カントの朗読#10 狼の牙

 カントの朗読は翌日の夜に再び始まりました。

「それでは皆さま、続きを読ませていただきます。ぱふぱふ~」

 

**


 夜の客人を我が屋敷へと迎え入れるようになって早いもので2週間が過ぎました。

 日々日記を書くというのも、時にはなかなかに億劫なものです。

 私は元来筆まめな性分というわけではございませんし、そもそも私も家の者も決して飽食終日に暮らしているわけではありませんので、筆を執るのを面倒に思うのも仕方の無いことでございます。

 しかし、実のところ特別私の周囲に何か変わったことがあったかと言えば、それは非常に微妙なものでした。というのも、アルテミス-ルナは恐ろしい吸血鬼という身の上でありながら、その生活ぶりに関しては実に静かで大人しいものだったからでした。

 まず彼女を名目上食客として迎え入れると申しても、まさか屋敷の中にともに住むというのを良しとする者は誰一人していませんでした。

「ふむ、それならば近くにある宿でもどこでもよい。むろん、我はただで厄介になろうとは言わん」

 ルナは鷹揚にそう言うと、懐から握りこぶし二つ分ほどに中身の詰まった革袋を取り出して近くのメイドへと手渡しました。

「以前旅の道中で拾うたものじゃが、好きに使うといい」

 開いた袋の口からは英国のギニー金貨がいっぱいに詰め込まれているのが見え、受け取ったメイドは卒倒しそうなほど顔を青くしていました。

「あら、随分と殊勝なこと。こちらとしても相応の対応をしなくてはね」

 メイドはおそるおそるその金貨の詰まった革袋をジョリスへと渡すと、へなへなとその場に腰を抜かして座り込んでしまいました。

 さもありなん。彼女から受け取った金貨はジョリスとフーガの商館で稼ぎ出す2年分の金額にも匹敵するものでした。

「ふふ、気を遣う必要など無い。ただ、我は友と夜を明かしたいだけのことよ」

「それは光栄ね」

 こう答えたはいいものの、彼女の一挙手一投足がどれほど皆を悩ますかは想像に難くないとは思います。

 結局、ジョリスの提案で商館のひと部屋を貸し与えることにしました。王室や教会に納める品物を扱っているだけあって部屋は立派なものですので、ルナはそれなりに満足の顔をのぞかせたようでした。

 ですが、その代わりカルチェスのうちふたりを見張りとして滞在させ、つぶさに報告することを条件としたのでした。

 さて、彼女の朝は非常に遅いようで、いつも夕暮れ時にようやく部屋から出て、夜の8時に屋敷へと顔を出していました。私たちが歓談をする場所はカルチェスの皆が集まる宿舎の食堂ということになりました。

 その際には私たちの食事も兼ねてのことでしたが、彼女の食は実に細いようで、グラス一杯のワインと、オムレツか豚の血が混ぜ込まれたソーセージ、オリーブオイルに浸したパンなどを主に、たまに果物を口にする程度の非常に細やかなものでした。

 時々、屋敷のメイドたちが気を利かせて火酒やマサパン(砂糖菓子の一種)などを出すと、「我は甘いものに目がない」と喜色満面の顔で平らげたのですが、ワイン以外のお酒は好まないようでした。

 強いて言うなら、ニンニクやタマネギといった香りの強い野菜を使った料理や、聖別したパンやワインなどには一切手を付けることはなく、まして人の血を求めると言うことなどはついぞ見ることはありませんでした。

 拍子抜けというべきか、愁眉を開くというべきか。

 話す内容も実にたわいないものが多く、私の家のこと、私が今日何をしたのか、好きな物は、やってみたいことはと矢継ぎ早に尋ねたかと思うと、今度はルナの見てきた国や珍味佳肴ちんみかたい、空を飛んだと吹聴して回る女の話や、詐欺師として堕ちた末に大臣になった貴族の話などを聞かせてくれるのでした。

