カントの朗読#7 再びの来訪

 エニグマの教室での告解から半月も経つと、私はすでに女吸血鬼アルテミスのことは、すっかり忘れてしまうようになっていました。時々、背中が気になったり窓や扉の鍵の戸締まりが心配になったりする神経質な面が出るようにはなっていましたが、かえって身の安全に自ら気を使えるようになったのは良いきっかけだったかもしれません。というのも、私はその時とある旅についてに関心が移っていたのでした。

「ふぅん、今度はモロッコに行くのねぇ」

 ある夜、私は例の如くCalcesの宿舎の食堂でたむろする傭兵たちに交じって、長テーブルに広げられた地図をまじまじと眺めていました。そこには鼻先を突き合わせる国を海が挟んだ絵が描かれていました。我が太陽の国スペインからマグレブ(日没の地)へと向かうとは何とも興味深いものです。

「あぁ。なんでも旦那が今度は港を手に入れたいとのことなんでな。ちょっくら、護衛で行ってくらぁ」

 ディーゼルが夕食の野菜スープとパンをがつがつとかき込みながら答えました。他の傭兵たちも遅い夕食をすましたり、軽くワインを口にする者もおりましたが、大方はモロッコへの旅の行程に注目していました。

「いつに出発するの?」

 そう尋ねると、私の分のクラレットを勧めてくれたジョリスが答えました。

「早くて六ヶ月後です。アルヘシラスからセウタへ二日程度の船旅となるかと。ただ、向こうでは王朝の勢力が日に日に弱まっているらしいとのことです」

 彼女は地図をその細い指でなぞりながら説明してくれました。


※この時モロッコはサアド朝に支配されているが、ほぼ滅亡状態にあり治安が悪化していた。また、同時に港の価値が大きく下落している時期でもあったため、ヴィアレット家は港を手に入れることでアフリカでの交易を優位に進めようというもくろみがあった。しかし、国内情勢の悪化と港が奴隷貿易の拠点となっていたことを理由に、この話は流れている。


「Calcesの半分を連れていくのよね?屋敷は大丈夫かしら」

「十名の同行を予定しておりますが、街の警邏にも依頼を出しておりますので屋敷の警備は概ね心配はないかと。ただ、ひとつ気がかりが」

 ジョリスは目を伏せて言いにくそうに口をつぐみました。

「あぁ、あの例の・・」

 誰かがそう漏らすと、隣に並ぶ者同士でひそひそと囁き合いました。

「おい、例のってあの化け物のことか?」

「おぉ、あの人を襲う吸血鬼とやらよ。俺は正直眉唾と思うが」

 一瞬、あの女吸血鬼の方を思い浮かべましたが、どうやら彼らの話を聞くに人を襲っていた男の吸血鬼のことを指しているようでした。確かにディーゼルの話の後に事件はないようでしたが、退治されたなどの話も聞いておらず依然姿を眩ませたままのようでした。

「私たちも街の噂や事件などにも注意を払っておりますが、これといって手がかりらしきものは掴めておりません」

 ジョリスと共に居合わせた封瓦も申し訳なさそうにうなだれている様子でした。彼らは商人同士の話から街の外や市井の人々の様子までも細かく伝えてくれるのです。

「できれば向こうから来てくれれば早い話なんだがなぁ」

 あぁ、言葉の持つ魔力とは恐ろしいものです。善良な願いには神はお聞き届けくださり、呪詛には悪魔が忍び寄るものなのです。

「ほう。遙か昔に栄えた国への船旅か。なんとまぁ、人の世の儚きことよ」

 瞬間、和やかだった空気が冷え、その場にいる全員がその闖入ちんにゅう者の方を振り向きました。

 彼女はあの夜と同じ、黒いドレスを身に纏い、金と黒の入り交じった床に垂れるほどの長い髪を自慢げに見せつけながら、実に優雅な様子で椅子に座っているのでした。それまでその席は用意されておらず、当然誰も気付かず、突然に彼女は現れたのでした。

