カントの朗読#4 吸血鬼の話

 あの日は、俺の部屋のドアを叩く音で目が覚めたんだ。ちょうど陽が高くなって、何度眠り直したか覚えていないほどだったね。俺は目が覚めてもしばらくうつらうつらとしていたんだが、なおもドアを叩く音は止まらなかった。次第に音が激しくなって、下手をしたら壊れるんじゃないかと思うほどで、俺はしぶしぶとドアを開けたのさ。そこには宿舎のブランシャールの女将さんがなんとも険しい顔で立っていてね。いつまで寝てるんだとこってり絞られたよ。それで、俺は何とかなだめすかして、早々に部屋へと引っ込もうとしたんだが、女将さんは一通の手紙を俺に押しつけたんだ。

 差出人はお嬢も知っての通り、マドリード市のお役人さんからだったよ。

 中を見たとき、俺はなんだかくらっと気が遠くなりそうだったぜ。なんせ随分と高価な羊皮紙に、細々とした字がまるで蔦のように踊ってるんだからな。こんな物わざわざよこすくらいなら、直接言いにくりゃいいんだがな。

 それでまぁ、俺はちょうど暇だったし、その手紙を持って屋根の上でごろんと横になりながら、ちまちまと読んだんだ。その長ったらしいご挨拶に何度も寝ちまいそうになりながらな。

 内容はこうだった。西の丘陵に巣くう吸血鬼を退治して下さい。

 お嬢、あんたは信じなさるかね?

 確かにこの国じゃあ、悪魔や吸血鬼なんてものを見たことはなくとも恐れるだけの信仰は根付いてる。俺の元いた国だってそうさ。お嬢、だけどあんたは一度は自分の目で確かめなきゃ気が済まん性格だ。俺だってそうさ。

 断っておくが、俺も最初は馬鹿馬鹿しいと思ったものさ。結局のところ、迷信は人間の恐怖心が生み出すものだからな。生きた人間の方が余程恐ろしい。

 だが、最近はお屋敷のご主人もお嬢もとんと遠出なんてなさらんからな。毎日訓練に真面目に参加するだけというのも、どうも気が乗らなくてね。それじゃあ、一丁その吸血鬼とやらを拝みに行くのも面白そうだと思ったわけさ。・・いや失敬。そんな顔で睨むなよ。

 ちなみにだが、その吸血鬼とやらが人を襲っていたという証拠は一応はあったんだ。なんせ時期や場所は違うが10人の犠牲者が首を裂かれ、血を抜かれて死んでたんだからな。その傷じゃ、野犬か猿じゃねぇかと俺は思ったんだが、犠牲者が襲われる瞬間を見たって奴がいたのさ。それも結構な数な。そいつは決まって満月の夜に現れ、目にも止まらぬ早さで道行く人を襲い、時には家々に押し入るらしい。そして事が済めば、これまた風のように去って行く。そこには襲われた哀れな犠牲者が一人、というわけだ。

 とまぁ、ここまでが前置きだ。あまり話が長いと疲れるからな。

 俺は数日程経って、西の丘まで行ってみたのさ。武器は剣とダガーを数本、そして軽い具足を身体に巻いていた。鎧は着けていかなかったよ。なんせ相手は目にも留まらないほど早いらしいからな。件の丘まで馬で2日ほどだったが、そこからが少し大変だったよ。なんせ5日間一晩中うろつき回る羽目になったんだからな。

「やれやれ・・一体どこにいやがるってんだ・・」

 俺は松明を手に馬を引きながら、こう独りごちたものさ。最初こそ案内人夫を連れだって行こうとしたんだが、経緯を話したら誰も彼も怖じ気づいてしまってね。仕方なく、俺は昼は宿で寝るか聞き込み、夜は吸血鬼を探し回って歩くということをしたのさ。結局、実のある話も足取りも一向に掴むことはできなかったよ。

