カントの朗読#13 教会
物語を進める前に、まずはグレイド伯爵の人となりについて簡単にでも記述しておかねばならない。
グレイド伯爵家は古くはグスマン家に連なる由緒ある貴族の家柄であり、当主のペドロ・ペレス・グレイドも王家に顔の利く有力者として社交界で知られた人物だった。
気質は実に誠実で知られ、それは彼の妻のマリアと子どもたちも受け継がれており、鼻持ちならない頑固で横柄な態度を見せる貴族連中とは違い、彼の一族は寛容で大らかであったといえた。
今にして思えば、彼らの存在無しにヴィアレット家の安寧を保たせるのは不可能だったのではないかとさえ思われる。
ヴィアレットは財力こそ他に引けを取らず、あまつさえ元を正せばララ家に連なる高貴な家柄ではあったが、長い年月の間にイングランドやフランクといった辺境の血が混じったことで、すでにその純血性は失われていたといってよかった。
※ララ家はカスティーリャ王国の古いスペイン貴族。
そのため、ヴィアレットは身の上こそ侯爵と呼ばれていたが、青い血の流れる貴族たちには、有り余る富にあかせて爵位を手に入れた新興貴族と呼ばれる連中と大差はないと、軽く見る者も珍しくはなかった。そのなかで、グレイド伯爵は誰となく分け隔てなく接する事のできる気概の持ち主であったといえ、決して親交の深いわけではなかったヴィアレット家といえど、少なからず彼の影ながらの尽力の恩恵に浴していないとは絶対に言えなかった。
それだけに筆者としてもこの悲惨な事件はおして偲ばれる思いなのである。
***
さて、話を進めよう。
見るも無惨な姿へと変わり果てたグレイド家の家族及び使用人たち18人の遺体はサン・ヘロニモ・エル・レアル教会へと安置されていた。教会はマドリードの西に位置し、100年ほど前に建てられ、フェリペ2世公の即位式が行われた由緒ある場所でもあった。
ユナリヤが学問の手解きを受けるコンプルテンセ大学にほど近い場所にあり、このような惨劇さえなければ、今もユナリヤは大学までの道すがらあのイザベル様式の美しい教会のそばを通ったに違いなかった。
マドリードの石の街を照らす月夜のなか、ふたつの影が猫のような足取りでひたひたと進んでいた。少年の騎士がヴィアレット家へと駆け込んでから、まだ一刻と経っていない。
「…」
ルイスはディーゼルに連れられて屋敷を出てから始終無言だった。時折顔を俯かせ、足を止めては息を大きく吸いそして吐いた。ディーゼルはそのたび彼に歩調を合わせて進んだ。
「伯爵様はどんな方だったんだ?」
口火を切ったのはディーゼルだった。隣を歩くルイスは顔を上げ、彼の方を振り向いた。
「なに、俺は社交界に顔を出したことはないんでな。何しろ、俺はいつも外で護衛の任務についていたものでね」
ディーゼルはいつもの調子の軽口で言った。
「親切な方でした。私の恩師とも言えるお方です」
ルイスは袖口で顔をゴシゴシと拭って答えた。
「恩師…ね」
「あんなお優しい方々を酷い目に…絶対に仇をとりたいと思います」
そう言ったルイスは今度はずんずんと足早に歩いて行った。
ディーゼルは何も答えず、彼の後ろをついていこうとしたところで、ふと違和感に気付いた。
『誰かに見られている…』
ディーゼルはキョロキョロと視線だけを素早く動かして辺りを見渡すと、彼から見て反対にある店の看板に一羽の鳥が止まっていることに気付いた。ギョロっとした赤い目が彼を見ていた。途端、鳥は大きな羽を広げ、夜空へと消えていった。
ディーゼルは再びルイスの後を追っていった。
すでに深夜を過ぎた時間であったに関わらず、教会のステンドグラス越しにはわずかに火が灯されているのが見えた。ふたりはいったん教会の見える家々の影に身を潜ませると、身を隠しながら教会の方を盗み見ていた。
「葬式の準備かもしれんな」
ディーゼルは小さく舌を鳴らして言った。
「あの女吸血鬼の言ったことが本当なら、すぐにも動き出すはずだ。人がいるなら巻き込まれるかもしれん」
「待っていても埒があきません。事情を話して避難をして頂いてはいかがですか?」
ひそひそと声を潜めて、ルイスが答えた。
