第3話 気がかり
屋敷に帰ってから数十分後、屋敷の食堂には普段通りの仮面の男の姿があった。窓の外の太陽は、青空の一番高い所で輝いている。子どもたちが待ちに待った、昼食の時間だ。厨房には腰の曲がった老夫婦が居て、子どもたちの手を借りながら昼食の用意をしている。仮面の男は、真っ白いエプロンを引っかけて、忙しなく食堂と厨房を行き来しながら昼食を運び出す。チーズたっぷりのグラタンを受け取った子どもたちは、各々が好きな屋敷内の場所に向かっていく。
子どもたちの中には、いつも誰かと一緒に居たい者も居れば、鍛冶屋で再会したアリのように、一人で居る方が楽な者も居る。この屋敷に、「これが正しい」は存在しないのだ。時に互いの正しさが衝突することもあるが、そのような経験を積み重ねる中で、他者との生き方を学んでいく。仮面の男は全てを教えず、「こうすれば良かったのか」と気付ける瞬間を待ち、静かに見守ることが殆どだった。
食事の運び出しを終えた仮面の男は、近くに居た少年に声をかける。
「マイル。今日も手伝ってくれていたのですね。」
「うん。教授もお疲れ様。お仕事もあるんだから、僕らに任せればいいのに。」
マイルと呼ばれた少年は、大人びた口調で言った。彼はいつも、どこか一歩引いて周りを見ている。年齢に似合わない知的な雰囲気のある少年だった。マイルは屋敷に暮らす子供の中で最年長。来年、この街から遠く離れた王都の学校に行くことが決まっている。
「ありがとう、マイル。君はいつも私たちを気にかけて動いてくれていますね。」
マイルは、へへと照れ笑う。彼は、教授に褒められるのが好きだった。
「ああ、そういえば教授。今日はイアの姿が見えないけど、また何かあった?」
「ええ…ちょっと色々ありまして、彼女を怒らせてしまったのですよ。ああ、本当に情けないものです。」
大袈裟に頭を抱える仮面の男を見て、マイルは苦笑した。
「そっか。僕も相手をしてあげたいけど、彼女は教授以外と話せないもんね。」
仮面の男は深く頷いた。マイルの言う通り、イアは仮面の男以外の人間と会話することが出来なかった。
「ええ、今頃一人でお腹を空かせているでしょう。そろそろ彼女を探しに行こうと思います。君も昼食の時間にしてください。」
その言葉通り、仮面の男はマイルと別れた後にイアを探し始める。屋根裏から裏庭にある池の中に至るまで隅々探したが、中々見つからない。時計を見ると、二時間が経過していた。仮面の男は、顎に手を当てて考え込む。
(おかしいですね。いつもなら、今頃見つかっていてもおかしくないのに。)
仮面の男は見落としていた場所が無いか、これまでの記憶を辿ってみることにした。そのとき、ふとかつての嫌な記憶が頭を過る。
「…まさか、あの部屋に。」
屋敷の中には、子どもたちが入れない部屋がある。本来ならば、目に見えないようになっているため、辿り着くことさえ叶わない。しかし、過去に一度だけイアがその部屋を見つけ出したことがある。その日の出来事があってから、彼らは何かと衝突することが多くなっていた。彼らの関係に亀裂を生じさせる何かが、その日開かずの部屋で起きたのである。それは最年長のマイルでさえも知らない、二人だけの秘密だった。
(イアは、あの出来事があってから、開かずの部屋にはもう二度と入らないと私に約束してくれました。きっと、見落としている場所があるに違いありません。)
仮面の男の背中を、冷たい汗が伝っていく。
その時、背後でカサと何かが動いた音がした。仮面の男は、驚いてびくっと肩を震わせる。慌てて振り返ると、木の陰にひょこっと何かが隠れるのが見えた。
「イア?」
返事は無い。生暖かい南風が、昼過ぎの裏庭を吹き抜けていった。
「…居ないのですか?…イア、そこに居るのなら、どうか返事をしてください。」
再び呼びかけるも、やはり返事は無い。しかし、仮面の男は諦めなかった。
「最近ずっと起きている理由、分かりましたよ。」
