第4話 母との約束
―誰かの視線を感じる。
少年がそう感じるようになったのは、この街に来て数週間が経過した時のことだった。
(この街の住人は、どいつもこいつも平和ボケしてやがるから油断しそうになったけど、念のためねぐらを変えといて良かった。)
心の中でそう呟きながら、少年は暗闇の中で、盗んできた缶詰を貪り喰った。祖国での凄惨な日常と、この街の住人の笑顔が脳裏に浮かぶ。少年は薄汚れた手で乱暴に涙を拭いながら、味のしない缶詰で腹を満たした。
「…おいしくないな。」
少年は、缶詰が美味しくない理由を知っていた。少年に向けられる侮蔑の眼差し。それが彼の心を激しくかき乱すのだ。
「大丈夫。大丈夫。おれは何にも悪くない。」
―取られたから取り返してるだけ。お前は何も悪くない。
過去、少年に殺人を教えた教官の言葉が、少年の罪悪感と孤独を癒す。
(おれ以外にも、こうやって生きてる奴は一杯居る。だってしょうがない。おれには何も無いんだから。全部全部、奪われたんだから。…なのに。)
少年は、咀嚼したツナを呑み込めずにいた。胃が拒否していた。いや、彼の心が、盗んだツナを食べることを拒んでいた。無理やり呑み込もうとしたその時、ねぐらの外に居た鴉が一斉に飛び立った。驚いた少年は、その場にツナを吐き出した。
(居る…誰か居る。)
意思に反して息が乱れる。少年は布切れを口に当てて、声を押し殺した。胸元で温められていたナイフをぎゅっと握りしめ、少年は外の様子を確認するために、ゆっくりと動き出す。ねぐらの入り口は、子どもが這ってようやく入れるくらいの小さなものだった。少年は、外から見えないように積み上げておいたゴミ袋の後ろから、そっと辺りを見回す。しかし、そこには誰も居なかった。
(何だ、気のせいか。)
ほっと胸をなでおろした瞬間、突然目の前を遮っていたものがなくなる。何者かが自分の居場所に気付いてしまった事実に、少年は絶望する。声を出すことも出来ず、少年はその場で硬直した。
「こんばんは。」
低い男の声。少しくぐもって聞き取りずらい。
外に繋がる小さな穴を向こう側から覗き込む何者かと目が合った…ような気がした。実際には仮面を被っていて、表情を読み取ることが出来ない。
「ふむ、工夫しましたね。確かにこれでは、視界の高い大人たちは気付けないでしょう。」
ぶつぶつと独り言を言いながら、入り口を指でなぞっていた仮面の男を、少年は茫然と見つめる。
(何だ…こいつ。俺を、殺しに来たんじゃないのか。)
奇妙な仮面の男からは、まるで殺気を感じられない。それがかえって少年の恐怖を煽った。それでも、仮面の男は状況を呑み込めずに居る少年のことなどお構いなしだった。
「外で話したいのも山々なのですが、君に逃げられてしまうと私も困ってしまうので、ちょと強引ですが中にお邪魔させていただきますよ。」
「…………は?」
(中に入るって、そんなの無理に決まって…。)
ボキィッ!!!!
仮面の男が自らの関節を外した音が周囲に響き渡った。驚いた少年は、飛び上がるようにして部屋の奥の壁まで退く。
(腕がぐにゃぐにゃだ、気持ちわりいいい…いや、そんな場合じゃない。逃げ道を塞がれちまったから、もう逃げることも出来ない。この気持ちわりぃ男を殺さないと、これまでの努力が全部無駄になる。…今がこいつを殺す好機だ!)
意を決して、少年は胸に握っていたナイフを仮面の男の首元に向かって振り下ろす。
「おっと、そうはさせませんよ。」
「………!?」
仮面の男が呟いた直後、少年の視界はぐるんと反転して、気付けば地面にひっくり返ってしまった。
(この仮面頭、あの一瞬でおれの行動を読んで動きやがった…!!!!)
体を持ち上げようとして、少年はさっきまで握っていたはずのナイフが無くなっていると気づく。
(しまった油断した…!!!!)
死を覚悟してぎゅっと目をつぶる。しかし、どれだけ待ってもその瞬間は訪れない。少年は恐る恐る目を開ける。そこには、分厚い石の仮面があった。仰向けになった少年を、仮面の男が身をかがめて見つめているような状態だった。少年はびくっと肩を震わせて、即座に状態を起こす。そして、背後に居る仮面の男を振り返った。
「安心してください。私は、あなたを殺しに来たのではありません。あなたにお話したいことがあってここまで来たのです。」
仮面の男は、両手を広げて穏やかな口調で言った。絶対に信じない、とでも言いたげな眼差しが仮面の男に向けられる。その眼差しを見た仮面の男は、寂し気に肩を落とした。
「お顔をお見せすることが出来れば少し状況が違ったのかもしれませんが、生憎と、私には顔が無いもので。言葉で説明をする以外に誠意をお見せする手段が無いのですよ。」
少年は無言で仮面の男を睨みつける。そして、吐き捨てるように言った。
「ナイフを返せ。…母さんのナイフを返せ。」
「これはお母様のものでしたか。何にせよ、悪いことをしました。さあ、受け取ってください。」
刃物の柄の方をそっと少年に差し出した。少年は拍子抜けしてしまった。
「お前馬鹿だな…ほんとに返しちゃうのかよ。」
「どうかしましたか。」
「いや、別に。」
不愛想に呟き、少年はわざと突き放すような態度で仮面の男が差し出したナイフをむしり取った。
(こいつ、人を疑うことを知らないのか。丁度いい、今の生活もいつまで続くか分からない。それに、この国の連中が
「…おい。」
少年は仮面の男に向かって声をかける。
「お前の話、聞いてやってもいい。」
少年の言葉に、仮面の男はぱっと表情を明るくした…ように見えた。
「本当ですか!ああ、ありがとうございます!」
「ただし、条件がある。おれはまだお前を完全に信用したわけじゃない。…二週間、二週間だ。毎日今日と同じ時間にここに来て、おれに飯を食わせろ。それから、おれのことは他の誰にも告げ口するな。それが出来たら、お前のことを信用してやってもいい。」
仮面の男はこくこくと頷いた。少年は、あまりにも素直な男を冷たい眼差しで見つめている。
(あーあ、信じちゃったよ、こいつ。本当に筋金入りの馬鹿だな。皆に愛されて生きてますって顔してるもんな。顔、無いみたいだけど。)
少年は、仮面の男が絶望する瞬間を想像して笑いが込み上げそうになるのを必死に押し込んだ。
「話はこれで終わりだ。分かったらさっさとここを出て行けよ。それと、もうそんな気持ち悪い入り方するなよ。明日の夜までには入り口を作っておくから、そこに食い物を置いていけ。」
「承知しました。では、本日はこの辺で失礼いたします。」
仮面の男は、丁寧な仕草で少年に会釈すると、先ほどのように平然と関節を外し、地を這うように外に出て行った。
(おかしな奴…。恥ずかしくないのかよ。)
仮面の男が居なくなったねぐらの中は、いつもより少し広く感じられた。少年は胸元に母のナイフを引き寄せる。そして、体を小さく丸め込んで目を閉じた。
(あそこまでして言いたいことって何なんだろ。)
「…まあ、そんなこと知らなくてもいっか。どうせあいつも、いつかおれが帝国の少年兵だって分かれば、おれを殺すんだから。」
何かがほろりと少年の頬を伝った。しかし、今や少年の隣に、それを拭ってくれる者など誰も残っていなかった。
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