メイちゃんとオジさん

さちとわ

⒈おじさんの家に行った。

 


「ただいまー」


 そう言いながらガラスの引き戸を開けるが、ここは我が家ではない。

 所謂『田舎のおじいちゃんおばあちゃんの家』の様な古めかしい造りの家。屋根や外壁は経年劣化によりリフォームして、中身は昭和初期に建てられた当時からほぼそのままらしい。正直に狭いと言っていいだろう広さの玄関。右手には壁の幅いっぱいに造られた背の低い下駄箱。その上にはレースの敷き物や花瓶に生けられた造花、木彫りの熊の置物が飾られている。壁には長方形の大きめな鏡がかかっていて、そこに映る仏頂面な自分が視界に入り思わず苦笑いが出た。わずかな奥行きの敷台に足をかけてまたガラス戸を開けると、居間に直接繋がっている。

 すぐ右手には奥に向かって、居間と仏間を仕切るガラス戸が並んでいる。居間の中央あたりには煙突の付いた丸型石油ストーブがあり、そこに乗せられている小ぶりな鉄瓶からは湯気があがっていた。暦上はすでに春ではあるが、積雪の多いこの地域ではいまだ朝晩は冷え込みが強いため、暖房器具はまだまだ活躍する。今日は寒の戻りだったようで、この時期にしては気温が低い一日だった。しかし真冬の頃に比べれば幾分薄い素材になったコートを脱ぎ適当に丸めると、すぐ左にあるソファへ鞄と共に放り投げた。

 居間をぬけて玄関の真正面には廊下へと続くドアがあるが、あたしはその左にあるガラス戸を開けて、ダイニングとして使われている部屋へ入る。中央には六人掛けの大きなダイニングテーブル、壁際には壁を埋めるように大きな食器棚があり、いつ見ても立派なものだと感嘆する。食器棚から自分用に置かせてもらっているマグカップを取り出し、同じく自分用に置かせてもらっているミルクティーの粉末スティックを入れて居間に戻る。ストーブの上にある鉄瓶からお湯を注ぎ、ソファに座ってようやくひと息ついた。

 少し冷えた手を暖めたくて、マグカップを両手で包むように持ちながらミルクティーを啜る。鉄瓶から立ち昇る湯気を眺めてぼーっとしていると、ガラガラと外の引き戸が開く音がした。寒い寒いという呟きと共に内側のガラス戸が開かれる。


「鍵開けたままだと泥棒に入られますよ、おじさん」

「や、そこのコンビニまでと思ったらつい」


 嘘。おじさんのことだから、あたしがもうすぐ帰ってくるのを分かっていて鍵を開けたまま出かけたんだろう。じゃないと鉄瓶のお湯だって用意していかない。普段は加湿用に大きいアルミのやかんを置いているから。

 厚手のコートに身を包みマフラーをぐるりと巻いている、あたしから見れば真冬の装いをしているこの男性が、この家の主である。平均身長より背の高い、多分四十代から五十代くらい——大人の年齢は見た目じゃよく分からないからなんとも。長めに整えられた色素の薄い前髪を右手でかき上げながらはぁ疲れた、なんて言う姿は“おじさん”そのものだ。雪解けで足元が悪いとはいえ、コンビニまで片道五分程度なのに疲れただなんて。

「はいこれ、食後のデザートに」

 今でもいいけど、と言いながら差し出された小さなレジ袋を受け取り中を覗くと、プリンがふたつ入っていた。もう十八時になろうかという夕飯が近い頃合いなのに、今でもいいけどだなんて。

「ご飯近いから今は食べないです」

「え、そう?お腹空いてないの?僕が高校生の頃は三食は当然、おやつもこまめに食べないとお腹空いてしょうがなかったんだけどな」

 じゃあ冷蔵庫にしまっておくねと、おじさんはあたしからレジ袋を受け取り廊下へ続くドアを開けて奥へと向かった。今日はシチューだよ〜と言うかすかな声が、ドアの向こうから聞こえてそのまま消えた。——ふう、と思わず漏れ出たため息は疲れからではなく、おじさんが無事帰ってきたことへの安堵から。

 昨日世間話をした人と二度と話せなくなることがあると、あたしは身をもって知っている。玄関に靴がなかったから出かけているであろうことは分かっていた。でも、そこから無事に帰ってくるかは分からない。今日学校で話した友人や先生だって、明日同じように話せるかなんて分からない。だからあたしは、大切な人と再び会えた時いつも胸をなでおろす。

 ソファに畳んで置いてあった大判のブランケットを腰に巻いて下半身を包み、おじさんが向かった方へと足を進める。ドアを開けると短い廊下がある。左手には先程のダイニングに繋がるガラス戸、右手にはおじさんが物置になっていると言っていた六畳の部屋に繋がる引き戸。その戸の上は向こうからこちらへ向かって上がる二階への階段に覆われている。階段下には冷蔵庫とオーブンレンジ、その他棚に色々と中身の分からない段ボールがいくつか。そのまま数歩進み、またドアを開けるとキッチンに出る。左手には奥に向かってシンクやガステーブルが並び、窓からやわらかい西日が差し込んでいる。右手には洗面台と、その奥に洗濯機。正面は右からトイレ、お風呂場、裏口に出られる土間が並んでいる。