「ようやっと会えたな小僧。あの時の借りを返しに来てやったぞ」

 アルテミスはディーゼルの方を睨むと、姿に似つかわしくない古めかしい言葉でそう言いました。改めて聞けば、彼女の言葉はどこか聞き取りづらい面があり、まるで修道院に納められる福音書の朗読を聴いているような気分にでもさせるのでした。

 傭兵たちは腰に差していた短剣や、その場にあったフォークを女に突きつけながら、私を囲みつつ、じりじりと距離をとりました。ただ、ディーゼルだけはテーブルについたままポワレを飲んでいました。ですが、雰囲気だけは何かぴりぴりとした張り詰めたものを感じるのでした。

「借り?あぁ、いいさそんなもの。気にすることはないぜ。いや、強いて言うなら金を貰えれば言うことはないがね」

 ディーゼルは女に負けず劣らず鷹揚な様子で答えました。その様子に彼女は眉をひそめ、「ふん、減らず口を」とだけ答えました。

「お嬢様!」

 突如、宿舎の扉が激しい音をたてて開きました。そこにはヴィアレット家に仕える北椿玄武が長剣を手にして立っていました。

「そこか!」

 玄武はアルテミスの姿に狙いを定めると、一足飛びに斬りかかりました。ですが、唐竹割りに頭に刃が入ろうとした瞬間、けたたましい金属音と共に長剣が止まっていました。

「無礼者め。見れば汝も同族かの」

 よく見れば、女は玄武の方を振り向きもしませんでしたが、彼女の髪がその剣を阻んでいました。こうして文字に書き起こしてみても、あの時の光景は本当に今でもよく分かりません。ですが、確かに彼女の髪は意思をもって盾となっていたのです。

「日の昇る大和の国より、このヴィアレット家へと参上した。その人ならざる魔力。見過ごすわけにはいかん。恨みはないがお嬢様の為、死んで頂く」

 玄武は特段には驚いた様子もなく、口上を述べるとギリギリという音を立てながら剣を押し込み、段々と刃が女に肉薄するようになっていました。

「あの極東の果てよりこのような所まで流れてきたか。ならば異国でひとり暮らすは寂しかろう。われが首を刎ねてくれような」

 女の髪が蛸のようにうねうねと蠢いたかと思うと、輝く金髪が鈍い光を放つ刃へと変わっていきました。ひゅんという風きり音と共に、その刃が鎌のようになぎ払いました。あわや、首を落とされたかと思いましたが、間一髪玄武は後ろの方へと逃れていました。

 その場はまさに一触即発でした。傭兵たちもじりじりと武器を手に女の方へとにじり寄り、隙を狙っていました。このままでは無傷ですむとはならないと思い、

「やめなさい!」

 私は室内に反響するほどの、トレドの大鐘よりも大きく響く声でそう叫びました。室内は水を打ったように静まりかえり、全員が私の方をぽかんと気の抜けた顔で見ていました。こんな時の為に声楽を習った覚えはありませんが、まぁ使いどころでしょう。

「・・その女は私の友人よ。手出しは許さないわ」

 私は特に表情を変えることなくそう言いました。内心ではどうこの場を治めようかと考えあぐねていましたが、勇敢なるヴァイキングの血を引く母の影響でしょうか。なんとかおろおろと狼狽えずにはすんでいるようでした。

「・・おぉ、そうだ、そうだ。我はそこな童女の友人よ。なに、今日は美しい月が出ているでな。挨拶を兼ねての、まぁ戯れよ」

 アルテミスはそう言って、それまで醸し出していた威圧感を収め、再び椅子に座り直しました。その顔はどこか童女のような、人を翻弄する猫のような、それでも愉快げな表情が浮かんでいました。

「・・えぇ、そうね。歓迎するわ。ルカ、厨房に行って何か軽いものでも出して差し上げなさい。あと、皆外に出て月を見るわよ」

 お互いの腹を探り合う商談のような緊張感を保ったまま、不可思議な月見がこうして始まりました。


ヴィアレット家豆知識

玄武=東洋の魔術について知識を持つヴィアレット家の食客。筋骨隆々の身体のため時折傭兵たちと訓練を行っているが、遠征や護衛には参加しない。

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