16:ただいま、おかえりなさい
イユ、ヨツバちゃん、マリアちゃんを受け入れた日の夜である。
三人は私の世話役として傍に暮らすことが望ましいという話であり、今は私が住んでいる部屋とはすぐ傍の別の部屋で休んでいる。
そんな変化があったからなのか、私はなんとなく眠れずに外に出た。
外に出れば美しい庭が広がっていて、緑の香りが鼻を擽る。
ガーデンの外で感じる匂いとは違い、穏やかさしかない緑の匂いはまだ慣れない。そんな慣れない匂いを嗅いでいると、これが現実なのかどうかまで疑ってしまいそうになるから。
「アユミちゃん?」
「……イユ?」
「まだ起きてたの?」
「イユこそ」
声が聞こえて振り返ると、寝間着姿のイユが私の方へと歩み寄ってくるのが見えた。
まだ慣れない景色の中に見慣れた人がいる。そんな光景がおかしくて、思わず笑ってしまいそうになる。
「どうしたの?」
「いや、不思議だなって。ここにイユがいることが」
「……そうね。私も候補生のままガーデンに来るなんて夢にも思ってなかった」
イユは私から視線を逸らして庭へと視線を向ける。
空が無機質な天井で覆われている点はファームと一緒だけれど、その中身はまるで違う世界。私が違和感を抱いているようにイユも何か思うところがあるんだろうか。
「ガーデンを見ての感想はどう?」
「ただ圧倒されるわね。改めて蝶妃と候補生の扱いの差を思い知らされるわ」
「そうだね。私もそう思うよ」
「……アユミちゃんは女王になったのに?」
「突然女王だって言われて、まだまだ取り繕うので精一杯だよ」
苦笑を浮かべながらイユに言葉を返す。
するとイユは私へと視線を戻して、ホッとしたような安堵の笑みを浮かべた。
「……良かった」
「ん? 良かったって、何が?」
「アユミちゃんは何も変わってなさそうで」
何も変わっていない。その言葉に心の一部が冷え切ってしまったかのような感触を覚えてしまった。
それが私の笑みを翳らせたのか、安心するように微笑んでいたイユが怪訝そうな表情を浮かべる。
「アユミちゃん?」
「……いや、私は変わったよ。少なくとも候補生だった頃の自分とは間違いなく違う。確実に何かが変わってしまってる」
「……どう変わったの?」
イユは静かに問いかけてくれた。その問いに私は即答出来ず、暫く黙ってしまう。
重たい口を開いて自分の気持ちを言葉にするまでかなりの時間がかかってしまった。でも、イユはその間もずっと待ち続けてくれた。
「もうレイカにも、トワにも執着しなくなった。レイカは私にはもう関係のない人だったと思うようになったし、トワに憧れてたのは私の思い込みだった。本当のトワは怖い人で、私の憧れていた人とは全然違う人だったんだ」
「……レイカちゃんやトワ様と何かあったの?」
「今回の遠征で私が死にかけた、って話は聞いた?」
私が問いかけると、イユは眉を寄せながらも小さく頷いた。
候補生の間でも私の話は広まっているらしい。マリアちゃんの話からも、紋白の候補生たちが何か言っているのかもしれない。それについては別にどうでも良いのだけれど。
「死にかけて、蝶妃に覚醒して……自分の中で何かが変わってしまった。それだけのことなんだけど、それから私は今までの私とは何かが違ってしまってると思う」
「それだけのことって、かなりの大事でしょう? ……本当に死にかけたの?」
「うん、確実に死んだと思った」
「……でも、生きてるよね?」
ふと、イユの手が私の手を掴んだ。そのままイユが私の肩に寄りかかるように身を寄せてきた。
その身体は僅かに震えていることに気付いて、私はイユへと視線を向ける。けれど俯いたイユの表情は見えなかった。
「……アユミちゃんが戻ってこなくて、死にかけて、でも蝶妃に目覚めたって。話を聞いた時は本当に驚いた」
「心配かけてごめん」
「うぅん。……蝶妃になったから、もうアユミちゃんとは会えないのかなって思ったら、少し怖くなって」
「怖い……?」
「……アユミちゃんまで、レイカちゃんみたいに変わっちゃうのかなって。もう私の知っているアユミちゃんとは会えなくなるのかなって。そう思うと、怖かった」
イユにとってもレイカの変化は尾を引くものだったんだろうか。それも、こんなに私と会えなくなったり、変わってしまったりすることが恐ろしいと思う程に。
