カントの朗読#5 吸血鬼の来訪

 ディーゼルが語り終えるのを皆じっと聴いていました。

 時間にして四半刻(30分)ほどでしたが、皆唖然としてるとか、呆気にとられてとかではなく、さも旅の途中で出会った変わり者の土産話を聴くような態度に近い様子で、お菓子や飲み物を摘まみながら聴いていました。私たち一族に長く関わり、商人たちについて地方々々へと旅をする彼らにとって、吸血鬼伝説や狼男などはともかく、強盗や辻斬りといった類のいざこざに巻き込まれることは、そう珍しいことではないのです。

 さもありなん。

「それで、その後はどうなったんだ?」

 話を聴いていた傭兵のひとりが、ポルボロンを食べながら言いました。

「いや、特にはなにも。その女吸血鬼もそれっきりさ。まぁ、さすがにこの屋敷の場所までは明かしていないし、用心の為に数日は街の宿を点々としたしな。だが、強いて言うなら、少なくともあれ以来街で人が殺されたなんて話は聴いてはいないってところかな」

 ディーゼルもまた、グラスに注がれたポワレ(梨酒)を傾けながら答えました。

「まだ2週間程度だからかもしれんな。その女の方はともかく、男の方は警戒しておかねばならん」

「今夜から見回りの人数を少し増やした方がいいかもな」

「ディーズ。乗りかかった船だ。その討伐依頼はヴィアレット家で請け負った方がよくないか」

 屈強な男たちは、そう口々に言いました。


「吸血鬼。一度は見てみたいものね」

 私は好奇心の赴くままにそう言いました。

「やめときなお嬢。好奇心は猫も殺すからな」

「そうだぜ。話半分に聴いとくのが吉ってもんだ」

「違いない。はっはっは!」

 傭兵たちが快活に笑う姿を見て、私ももらい笑いをしましたが、頭の片隅でなおも違うことを考えていました。

 吸血鬼とはどのような存在なのか。

 伝説上では、影に潜み、人や獣の血を吸い、水や十字架を嫌い、鋭い牙と爪を持った、醜い化け物と聞いています。少なくとも先に彼が対峙した男の方はそうかもしれません。

 ですが、彼が出会った女性の吸血鬼は、聞く限りでは、美しく、気位が高く、それでいてどこか憎めない・・そんな気風を感じさせるものでした。

 傭兵たちは、揃って危険性を指摘しましたが、私はどうもその存在が一緒くたにできるものではないのではないかと思い始めていました。

 しかし、人を想えば、縁ができる。

 そんな古諺があるかは知りませんが、その奇縁は向こうからたぐり寄せてきました。

「ここがヴィアレットの屋敷と知ってのことかしら」

 私はその奇縁との出会い頭に、開口一番そう言いました。

「あぁ、窓が開いていたのでな。勝手にあがらせてもろうた」

 月明かりを失った新月の夜。その女は私の部屋の窓を背に、傲岸不遜に身体を預けて立っていました。

「メイドが窓の鍵を閉め忘れたのかしら。すぐに出て行くことね。ここに貴女が気に入るようなような物があるとは思わないわ」

 私は努めて冷静に、できうる限り弱気な姿を見せないように話し、かつついさっき自分が通ってきたドアへと意識を向け、隙をうかがっていました。

「そう身構えずとも良い。我はただ、無礼を働きおった男を探しているのだ。この屋敷に仕える傭兵と言っておった」

 女はそう言うと、窓辺からゆっくりと身を起こして私の方へとじりじりと近寄ってきました。その足取りは実に優雅に思いましたが、私よりはるかに背の高い彼女が、私にはまるで岩が迫ってくるように思えました。

「いずれ懲罰は与える。だが、臣の責は主の責でもある。そうだろう?」

 女はそう言って、ゆっくりと右手を持ち上げると、まるで蛇が飛びかかるように素早く私の首を押さえ、私の顔をじっくりとのぞき込むのでした。当然、私は抵抗を試みようとしましたが、なぜか人を呼ぶ声も逃げる足も、全てその機能を失っていました。ですが、代わりに私の口からは違う言葉が出ました。

