⒉初めてのおでかけ。

 ドアの開く音、足音、椅子に座る音、よいしょと言う声、コーヒーの香り。それと共に明るさを感じて布団から顔を出すと、居間の出窓を机がわりに真剣な顔でパソコンと向き合っているおじさんの横姿が見えた。おじさんは顔がいい。いや、スタイルも悪くないので『顔“も”いい』が正しい。あたしの寝床であるソファの上で少し身じろぐとぎしりと鈍い音が鳴り、それに気づいたおじさんがこちらを向いてにこりと笑った。

「や、おはよう」

「……おはようございます」

 もう少し黙って眺めていようと思ったのだが、起きたのが早々にバレてしまった。

「よく寝てたね。もう十時過ぎてるよ」

 昨日寝たのは二十二時頃だったから、十二時間は寝ていたらしい。おじさんの家で寝るといつもこんな感じになってしまう。のそのそと起き上がり、座ったまま思いっきり伸びをして、体をゆるめて息を吐く。泊まるにあたって一室与えられたり居間に布団を敷いたり色々試したが、結局ソファで寝るのがいちばんよく寝られるということが判明した。以降はもふもふのクッションを枕に、ふかふかの羽毛布団と肌触りのよいタオルケットに包まれて、ソファで寝ることで落ち着いた。座面の広いゆったりめのソファなので、布団と同じ様にはいかないが寝返りをうつのも問題はない。

「洗面所借ります」

「はい。寒かったらストーブつけるんだよ」

 おじさんは優しいからそう言うけれど、今日はストーブもいらないくらいの陽気に恵まれているのをあたしは肌で感じていた。なぜならすでに少し暑い。おじさんは寒がりだからストーブが弱くついているが、このままだと最高気温に達するであろう昼には汗だくになりそう。廊下に出ると、少しひんやりとした空気が心地よかった。


 身支度を終えて居間に戻ると、おじさんが鉄瓶で沸かしてくれていた白湯をひたすら冷ましてから飲んでひと息つく。

「今日はどうしますか」

 今日はゴールデンウィーク三日目。初日はひたすら寝させてもらって起きてる時はだらだら過ごすという、なんとも堕落した一日を過ごさせてもらい、二日目は宿題を済ませた。今日は流石になにか手伝おうという気持ちで予定を聞いてみたものの、おじさんは腕を組んで考え込んでしまった。うんうん唸るおじさんを眺めながら白湯をすすり、気長に待とうと思ったところでちらちらと視線が交わる様になった。

「買い物でも掃除でも、なんでも手伝いますよ」

「いや、そういうのじゃないんだけど……」

 そんなに言い淀むことがあるだろうか。手伝いならさらっと言いそうだし、買い物だっていつも行くし、いったい何を悩んでいるのか。するとおじさんは気合いを入れるかのようにふーっと強く息を吐くと、

「動物は好きかな」

 ——おじさんは真剣な顔でそう言ったけれど、拍子抜けしたあたしの顔のおかげか、すぐにいつもの笑顔でへらりと笑った。

「朝から調べていたのはそれですか」

 パソコンの画面には、動物園のホームページが表示されていた。



***



「なにをあんなに意気込むことがあるんですか」

 大型連休で案の定混み合っている動物園の駐車場になんとか車を停めて、入場口へと足を進めた。おじさんの運転は丁寧で、そこそこ遠かったのにあまり移動疲れを感じていない。

「いやあ、それなりに仲良くなれたかなと思ってはいたけど、おじさんとふたりで出かけるなんてのはどうかなーと思って」

 近所のスーパーだったり車で十五分程の大型ショッピングセンターだったり、確かに遠出こそしていないが出かけることなんて何度もあったのに、

「なにを今更」

「はは、確かに」

 ……心にしまっておくはずだった言葉が最後だけ口から出ていたようだ。失敗。

 チケット売り場が目前になり財布を出そうとしている間に、おじさんはすっと体を割り込ませ売り場の人と話し始めてしまう。

「ちょっとおじさん…!」

「市民だと安くなるって。学生証とか生徒手帳とか持ってきてる?」

 外出の時はなるべく持ち歩くようにしているので、すぐに鞄の中から取り出して売り場のお姉さんに見せる。お礼の言葉と共ににこりと微笑えまれたのにつられて、あたしも微笑み頭を下げた。おじさんは免許証をお姉さんに見せるためまた前に立つと、料金を告げたお姉さんにそのまま支払いまで済ませてしまった。

「おじさん!自分の分は自分で払います!」

「まあまあ、僕がお願いして着いてきてもらってるんだから」

 少し歩いて売り場から離れると、おじさんはあたしの分のチケットとパンフレットを持たせてくれた。確かにおじさんがきっかけだけれど、あたしは元々動物が好きだ。大好きだ。でも動物園なんてここ何年も来られなかった。理由はなんであれ連れてきてくれたおじさんには感謝しかないのに、自分の分まで払わせてしまうなんて。スマートに済ませてしまったおじさんに羨みと申し訳なさと、お門違いだがわずかな怒りを感じて言葉に迷い、顔を伏せて黙っているとおじさんが口を開いた。