自分が思いに決着を付けたからなのか、今まで考えなかったことを考えてしまった。そうだ、今思えばあり得ない話じゃない。
私とレイカの付き合いが長かったように、イユだってレイカとの付き合いも長かった筈なのに。
「私ね、蝶妃になるのが怖かったの。あんなに仲が良かったのに、レイカちゃんはアユミちゃんをあっさりと見限るように置いていった。それが蝶妃になることなんだって思ったら、私だって誰かをあっさりと誰かを見捨てるように人になるんじゃないかって……ずっと、怖かったんだ」
「……それは、ごめん」
思わず謝ってしまった。蝶妃になることを恐れていたイユにとって、ただひたすら蝶妃になることを諦めずにいた私の姿はどう映っていただろう。
イユに心配されていることはわかっていた。でも、その心配をしていたイユがどんな気持ちで私を見ていたかなんて……考えてあげられなかった。
「アユミちゃんが謝ることじゃないよ」
「でも……」
「蝶妃になることがこの世界では正しいんだよ。いつまでも候補生でいても、何も成し遂げられない。外に出ることも出来ない。そんな生き方は正しいなんて言えないでしょう?」
ようやく顔を上げたイユは笑っていた。でも、その微笑みが儚く見えてしまうのはイユの気持ちを想像してしまったからなのか。
「アユミちゃんが蝶妃になったなら、もう覚悟を決めるしかないって思ってたから。どんなに変わり果てても蝶妃になるしかない。……でも、その前にアユミちゃんに会える可能性があったからライカ様の誘いに乗ったの」
「……イユ」
「確かにアユミちゃんは変わってしまったのかもしれない。レイカちゃんやトワ様に対して決別したのかもしれない。でも、間違いなく貴方は私が会いたかったアユミちゃんだよ」
目を閉じて、更に身を寄せてきたイユを私は真正面から抱き締めた。
小さくイユが驚いたような声が聞こえたような気がしたけれど、気にせずにイユを強く抱き締める。
彼女の首もとに顔を埋めると、イユの香りがした。いつも私を癒して、安心させてくれていた香りだ。
「……イユ、ありがとう」
「アユミちゃん?」
「今、ようやく……帰ってきたんだなって実感出来た」
何の心配もない筈なのに、どこか地に足がついていないようにふわふわしていた。
ガーデンはあまりにも華やかで、穏やかで。顔を合わせる人は誰もが個性的な人ばかりで、自分が女王になったからといっても並べている自覚なんか全然出来なかった。
どこか現実のように感じていなかったのかもしれない。でも、今はここにイユがいてくれる。なら、今こうして感じている今は現実そのものだ。
「ただいま、イユ」
私がそう言うと、イユの身体が震えた。
私の背中に手を添えるようにイユが手を回して、服を掴むように縋り付いてくる。
「……おかえりなさい。……帰ってきてくれて、ありがとう……」
イユも私の首元に顔を埋めるように身を寄せながら、涙声でそう言った。
震えているその身体を離さないようにしっかりと抱き締めながら、イユの震えが収まるようにと背中を何度も叩きながら彼女の香りを感じる。
ここが私の帰る場所だったと思わせてくれる香り。私が私であることを思い出させてくれる懐かしさ。
(そうだ。私はずっと走ってきた。この手に抱えていたいものが多すぎて、ただ大きくなりたかったんだ。大きくなって、ただ何かになりたくて、何かになれれば守れると思っていた)
失ったものがあった。
守りたいものがあった。
この手に抱えていたいものがたくさんあった。
思い出すことが出来たんだ。あの狭い世界の中でずっと夢見てきたことを。
いつか外に出るんだ。この狭い世界を飛び出して、もっと広くて大きな世界を感じたかったから。
そんな世界を取り戻せた時、きっと皆が笑ってくれると思えたから――。
「泣かないで、イユ」
私は、笑ってほしかったんだ。私を取り巻く全ての人たちに。
そうすれば私は満足出来るから。そう、だから――。
「笑って、イユ。私はここにいるから」
どうか泣かないで、ずっと私の友達でいてくれた人。
お互いに笑って、ありがとうと言わせて欲しいんだ。貴方がいてくれて良かったって。
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