カントの朗読#6 錬金術の勉強
無礼千万な客の訪問を受けた夜から、私はしばらくの間日々の生活にどうも集中できずにいました。朝はベッドから身体を起こすたびに窓の辺りが気になり、昼に本を読むために机に向かうとどうも背中が気になり、夜にベッドに横たえる前には窓の戸締まりを自ら確認しなくては気が済まなくなったりと、四六時中に彼女の存在を意識せざるを得ませんでした。影におびえる馬のようにビクビクしている訳ではありませんが、やはり気の休まる時がなく、常に気を張っている状態が10日の間続いたのは事実でした。私の身の回りのメイドたちも私の状態を察してくれていたらしく、それとなく機嫌を伺っているのは明白でした。とは申せ、それを誰に打ち明けることができるでもなく、それがまた気分を鬱屈とさせるのでした。
話は変わりますが、私の屋敷では家庭教師を雇っており、週に5日習字、音楽、宗教学、作字法、舞踊、朗読法、ギリシア語とラテン語の勉強をするようにしています。ですが、これとは別に私は月に2回、屋敷から路地を回ってすぐの学堂に通っており、ここでは主に、数学、博物学、天文学、そして錬金術を学んでいるのでした。
「お嬢様。何やら、ご気分が優れないご様子ですな」
私はその日もどこか浮かない顔をしていると、我が家で抱えている学者エニグマが本を手にしてこう言いました。
エニグマ=イリインスキーは年の頃はゆうに四十を超えていましたが、見た目は意外にも若々しく、甚だしい学問への熱意を抱えており、ヴィアレット家が抱えるようになってからすでに二十年を過ぎているとのことでした。
私は幼少の頃彼の研究室に忍び込むのが好きで、それが露見するたびに家族からは随分と叱られたものですが、そのたびに彼は『お嬢様の好奇心は学問を志す者にとって得がたいものです』とかばってくれるのでした。さらにエニグマはできうる限り危なくないように薬品やら機材を取り扱うようにして、私を幾度となく英知の殿堂へと招き入れてくれたのでした。彼は当流優れた教養人でもありましたから、その手解きを受ける分には特に何も言われませんでしたし、窮屈な屋敷が嫌になると、よく講義を受ける名目で遊びに来ているのでした。
「少し前に悪い夢を見たわ。あまり気にすることではないけれど、どうも忘れることができなくてね」
私は吸血鬼の訪問のことは隠しつつ、ここ数日間に日中夜に行っている奇行についてそれとなく話しました。
「ははぁ、それではお嬢様はFugaに取り憑かれたらしい」
私が話し終わると、エニグマはこう答えました。
「フーガ?」
私はお付きで馭者も勤めてくれるハダン=フーガへと目をやりました。
講義が終わるまで、いつも部屋の端に控えている彼は、狼狽えた様子で私やエニグマを交互に見やっていました。
「Fugaはローマ神話に出てくる恐怖の神でございます。デイモス(恐慌)の方が聞こえはありそうかと。あぁ、ですがエリス(殺戮の女神)を招くのは物騒でございます。くわばらくわばら」
そう答えたのは、エニグマの元でともに学ぶ学徒であるルカ=アルベルティでした。
「まぁ!フーガが恐怖の象徴だったとは驚きだわ」
「それは心外でございますよ、お嬢様。私は一介の商人。軍神を父にも持たなければ、ましてポボス(敗走)を兄に持つのはなおさらで」
フーガは商売柄、神話や美術に詳しい男でした。商品の名に縁起を担ぐのは珍しいことではありませんし、目利きであるからヴィアレットに出入りを許されるわけです。
「はっはっは!まぁ、彼はサファヴィー朝の出でございますからな。怒りを買わぬよう音楽の捧げ物は欠かせますまい」
エニグマは愉快そうに笑うと、皆がつられて破顔しました。
幾分気の晴れた私に、エニグマは言いました。
「それではお嬢様。歓談はこれくらいにしまして、本日の勉強を進めて参りましょう。ルカ、ホンディウスの地球儀を持ってきておくれ」
「はい、先生」
ルカは先生からの指示を受けるとすぐに、いつもの講義教材をとりに部屋を出て行きました。
「お嬢様」
エニグマはルカが外に出て行くのを見届けると、こっそりと耳打ちをしました。
「その悪夢はいずれヴィアレット家に災いを呼ぶやも知れませぬ。ですが、これもまた運命というべきでしょう。くれぐれもお気をつけ下さい。ですが・・、なに、このイリインスキーもついておりますし、何よりヴィアレット家は貴女の鎧、貴女の剣でございます」
私はその言葉を聞いて、随分と気持ちが楽になったのを覚えました。その日は地球と星の運行についての講義でした。
屋敷への帰り際、私は馬車のなかでフーガの商人仲間であるジョリスへ習った天文現象について聞かせました。
「ようやくいつものお嬢様に戻られましたね」
ジョリスはのべつ幕なしに語る私を見て笑いながら言いました。
「あら、そんなに違っていて?何もないわ」
「なんだかここ最近ずっと塞ぎ込んでいらして。メイドたちも私たちと顔を合わせるたびに心配そうになさっていましたわ」
彼女たちは週に二三度必要な物資を屋敷へと運んでくれるので、その時々に使用人と話をすることが多いのでした。
「そうなの。でも、もう心配ないわ。ただの悪い夢だったのよ」
私はそう答え、再び講義について語り始めました。屋敷へはほんの四半時ほどの距離でしたが、行きの時とは比べて非常に短い時間だった気がしました。
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