「じゃあお返しに、あとでコーヒー奢ってくれるかい?」

 視線をあげると、少し困った顔で微笑むおじさん。困らせてしまったんだろうか。でも先に困ったのはあたしの方だ。しかしここでうだうだしていてもなにも始まらない。せっかく来たんだから楽しまなければと気持ちを切り替える。

「いちばん高いやつ頼んでくださいね」



***



 軽快に動き回るエゾリス。空を飛ぶかのように水の中を進むペンギン。手も足も器用に使ってロープを渡るニホンサル。重々しくも優雅に歩くライオン。行動展示がウリのこの動物園では、どの動物を観察するにも飽きることがない——夜行性のもの以外は。時折スマホで写真を撮るあたしの横で、おじさんは小ぶりのクロッキー帳を手に動物たちを写している。ささっと描き上げてしまうそれは、あたしから見るとまるで魔法のようだった。離れた所にあるベンチに座って全体を描いたりもしているが、あたしはその間も柵や檻の近くで動物たちを眺めている。いきいきとしている姿をじっくり見ていると、それぞれの個性を感じられてとても面白い。あたしが飽きずに見ているからか、描くことに時間をかけられておじさんも満足そうだ。


 時間をずらして遅めのランチとして、売店で軽食を食べることにした。ちなみにお金はコーヒー代しか出させてくれなかった。しかもブラックがいいからと結果いちばん安いやつ。甘いのは好きじゃないからと言いながら、ほくそ笑んでいる様に見えるおじさんの狡賢さに腹が立ったあたしは悪くないと思う。

「平日の方が人少なくてゆっくり描けたんじゃないですか?」

「休日で人がたくさんいる方が、動物も興奮して動き回るかと思ってね」

「なるほど」

 おじさんは鹿肉バーガーの残りを口に放り込み、コーヒーを啜りながら楽しそうにマップを眺める。ミルクティーを啜りながら、それを眺めるあたし。


 おじさんは、どうしてこんなによくしてくれるんだろう。

 ただのお隣さんで、赤の他人で、自分になんの徳もない人間なのに。食費さえろくに受け取ってくれない。こうやって遠出したのは初めてだけど、次は水族館だとか言い出して、また巧妙な手口で入場料を払わせてくれないのではと今から気が気でない。

 先ほどベンチからスケッチしているおじさんを振り返って見た時、とても優しい目でこちらを見ていた。動物が好きだとか、絵が好きだとか、そういうのだけじゃないような、温もりのある眼差し。どんな気持ちで見ていたのかは分からないが、穏やかな、嬉しそうな、でもどこか寂しそうな表情に見えた。……なにか事情があって娘に会えなくて、身近にいる似たような年齢のあたしの面倒を見ることで心穏やかになろうとしているんだろうか。まあ完全な憶測というか妄想だけど。

 おじさんの家族の話は前に一度だけした。お仏壇にお母さんがいると、それだけ聞いた。それ以上は聞かなかった。家族の話は時につらいものになることを、あたしは身をもって知っているから。


「——けど、小鳥遊さんはどう?」

「……へ?」

 ぼーっとしてなにも聞いていなかった。じわりと意識が浮上して、おじさんがなにか言っていたであろうことだけ理解できた。

「次はこっちから周ろうと思ったんだけど、大丈夫?たくさん歩いたし疲れたかな」

「すみません、ぼーっとしてただけです。現役女子高生の体力舐めないでくださいよ。まだまだこれからです」

 おじさんの方こそ体力は大丈夫ですか?おじさんですし、とからかうと、これでも鍛えてるんだよとおじさんは笑うが、真偽は定かでないため軽く笑って流してしまった。



***



「ヒグマ好きなの?」

 今までより熱心に見ていたのが分かったのだろう、クロッキーを終えたおじさんがそう言った。

「基本的に哺乳類全般好きですけど、熊は、こう、デフォルメのイラストとかぬいぐるみになった時との可愛さのギャップがいちばんすごいと思ってて。その可愛さが本物に見あたらないか探してました」

見た目で言えばライオンもオオカミも怖いけど、結局はネコ科とイヌ科。身近でよく見るような可愛さが時折見てとれるおかげであまり違和感はないが、熊はどこか別格に思う。特にヒグマなんて恐ろしい事件の話が多いし外見にも可愛い要素は見当たらないのに、なぜデフォルメされるとああも可愛いのか。なるほど、と呟いたおじさんはヒグマをまじまじと見て、またクロッキー帳にサラサラと描き始めた。