「その手を離しなさい。無礼者」

 私がこう言うと、相手の女吸血鬼は眉根を寄せて明らかに不愉快げな表情を見せ、私の首と下顎をなおも、杙で打ち付けたように掴んでいました。苦しくはありませんでしたが、その冷たい掌から伝わる力は抗いようのない絶対的な強さを感じたものです。正直な話、心臓は半鐘のように打ち、頭の中は白くもやがかかったようでした。

 ですが、私はこの時、テーブルからこっそりと取り上げた銀のペンを、彼女の死角となる脇腹へと狙いを定め、いつでも刺し違える覚悟でした。彼女が私を締め上げるのが先か、私が刺すのが先かは分かりませんでしたが、無抵抗にか弱く、命を散らせようなどという気概など私には無縁なのです。

 しばらくの間、私は女吸血鬼とにらみ合いを続けていましたが、やがて万力のような手から力が抜け始めたかと思うと、突然ふふ・・と吹き出し、くつくつと手を口元へと当てて笑い始めました。

「クク・・臣が臣なら主も主よな。よもや我をそうもにらみ返す童女がおるとは・・」

 その予測できない気紛れぶりに、私はしばらくの間、呆気にとられ、その場に立ち尽くしていました。

「我はお前が気に入ったぞユナリヤ=ヴィアレットよ」

 女はそう言って、再び元の窓の傍へと寄ると、身体を預けて言いました。漆黒のドレスが、部屋のランプによって作られた影に溶け込み、どこからが彼女の身体か分からなくなりそうでしたが、彼女の金色の髪はきらきらと反射し、まるで夜に輝く月のようにも思えました。

「・・・随分と気安いのね」

 私はここで弱気になってはいけないと自分を奮い立たせ、できる限りの反発心をもって答えました。

「ふふ、確かに我が一方的に語るのは礼に欠けるな。私の名は・・」

「アルテミスで・・いいのかしら?」

「ふん・・あの男から聞いていたか。そう、我はアルテミスだ。高潔なる吸血鬼の女王だ」

 アルテミスとは、ギリシア神話に登場する狩猟と貞節の女神の名です。聴く限りにおいても、先ほどの手の早さからも、ある意味納得のいく名とは思いました。ですが、彼女には不思議と、人を魅了する美しさと優雅さも兼ね備わっていたのも事実でした。

 私と彼女のやりとりは続きます。

「アメシストのようなその瞳に宿る輝きも気に入った」

「これは曾祖母から受け継いだものよ。ヴィアレットの一族の女は時々紫の瞳を持って生まれるの」

「本当なら、ここで我の眷属にして侍らせるところだが・・」

「あいにくとお断りよ。私は誰にも膝を折る気はないわ」

「うむ・・では、せめて我と仲良くしようではないか」

 アルテミスはそう言いましたが、私はどう返答すべきかと逡巡しました。

「なに、そう難しいことじゃない。我はそなたと話をしたい。ただそれだけだ」

「・・私が何を聞くと言うのかしら」

「さぁ。それは次の機会に決めるとしよう」

 彼女はそう言って自分の爪を気にするようなそぶりを見せていました。私はそれまで一切彼女から視線を外しませんでしたが、その時だけ一瞬足下へと目を向けました。何を考えていたかはもう覚えていませんでした。

 そして、次に視線を戻したとき、彼女はいつの間にか霧のように消えてしまっていました。

 私は部屋をしばらくうろうろと見渡しましたが、どこにも先の吸血鬼の姿は見当たりませんでした。

 私は緊張が解けて、がくがくと震える脚を懸命に動かしながら、ようやく自分のいつもの椅子へと腰を降ろし、改めて窓を見ました。

 窓の鍵は開いていませんでした。

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