ようやく、木の陰に居た主が顔を覗かせた。丸い桃色の瞳は、どこか自信なさげで、ぼんやりと地面を見つめている。イアの安全を確認した仮面の男は、安堵でふっと息を吐く。
「私が夜に出かけるようになってしまって、寂しかったのですよね。ちゃんと気付いてあげられなくて、ごめんなさい。…えっと、見せたいものがあるんです。すぐに戻ってきます。」
数分後、その言葉通り再びイアのもとに戻った仮面の男は、少女に向かって一冊の絵本を差し出す。
「絵本を買ってきたんです。昔よく一緒に読んでいたので。…イア、これで許してくれますか。」
「…むう。」
しかし、イアはいじけた顔で木の裏に引っ込んでしまった。仮面の男は慌てて彼女に近寄る。
「だ、ダメですか。やっぱり、許してもらえませんか。…やっぱり、あの時のことを気にしているのですか。」
仮面の男は、沈んだ声でそう言った。背中を向けたまま動かないイアを見て、静かに肩を落とし、その場を離れようと立ち上がる。その時、イアの背中が少し揺れているのに気付いた。不思議に思い近づくと、微かにすすり泣く声が聞こえてきた。仮面の男は状況を吞み込めずにいた。
(…そんなまさか。…彼女、泣いているではありませんか。)
混乱しながらも、仮面の男は少女の背中に手を置く。じんわりと温かい背中は、確かに小刻みに震えていた。
「本当に、泣いていますね…。」
仮面の男は、小さな声で茫然と呟いた。
(今まで様々な人々と接してきたが、彼女を理解することが一番難しい。どうしてなのでしょうか。ここに居る誰よりも長く、一緒に居るはずなのに。)
「うっ…ううっ、ごめ、なしゃい。」
自分が虐めてしまったような罪悪感に駆られながら、仮面ごしに笑いかける。
「大丈夫ですよ、イア。あなたは何も悪いことをしていません。」
「イア、いじわる。…いやなやつ。」
「意地悪でも嫌な奴でもありませんよ。私の帰りをずっと待ってくれていた、優しい良い子ではありませんか。」
そうやって優しく語り掛けるも、イアがその場で泣き止むことは無かった。困り果てた仮面の男は、彼女を片腕に抱きながら一日を過ごすことにした。それからしばらくの時間が経過して、もう辺りはすっかり暗くなっていた。仮面の男は、イアが落ち着いたことを確認して、彼女の自室で約束通り絵本の読み聞かせをした。
「そしてついに勇者は悪魔を倒して…あれ。」
最後のページを読み切ることなく、彼女はこくんと眠ってしまった。開け放たれた窓から見える下弦の月が、二人を見下ろしている。部屋に流れ込んだ生暖かい風が、イアのプラチナの髪をなでた。
―いつまで、こんな生活を続けられるのだろうか。
仮面の男は、脳裏に浮かぶ不安を振り払い、彼女が起きてしまわぬようそっと扉を閉めた。その後自室に戻ると、ふうと一息つき、ポケットの中から一枚の紙きれを取り出す。そこには、簡易的な街の地図が手書きで記されていた。所々に赤い印が打たれているが、その印が何を示すのかは、仮面の男本人にしか分からない。
仮面の男は、机の上に折りたたまれた新聞を手に取る。その日の新聞の一面は、政治家の不祥事で持ち切りだ。仮面の男の気がかりは、本屋の店主の一言だった。
―俺はさあ、俺たちの知らない所で何か嫌なことが起きてるんじゃないかって思ってならねんだ。俺たちの目に見えてないだけで、もう戦争は始まってるんじゃないかって思ってならねんだ。
仮面の男の眼差しが、再び手元のメモ用紙に向けられる。白い手袋に包まれた指先が、メモ用紙の上の赤い印をなぞっていく。
(街の方から集めた最近の盗人の情報から推測される、少年の現在の居場所は…。)
「ここ…ですね。」
テーブルランプだけが光る暗い室内で、男は一人呟いた。そして、何か思い立ったように、突然立ち上がり近くにあったランプを手に取った。男が向かった先は、屋敷の玄関だった。注意深く辺りを見回して、子どもたちが居ないことを確認すると、男はランプを片手に夜の街に姿を消した。
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