雫
「……」
家に帰り女の子の言葉を思い出し香水のにおいが染みついたカードを確認してみる。表には店名と“れな”というたぶん店で使う女の子の偽名、それとありきたりな謝辞の言葉が書かれていた。そしていよいよ問題の裏面。そっとひっくり返す。『今夜十時、駅の東口前にあるカフェで待ってます』と。時間を見る。今は午後五時ちょっと過ぎ。
「……」
ふん。何かの罠だ。放っておこう。
僕は夜の薬をいつものように飲み、ベッドに横たわり目を閉じる。しかしなかなか寝付けない。あのカードのせいだ。僕は電球をつけ直しカードをぼんやりと見る。何度も見る。
こんなの絶対罠だ。そこに言っても女の子の姿はなく、代わりにヤクザかチンピラがいて難癖つけられてお金をもぎ取られるんだ。
まあ僕にもぎ取られるようなお金は無いんだけど。
『だったら行けばいいじゃ無いか』
『失う物などお前の人生にまだあるのか?』
「……フン」
心の中の声に鼻息をならしてやる。あるさ。この安寧な暮らし。賃貸のおんぼろマンション。二ヶ月おきに振り込まれる障害年金。大事な物はまだあるさ。それをおめおめと奪われてたまるものか。
『しかし東口のカフェなら交番も近い。チェーン店で会計は前払いだしそれに日が変わる前に閉まる店だ。危険は少ないのでは?』
わからない。あそこはたまに通るけど特に治安が悪いといった話は聞かないし、目にしたことも無い。でもだからといってこんな伝言につられてのこのこ出て行くのは馬鹿みたいだ。行くものか。笑いものにされるかも知れない。僕は目を閉じる。電気をつけたまま。
『で、このまま黙って生きていてもお前の人生に何らかの進展があると思うか?』
『老いさらばえて孤独で一人死んでいく結末しかないんじゃないか』
『笑いものの汚名ぐらい甘んじて引き受けるべきだ。だって、お前の存在自体がすでに笑いものなんだから』
「……、……チッ」
自責は脳内を煮えくりかえさせる。けれども結局その思いが後押しになった。決めた。僕は服を着替え、れなと言う女の子との約束の場所へ向かう。
「……」
時間は九時四十五分ちょっと過ぎ。もういるかな? と思っていたが時間前だ、いるはずもない。僕はとりあえずSサイズのコーヒーを頼んで外から目立つ席に座る。待つこと二十分。少ししびれを切らした頃、背中から声をかけられる。
「ごめん、遅れちゃった」
振り返るそこには確かにピンサロやおっパブでおっぱいを揉んだ女の子がすまなそうに両手で謝罪のポーズを作って立っていた。
「いいや、別に待ってないよ」
普段着の彼女は初めて見る。彼女の体のラインにぴったりしつらえられて店よりもかっちりした印象を与える。けれどもやっぱり胸が大きいな。そして想像以上に背が低かった。そして思ったよりもかわいかった。
「待ってて。ラテ、わたし頼むから」
そう言ってカウンターへ向かう。しばらくしてトレーにラテを乗せて持ってきた女の子は当然のように僕の隣に座る。僕は聞く。
「えっと、れなさんでいいのかな。僕に何の用事かな」
「店での名前出すの禁止」
「ご、ごめん」
謝るとかわいらしく笑う。
「本名出してなかったしまあいいよ。私はしずく。あめかんむりに上下の下って書いて雫」
「雫さんか」
「さんもいらない。おじさんの方がどう見ても年上でしょ?」
「それはそうだけど」
「それよりおじさんの名前を教えてよ」
僕は雫に自分の名前を教えた。
「ふうん? 携帯番号は?」
「教えるの?」
僕が聞き返すと雫は笑った。
「ガード堅いんだ。あなたが携帯番号を教えるってことは私も番号を教えるってことになるんだけれど、それでもダメ?」
「……まあ、たしかにそうなるか」
僕は自分の携帯電話を取りだし自分の番号を確認して伝える。
「ケータイ、まだガラケーなんだ?」
スマホに打ち込みながら雫が言う。
「スマホ買い換える余裕がないよ」
「そう、職業はなにしてるの」
「無職だよ。障害年金で食べてる」
「どこか悪いの?」
「心がね」
「そうよね。見た感じ五体満足だし」
同時に雫がスマホから僕の電話にかけたのだろう、僕の手に持った携帯電話が鳴った。僕は電話を取り着信先を確認する。知らない番号。念のため電話に出て目の前の雫からの物だと確認して連絡先に加える。
「用心深いんだ」
「ただ臆病なだけだよ」
「この呼び出しに来るのも勇気いった?」
「正直、かなり迷った」
「それでもおじさんは来た」
「まあね」
「どうして?」
笑う雫。僕は答える。
「……失う物があまりないから、かな」
「そっか。普段は何をしているの」
「うーん、最近は何もしてないな。そういえば」
「それって、逆につらくない?」
雫が尋ねる。僕は困ったように頭をかいた。
「そうかもね。でも何をしてもダメだし施設に軽作業に行っても苦しくなるだけなんだ」
「ふーん、そう」
さっきから重々しく答えているつもりだがそれを見事に全て雫に軽く流される。まるで僕の悩みや苦しみなどたいしたことが無いかのように彼女は僕と会話してくる。僕は彼女の言葉を聞くたびに思う。そうかも知れない。僕の悩みなんてせいぜいちっぽけで情けない物かも知れない。そんな感じで僕と雫はたわいのない会話をした。そうこうしているうちに閉店時間になった。僕らは席を立ち駅に向かい、連絡路のところでもう少し話し合う。
「オフの日に連絡する」
「うん。僕は基本いつでも暇だからたぶん電話が聞こえたら出るよ」
雫の言葉にそう言ってそれじゃあと言おうとした時に雫が少し困ったかのように僕に話しかける。
「その……。今日、期待とかしないんだ」
「何の?」
「……セックスとかの」
若干小声で雫は言った。
「ああ」
そういえばそういう関係になってもおかしくない。それをまるで期待してなかった自分の鈍感さにあきれかえる。
「どうする……? 私は別に……かまわないけど」
僕は雫の姿を改めて見る。うーん、どうもそういう軽い女には見えない。それにそのことはそもそも頭から抜け落ちていたし。僕は言う。
「いやいいよ。別に」
「……ねえ、ほんとにインポなの?」
「まあだいたいは。それにそんな安い女じゃないでしょ雫は」
「え? そう、かな……」
雫の意外な返答に少し間が開いた。
「……」
「……えっと」
沈黙に戸惑っていると雫が言った。
「じゃあ本当にいいのね。私と寝なくていいのね」
「僕は社会とのつながりができただけで満足だよ」
「は?」
理解できなかったのか不快そうに首をかしげる雫。正直、少しムッとしたがここはこらえて僕は自分の心境を説明する。
「僕は本当に孤独なんで、こういう電話交換すらありがたいと持ってしまう残念な性分なの」
「ホントに?」
今度は理解したのか雫は首をかしげて言った。僕はおうむ返しに応じる。
「ほんと」
「……ふう」
雫は今度はため息をつくと何だか疲れたように笑った。
「じゃあ、今日はこれでお開き。でもまた電話するから。絶対電話するからそのときは出てね」
「うん、わかった」
そこで僕たちは別れた。彼女へ電車に乗りに駅へ向かい、僕は反対方向の町を通り抜け家に帰ってぐっすり寝た。
……思えばぐっすり寝るのは久しぶりだった。
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