 正直に申せば、彼女と話すようになって一週間も経つと、私は随分と彼女の話を聴くのを楽しみにするようになっていました。

「まぁ、それでその男は年を取らぬと?」

「そう、その男は確かに数十年も前に会ったときと全く同じ姿じゃった。聞けば、奴は違う世界から来たのだとも、稀代の錬金術師とも言っておった」

「錬金術には不老不死の力でもあるのかしらねぇ」

 私の脳裏にはつと未だ若々しい錬金術の師の姿が浮かびました。

「あまり深入りはせぬ方がよい。あれは身体を壊すものじゃからな。20を迎える前に老婆へとなってもおかしくはないのだ」

「まさに好奇心は猫をもというものかしら」

 はははという笑い声が食堂に響きました。この頃になると、あれだけ殺気立っていたカルチェスの男たちもいくらか彼女に気を許し、時に談笑をもするようになっていたのでした。

 さて、一応私が筆を走らせる理由は物語を書くということを念頭に置いているのをお覚えでしょうか。さしもの、不思議な存在であるアルテミスとの邂逅は物語でもあり、また事実でもあるのです。

 ただ、彼女から聞いた珍しい話をまとめてみるのもまた一興とは存じますが、それは違う機会にとっておきたいと思います。


 あの夜から2週間が過ぎた日の晩。

 いつものように彼女との歓談を楽しみながら食事をしていると、ひどく慌てた様子の少年がひとり食堂へと駆け込んできました。

「お嬢様!大変です!」

 扉に体当たりして、そのまま転がり込むように私の元へとほうほうの体で身体を引きずってくると、大げさに身振りを交えて話をしようとしました。ですが、彼が言っていることに私たちの方は要領を得ず、とにかく彼を落ち着かせることとしました。

「まぁ、落ち着きのないこと」

 私はメイドに命じて気を落ち着かせるリキュール酒を持ってこさせました。

「さぁ、これを飲みなさい。落ち着いてからひとつずつ話してくれればいいわ」

 彼は甘く強いリキュールを何度か分けて飲み干し、最後に胸をトントンと何度か叩いてようやく息を整えたようでした。

「あ、ありがとうございますお嬢様。もう大丈夫です」

 先ほどまで労咳のように苦しげだった彼の顔の血の気が戻ってくると、男はゆっくりと語り始めました。

「昨日、マドリード郊外に館を構えておりますグレイド侯爵が襲われたとの由にございます。妻、子息はもとより使用人、コックまでも…」

 彼は末尾にはっきりとした明言はしませんでしたが、暗い表情を見るに助かった者はいないのでしょう。

「グレイド侯爵が…」

 数多くの爵位を持つ家々は把握していますが、グレイド侯爵は時折パーティでご一緒する機会もあった人好きのする教養人と記憶しています。

「ルイス。お前そんなに侯爵様と懇意にしてたのか?」

 ディーゼルが夜食の串焼きを食みながら口を挟みました。

 それは確かに疑問に思うところでした。

 確かに侯爵様は数度屋敷に尋ねてこられたことはございましたが、彼とそこまで懇意にする程の出会いがあったかは甚だ謎だったからでした。

「いえ、そういうわけではないのですが…」

 ルイスはもごもごと言い淀んで、ちらちらとルナの方を見ていました。

「我は気にするなユナの従僕よ」

 ルナは紅い瞳をルイスへと向けつつも興味はさらさらないようで、むしろせっかくの夜を騒がしくされたと不機嫌になっているのでした。

「ルイス。気にすることはないわ。聞かせてご覧なさい」

「は…」

 ルイスはしばらく口ごもった後、意を決して答えました。

「全員まるで人外のような力で引き裂かれており、首には獣のようなかみ傷があったとのことでした」

 その言葉にディーゼルをはじめカルチェスの男たち、そしてルナがぴくりと眉を動かしたようでした。

「狼や熊じゃねぇのか?」

「扉も窓も破られた様子はないらしいのです。まるで侯爵自身が招き入れたか…そう」

 ルイスはしばらく口ごもって続けました。

「霧のように忍び込んだかのようで…」


**



ヴィアレット家豆知識

ルイス=

カルチェスに在籍。16歳。代々騎士衛兵を輩出する勇猛な家柄。

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