カントの朗読#8 月
招かれざる客である女吸血鬼アルテミスとともに、私たちは煌々と妖しく輝く満月を眺めることが出来る中庭へと移動しました。
私は彼女と連れだって、隣に並んで歩きました。後ろと両隣には一定の間隔をあけてCalcesの男たちが武装を解いた状態で囲んでおり、なんとも緊張した面持ちで、すでに冷える夜でしたが、どことなく熱気を感じるようでした。
「おぉ、見よや我が
アルテミスはルカに出して貰った赤ワインを手に、うきうきと楽しそうにそう言って、頭上に見える満月を指さしました。
私と彼女には背丈に倍近い差があったため、まるでその姿は手を引かれる子どもの様だったと思います。この時私はすでに15になっていましたが、背も小さく顔も幼いままでしたので、余計にその差は分かりやすいものでした。
それにしても、先ほどの一触即発な空気など一切気にも留めていないような様子がどうにも腹立たかったので、私はできる限りぶっきらぼうに答えました。
「そうね。でもどんな美しい物にも粗はあるものよ。教会の方々が仰るには、月は完全で完璧な球体とのことだったけど、実際には穴だらけだったわ」
「ふ、まるで見てきたかのような口ぶりじゃな」
アルテミスはにやりと口元に笑みを浮かべ、目を細めました。
「実際に見たわ、望遠鏡でね。私を教える教師に、高名な錬金術師がいるのよ。彼は言ったわ。この大地は太陽を中心として回っており、いずれこの説を疑うものはいなくなるでしょうと…」
腕を組み、滔々と講釈を垂れる私を遮って、アルテミスはその細い指で私の顎を持ちあげると、月明かりを背に私の瞳を見つめました。
「生意気め。我に講釈を聴かせようというか。あまり不遜な態度をとるな
煌々と銀色に輝く月の光が思ったよりも眩しくて、彼女の顔は真っ暗な影となっていました。ですが、彼女の爛々と光る赤い瞳だけははっきりと見ることができました。
「お嬢…!」
一瞬その剣呑な空気に男たちが狼狽えてざわめきましたが、私は静かに手で制するだけにしました。
「…ふん」
アルテミスは鼻をひとつ鳴らすと、ゆっくりと私の顎から手を離しました。
「まぁ良い。教会などと言う古くさい説教を信ずるよりも、自分で見た物を信じる…。その姿勢は実に好ましい…。実に…な」
彼女はそう言ってどこか遠くを見るような目をしたかと思うと、くるりと身を翻して月の下へと身体をさらし、黙りこくってしまいました。ほんの一瞬だけ見せた顔には、どこか哀愁や悲哀にも似た色が浮かんでいました。
月明かりに照らされて浮かび上がる姿は、認めたくないことですが、実に優美で幻想的なものでした。
しばらくの沈黙の後、彼女はその重苦しい雰囲気を破るかのようににこやかな顔をして振り向きました。
「そうじゃ。友となったからにはあだ名を考えねばならんなぁ。友よ。お前は人になんと呼ばれている?」
その随分と身勝手な物言いに、私は半ば呆れて答えました。
「ウィオラ(紫)、ヴィオレッタ(すみれ)…。だいたいはこの目の色に合わせて呼ばれることが多いわね」
私はお姉さまやお父様に連れられて出席するたびに現れる、宴のなかを歩き回る飾り立てた男たちのお為ごかしを思い出していました。
「そこらの者たちと変わらぬ呼び方は気に入らんな。我はユナと呼ぶことにしよう」
「私を名前で呼ぶのは家族だけよ」
「知らん。我はそう決めた」
アルテミスは有無を言わせぬ高慢な態度でそう言いきると、手にしたワインへと口を付けました。これ以上は何を言おうと無駄と察した私はため息をひとつ吐きました。
「…好きになさい。なら、私はアルテミスと呼べばいいのかしら?でもこの名前、ひょっとすると本名じゃないのではなくて?」
アルテミスは答えませんでしたが、ほんの少しだけ眉を下げ、微妙な顔をしていました。
「そう呼ばれたいのであれば、私は構わないけど…」
「いや…ユナも好きに呼ぶが良い。我は許そう」
言い終わる前に、彼女は首を振ってそう答えました。
正直な話、別段乗り気でもなかった私は、次第に投げやりな気持ちになっていました。考えあぐねて、私はしばらく月をぼんやりと眺めながら口をつぐみました。
ふと、私は好んで読むギリシャ神話を思い出しました。
アルテミスは古代ギリシャでは狩猟の女神なのですが、一説では月を象徴する名でもありました。
「Luna…ルナはどうかしら」
「ん…」
私は彼女の方を見ずに、ぽつりとそう言いましたが、彼女はどこか戸惑ったようにして喉を鳴らしました。
「気に入らないかしら?贅沢なものね。好きに呼ぶように言ったのに」
「いや…その…じゃな…」
アルテミスは見るからに狼狽えた様子で、答えにくそうにしどろもどろとなっていました。言いにくそうにしているのを待っていると、彼女は目を伏せて言いました。
「それは我の幼少の頃の名じゃ。さすがにそれは…」
そういう彼女の顔は月に照らされ、白い肌がほんのりと紅潮しているのが見てとれました。
「ルナちゃん」
私は親しみを込めてかの吸血鬼をそう呼びました。
「な…やめよ!その名で呼ばれることを許した覚えはないぞ」
「知らないわ。私はそう呼ぶことに決めたの」
怒号を叫ぶわけではないにしろ、初めて見せたその狼狽する姿が面白く、気を良くした私はさらに言いました。
「いいわね。貴方たち。彼女のことはこの家の食客である限り、ルナと呼ぶのよ」
私がCalcesの男たちにそう告げると、「「承知いたしましたお嬢様!」」という声が揃って中庭に響き渡りました。
「待て!貴様らにまで呼ぶのを許すわけではないぞ!」
アルテミス…いえ、ルナは先ほどまでの余裕もどこかへやってしまい、羞恥に顔を染めていました。
「彼らは私と一心同体の者たちよ。私が良いと言えば、彼らにも許されるわ」
立場逆転。今度は私が余裕たっぷりと言い返してやりました。
ようやく私はかの高慢な吸血鬼に一矢報いてやったのでした。
追記
屋敷を守る者達の名誉の為に付け加えますが、明け方になって調べさせても、門も壁もどこも破られたりした形跡はなく、門番も一切気付くことはありませんでした。
屋敷を1トワーズ(2m弱)の塀が四方を囲っており、3つある出入り口にはそれぞれ固い扉と門兵が2名ずつついております。
そうなると、かの客人は空からやってきたとしか考えられず、人に話せば夢か虚言と一笑に付されたでしょうが、自在に身体を変えてみせる彼女の姿を見れば、嫌が応にも納得せずにはいられないのでした。
思えばこの時、私たちが無傷でいられたのは、ひとえに彼女の温情に過ぎなかったのです。
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