 だが、感動的な邂逅はある日突然やってきたのさ。

「まったく、この依頼は外れだったな。こんなことなら、封瓦にでも譲れば良かったかもしれん・・」

 大きな月の明かりが煌々と照らし、松明から伸びる影と馬を相手にこうぶつぶつと愚痴を吐き散らしていた5日目、俺は微かに丘の上から何やら風を斬るような鋭い音と、激しく言い争う男女の声を聴いた。

「またぞろどこかの夫婦が喧嘩でもしているのか?気楽だねぇ・・」

 俺は首を振って連れだった馬にこう言ったが、内心ではようやく捜し物を見つけた期待感があった。俺は早速馬に飛び乗り、素早くかつ静かにその修羅場へと駆けつけた。そこには宜なるかな。ひと組の男女が向かい合っていた。だが、どうも甘い逢瀬なんて雰囲気じゃなかったね。俺はとっさに傍の草むらに身を潜めた。

「くっ・・」

 何より、女の方は片腕を押さえ、地面に膝を付き、苦痛をこらえる声を漏らしていた。それを見つめる男は月の光の下でも変に暗くて何も見えやしなかったが、ぶつぶつと女の方に話しかけていた。

 さぁ、ここで俺は何を考えていたと思うね?

 俺は用心の為に松明を隠し、馬も少し離れた場所に繋いだ。だが、どうやら向こうは俺の存在に気付いてはおらず、何も見なかったと立ち去ることもできる。はたまた、俺に慈悲心があれば、婦女暴行を黙ってはおれないと飛び出すこともできるかもしれん。

「グォォッォオオオオオ!!!」

 その男はまるで肉食獣のような叫び声をあげると、今にも女を殴らんと拳を振り上げた。

 瞬間、俺の身体は動いていたよ。腰に差していたダガーを男に投げると、その切っ先は奴の前腕にぐっさりと刺さったのさ。「ガッ・・!!??」っと男はまるで犬のような悲鳴をあげた。

「やれやれ、やっちまった」

 俺はとっさの行動にやや後悔をしながらも、剣を抜いて奴に飛びかかった。

「なに!?」

 そのいかにも意外!といわんばかりの声は女のものだった。一瞬、俺はその声につられて振り向いたよ。驚いてたね。

 だが、俺の方も意外でね。男は俺が串刺しにしようとした剣を、なんと素手で受け止めていたんだ。切っ先はもうすぐで喉に届きそうだったんだが、そのあとちょっとが届かなかったよ。

「ナンダ・・オマエ・・」

 かろうじて聞き取れたのはこれだけだったが、その男はどうも異国の出身なんだか分からんが、とにかく妙に聞き取りにくい片言で唸るように喋っていた。

「誰でもいいだろ?どうせすぐにさよならだからな」

 ギリギリと俺は押してみるが、まるで蔦に絡まったかのようにびくともしなかった。ふとその時気付いたんだが、男の目はまるでザクロのように真っ赤で、肌は異様に青白く、そして爪が猛獣のように鋭かった。

『こいつが件の吸血鬼か』俺はそう思った。

 しばらく押しの競り合いが続いたんだが、男は突然凄まじい膂力で俺を押し返し始めた。俺はつんのめりそうになって、思わず後ろに下がったんだが、それと同時に嫌に強い力で突き飛ばされた。あんなに強い力を受けたのは玄武以来だったな。

「おっと」

 俺は空中でとんぼ返りをして女のそばに着地したんだが、その時女は片腕を無くしているのに気付いた。地面にはべったりと血がこぼれていたんだが、不思議と腕からの出血は止まっているようだったね。

「間違ってたらすまんね。あいつは知り合いかい?」

 女は俺をキツい目で睨むだけで何も答えなかったんだが、ぎゅっとその失った片腕を握る様子を見るに親しい仲ではなさそうだった。

「ググ・・」

 吸血鬼らしい男は、何度か女と俺を交互に見比べていた。悔しそうにも見えたし、悩んでいるようにも見えた。で、しばらくして男はゆっくりと後ずさりを始めた。

「なんだ。もう終わりか?つれない真似をするなよ」

 俺は再び奴に飛びかかろうと姿勢を変えようとした。だが、その一瞬を狙われたらしく、男は下手から何かを投げつけてきた。あまりに早い動作に俺は身動きができず、世界がゆっくりと流れるのを感じた。ただ、その迫ってくる何かをじっと見つめることしかできなかったよ。