「いや、それは得策とはいえねぇな。下手に事を荒立てると、後々ヴィアレットにも避難の目を向けられかねんからな。それだけは避けなくてはならんよ。あくまで俺たちは個人で、静かに事を進めばならん」
「それは考えすぎではないでしょうか」
「人とはそういうもんさ。平常はどんなに理知的でも、いったん恐怖が蔓延すれば、人々はどんな恐ろしいことでもやってのける。終いには生け贄の羊を供しなければ収まらん。人々はそこで後悔と反省をするが、所詮それは一時のこと。すぐに忘れる。例えどんな結末になろうとも、自己弁護に躍起になる」
「では、どうするのです。このまま手をこまねいていても、徒に時間が過ぎるだけです」
若いルイスははやる気持ちが抑えきれず、イライラとした調子を見せるようになっていた。
「ふむ…」
ディーゼルは顎に手を当て、しばらく思案にふけった。
「ならばこうしよう」
***
ディ-ゼルの見立て通り、教会のなかではふたりの司祭が数日中に行われる葬式の準備のため作業をしていた。伯爵は王家とも懇意にしていたためにその規模はそれなりに大きなものだった。
蜜蝋の蝋燭が小さく揺らめくだけの薄暗いなか、ひとりの少年が教会の廊下をせかせかとした足取りで歩いていた。
「…おぉ!夜更けに訪れたことをお許し下さい。アモート家の嫡男ルイスと申します」
少年は作業をしていた司祭の元へ身を投げ出してこう言った。
「グレイド伯爵の訃報を聞き及び、いてもたってもいられず駆けつけた次第にございます。伯爵とご家族には多大なる恩を受けました。伯爵の御霊を慰めるため、礼拝をさせて頂きたいと存じます」
少年は息も絶え絶えに早口でそう告げた。
司祭は突然訪れた哀れな少年に面食らった様子だったが、しばらくして静かにこう答えた。
「少年よ。恩人の死を嘆くその気持ち、痛いほど分かる。しかし、すでに伯爵とその家族の魂は今や主の元へと還られた。ここにあるのは、痛ましい亡骸があるのみ。今は安らかに眠らせて差し上げてはいかがか」
司祭の答えに、ルイスは両手を握って答えた。
「あぁ、神父様。それでは私のこの苦しみ、悲しみはどう落ち着かせれば宜しいのでしょう。聞けば、伯爵は野犬に襲われたような有様で亡くなったとか」
「うむ…やはり聞き及びかの。あぁ、あれほどのむごたらしい姿はついぞ見たことがない」
司祭が沈痛の顔を浮かべていると、もうひとりの司祭が作業の手を止めてふたりの元へやってきて言った。
「左様。とても人の為したこととは思えぬ所業。去年、馬車に轢かれた信者の式を執り行ったときでさえ、あそこまでひどい有様ではなかった…なんとも痛ましいことだ」
ふたりの司祭がルイスに気をとられている背後でひとつの物陰が影から覗いていた。
『ふ…なかなかどうして大した役者ぶりじゃねぇか。いや、あれは本心か。いずれにせよ、注意をそらすことはできたな』
ディーゼルはまるで軽業師のような身の軽さで、そっと教会の遺体を安置する場所へとはいっていった。
安置所からは乳香の香りが満たされていた。しかし、それでも隠しきれない死臭が
かえって不愉快な気持ちにさせられるようだった。
そこには棺が15基並べられ、一番端には抱えられる程度の壺が3つ並べられていた。ディーゼルはその壺を見て、忌々しげに舌打ちをした。
『…惨たらしいことだ。幼子でも容赦はなしか』
ディーゼルは先に用意していた酢とハーブの調香水に浸した布で口元を押さえながら棺のひとつを開けた。蓋に手をかけただけで、つんと嫌な臭いが漂ってくるようだった。なかには痛ましい姿と成り果てた女性の死骸が納められていた。
「間に合ったようじゃな」
おおよそ二十畳程度の部屋の片隅から、女性がひとりディーゼルに話しかけた。彼女は控え室の椅子に優雅に腰掛けていた。
「…お早いお着きだな。てっきり来ないかと思ったぜ」
だが、彼は特に意に介することなく答えると、他の棺へと手を伸ばした。
「なに…お前たちでは手に負えぬものたちゆえな。監視じゃ」
そう言って、アルテミスは優雅な手つきで手に乗った鳥の羽を撫でた。
闇に溶け込むほどに黒い羽を持つ烏だった。
棺の中には顔を半分失った伯爵が横たわっていた。
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