「熊牧場だったら、お客さんから餌をもらうために手招きしたりしておねだりする仕草が人気みたいだよ」

「ここは飼育員からもらうから、お客には興味なさそうですもんね」

 日差しが心地いいのかマイペースにごろりと寝転がるシルエットは可愛らしいが、しかしあの厳つい顔はどうみても可愛いとは思えなかった。やはり怖い。

「今度行ってみようか?」

 おっと、水族館より先に熊牧場へのお誘いをいただいてしまった。

「……考えておきます」

 気持ちはとても嬉しかったが、あたしの辞書にも流石に『遠慮』という言葉はある。ゆっくり考えさせてほしかったので、曖昧に濁した返事になってしまった。



***



 閉園時間までたっぷりと堪能してからの帰宅となった。おじさんの家に着く頃には疲労を感じつつも、それより充実感で満たされていて気分はよかった。途中食料品などの買い物をしてきたので、ふたりで両手に袋を下げて冷蔵庫のある廊下へと運び込む。

「今日はありがとうね。おかげでたくさん描けたよ」

買ったものを冷蔵庫に入れながら、おじさんは言った。それはこっちの台詞だと思ったのでそのまま口にする。

「それはこっちの台詞です。連れてってくれてありがとうございました。動物園なんて本当、何年振りだったか」

 父が病気がちになってから家族で遠出なんてほとんどしていないから、幼い頃以来だ。まさかお隣さんと行くことになるなんて夢にも思わなかったけれど、本当に、本当に楽しかった。

「それで、お礼といってはなんですけど、なにか思い出を残したくて、よかったら、これを……」

 もごもごしている間にこちらを向いていたおじさんに渡した小さな紙袋の中には、動物たちのイラストと園の名前の入ったマグネット。丁寧に取り出したおじさんは、じっとそれを見つめていた。

「れ、冷蔵庫にでも貼ってください……」

 他にも言い方があったろうに、うまく言葉にできなかった。思い出を残したかったのもそうだけど、いちばんは、おじさんに今日のことをずっと覚えていてほしかった。もし今後この関係がなくなったとしても、あんなこともあったなって思い出せるような物を残したかった。あわよくばずっとこの関係が続いて、出かけることも増えて、冷蔵庫をマグネットでいっぱいにできますようにという願いもある。本当の家族との思い出が少ないあたしの、新しい思い出がたくさん増えますように。

「お、おじさん……?」

 マグネットを見つめたまま動かなず何も言わないおじさん。いらなかっただろうか。持て余すだろうか。余計なことをしなければよかっただろうか。やっぱり自分の内に留めておくべきだったろうか。緊張と不安がこみあげてきたが、おじさんはそっと手を伸ばしてあたしの頭を優しく撫でてくれた。嬉しそうで、どこか泣きそうな顔と目が合った。

「ありがとう……大切にするよ」

 おじさんは冷蔵庫の正面左上にマグネットを優しく貼ると、指先で触れたままそれを眺めていた。

「たくさん増やして、冷蔵庫いっぱいにしてみたいね」

 おじさんの口から、その言葉が出てくれたのが嬉しかった。少なくともこの関係が、すぐに終わるものではないと思わせてくれる。意図せずあたしの思いを汲んでくれたおじさんになら、この流れなら、『先』を望んでもいいのかもしれない。期待と緊張が入り混じり声が震えそうなのを堪えて、わずかな勇気を振り絞る。

「じゃあ、熊は今日たくさん見たので、次は水族館に連れてってくれませんか」

「もちろんだよ」

 今のあたしができる精一杯のわがままを、快く受け入れてくれるおじさん。自分の望みを伝えられること自体いつぶりだろう。それを受け入れてもらえることだって……。ついさっきまではこの関係がなくなることが怖かったけれど、今はこの先が楽しみに思えている自分に気付いて、それが幸せだった。


「お返しってわけじゃないんだけど、僕からも貰ってくれるかな」

 そう言っておじさんは上着のポケットから小さな紙袋を取り出して、あたしの手に乗せた。丸く膨らんでいて軽い、あたしが渡したのと同じデザインの紙袋。おじさんも、なにか買ってくれていたんだ。そっとテープを剥がして中身を手のひらに出すと、それはヒグマのぬいぐるみストラップだった。ずんぐりまるっこくデフォルメされた姿が可愛らしい。

「ぬいぐるみは可愛いって言ってたから」

 ——嬉しい。あたしの言ったことを覚えていてくれて、あたしのために選んでくれたのがとても

嬉しい。まさかおじさんから思い出に残る物をもらえるなんて。なのに、してもらってばかりで申し訳ないと思ってしまう。あれこれ払ってもらってるのに、お土産代まで……。素直に喜ぶべきなんだろうけど、素直に受け止められない自分が嫌になる。

「……ありがとうございます。大切にします」

 その言葉に偽りはない。小さなぬいぐるみを両手できゅっと包み、卑屈な気持ちを胸に留めた。

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メイちゃんとオジさん さちとわ @sachitowa

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