 その時、俺の隣から伸びた何かがその投擲物をがっちりと捕まえたんだ。

「・・ただの人間風情が余計なことを」

 俺の隣から腕を伸ばした女はそう毒づいた。女が手を開くとからんと軽快な音を立ててその何かが落ちた。俺のダガーナイフだった。

「ちっ・・逃げたか」

 女はなおもそう言ったのを聞いて、俺ははっと顔を上げた。目の前の原っぱにはもう誰もいなかった。

「やっちまったな・・」

 俺は苦い顔をしてそう呟いた。なんせ一週間もかけた討伐依頼を失敗したんだからな。宿代もタダじゃねぇし、松明も食費も結構かかった。報酬はそこそこに高かったが、もらったのは前金が3割だけで、あとは成功と引き換えだった。

「あ~、くそっ・・これじゃただ働きじゃねぇか・・」

 俺は文字通り地団駄を踏んで、頭を抱えた。これじゃあ、大人しく宿舎で剣でも磨いてた方がマシだったってな。

「おい・・」

「はぁ・・ったく、これじゃ飯屋のツケも払えやしねぇ。うわっ・・そういえば、ブランシャールの女将にも借りがあるじゃねぇか」

「おい!!!貴様!」

 突如、まるで雷光でも落ちたような声に俺はビックリ仰天して振り返った。

「何だ貴様!助けてやったのに例も言わぬとは無礼な奴め!」

 女はまるで皇后陛下のように尊大な態度でこう言ってのけた。

「おいおい、先に助けに入ったのは俺だろ」

 正直、この返しは失敗だったと思う。こういった女相手にはまずは下手に出るとこから始めなきゃなんだが。

「いつ我を助けよと言った!貴様が余計なことをせずば、奴を捕らえられたものを!」

 女はまるでフリアエにでもとりつかれたように、ギャンギャンとわめき散らした。なおも女は俺を指さし、がなり立てていたなか、俺は別のことを考えていた。

 煌々と輝く月の下にまじまじと見ると、女は随分と・・何というか浮き世離れした姿だった。

 髪はライオンのような金色に黒が混じってて、地面につきそうな程に長かった。服は闇に溶けそうなほど真っ黒で、何というかミサのシスターが着るものに似ていた。 

 眼はそう・・まるでネコ科の猛獣のように爛々と輝いていたね。

「貴様!貴様名を何という・・聞かせよ!」

 女はふらふらと立ち上がると、俺の顔を指さして言った。

「・・いや、名乗るほどのもんじゃ・・」

「聞かせよ!」

 俺はこの場を適当にやり過ごそうと思ったが、女は異様な程の剣幕でそう叫んだ。

「ヴィアレット家私設傭兵部隊カルチェスのディーゼルだ」

「下の名は」

「レッドアイ」

「ふん・・」

 女は軽く鼻を鳴らすと、忌々しげな顔で言った。月を背にしたその姿はどこか神々しいものを感じたのを覚えてるよ。

「覚えておくがよい。私はアルテミス。アルテミス・フォン・ヴラドベート・アレンスカヤ。偉大なる吸血鬼の女王だ。我の邪魔をした報いは必ず受けてもらうぞ」

 あろうことか、その女-アルテミスは自らを吸血鬼と呼んだ。俺はすかさず剣を構えようとしたんだが、腰の物がいつのまにか無くなっていた。

「捜し物はこれか?易々と我を斬ろうと思うなど、不敬と知れ」

 見れば、アルテミスは俺の得物を手にぷらぷらと弄んでおり、それをいきなり地面に放り投げた。その瞬間、月明かりが俺の眼前にひらけた。顔を上げると、月灯りを遮っていた女の姿は跡形も無く消えていた。俺はため息をひとつ吐くと、剣を拾い上げ馬を連れて宿へと戻った。

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