 くつくつと音を立てている鍋をかき混ぜていたおじさんが、音に気づいてこちらを向いた。

「おや、お腹空いた?」

 にこりと微笑むおじさんの髪が、西日を受けて赤みを帯びた黄金色に輝いてとても綺麗だ。

「いえ……手伝いますか?」

「もうすぐだから大丈夫だよ、ありがとう」

「じゃあ、見ててもいいですか?」

「もちろん」

 おじさんはそう言うと、自身のすぐ後ろにあった小さな背もたれ付きの華奢な椅子を渡してくれた。いつもは煮物など時間がかかる料理中の腰掛けにしているそれを、おじさんの背中が見えるよう部屋の真ん中より少し離れた所に置いて、椅子の上で体育座りした。

「いつ見ても器用だねえ」

「現役女子高生なので」

「そうでした。寒かったら戻るんだよ」

 ここには小さなポータブルストーブしかないので、足元くらいしか温められないのだ。あたしは制服のブレザーを着ているし、中にカーディガンも着ている。脚にはブランケットを巻いてきたし、寒さはまあ大丈夫だろう。おじさんはまたキッチンに向かい、鼻歌を歌いながら野菜を切り始めた。窓から差し込む茜色の中で動く後ろ姿をぼんやりと眺める。


 おじさんの家は初めて来た時から居心地がいい。知らない家のはずなのになぜか懐かしくて、あたたかくて、真綿で包まれている心地になる。そこそこ住んでいるはずの自分の家より不思議と落ち着けるのは、人の気配があるからだろうか。

 体育座りの膝に頭を預けて、眠るでもなく目を閉じる。シチューの匂いに、くつくつと煮込まれる音、食材を切るまな板の音、おじさんの鼻歌と、たまに水音。うちでも、こんな音がしていた頃があったっけ。あったような。あったはず。父がいて、母がいて、家族で食卓を囲んだあたたかい思い出。もう遠い記憶をたどり探ってみるけれど、ぼんやりとしていて曖昧でうまく思い出せない。現実だったのか夢だったのかどうかも分からなくなってきて、つきり、と胸が痛んだ。

「小鳥遊さん、味見してくれる?」

 声がかけられた方に顔を向けると、ひと口分のシチューが入った小皿が差し出されていた。わずかに湯気の上がるそれを両手で受け取り、息を吹きかけ冷ましてから口へ運ぶと、牛乳と野菜の優しい甘さが口に広がる。痛んだ胸まであたたかくなる気がした。

「おいしいです」

「よし、じゃあご飯にしようか」

 ダイニングはあるものの、ストーブを使う期間は節約のためほとんど締め切っているので、居間にちゃぶ台を出して食事をとる。今日はシチューをご飯にかけたのと、ブロッコリーのサラダ。おじさんはシチューに大根を入れるようで、初めて出された時は訝しんだが食べてみると思った以上に美味しくて、以来すっかり気に入ってしまった。食後のデザートにおじさんが買ってきてくれたプリンをつつく。

「明日は何曜日だっけ」

「金曜日です。なので今日は帰ります」

「燃えるゴミの日だね」

「そうです」

「明日は泊まるでしょう?」

「はい、お邪魔します」

 ゴミ捨てでたまに顔を合わせる程度だった“お隣さん”なのに、今じゃその家で夕飯を共にして、ほぼ毎週末泊まっている。話だけ聞けば付き合ってるんじゃないかとか、パパ活じゃないかとか、色々思われることだろう。でも、決してそんな関係ではない。父を亡くし、母は海外出張から帰らず、大きな一軒家でひとり暮らしになってしまった女子高生が心配で、声をかけてくれた優しいお隣さん。あたしはその優しさを利用しているのだ。善意につけ込んで、手伝うとはいえほぼ毎晩ご飯を作らせて、家に入り浸って、気を遣わせて、居場所の一部を奪っている。自分もひとりだしそうしていいと言ったのはおじさんだけれど、言われたからってその通りにするなんて、なんて図々しいんだろう。

 そう思っているのにここから離れられないのは、あの家にひとりでいると胸が苦しくてたまらないから。音楽を流したりテレビを見ていても内容が入ってこない。見るもの全部が白黒で、電気をつけていてもどこか薄暗い。布団に入ると静かすぎるのが逆にうるさくて、この世に自分ひとりだけになってしまったような気持ちになってしまいなかなか寝付けないし、夜中に何度も起きるしで、ずっと前からうまく寝られていない。おかげ常に睡眠不足のような状態のためいつも隈がうすらと浮かんでいて、これを見かねたおじさんの提案によるものから現在に至る。おじさんの家なら、不思議とよく寝られるのだ。


「ごちそうさまでした」

「お粗末さまでした」

 片付けるため食器をまとめようとしたがおじさんにやんわりと止められたので、申し訳なく思いつつそれはそのままに自分の身支度をする。と言ってもコートを羽織り鞄を持つだけだが、どうにも気が重くて動きが緩慢になる。——できることならこの家にずっといたい。優しいおじさんのいる、あたたかいこの家で暮らしたい。でもそんなこと許されるわけがない。母にも、世間的にも、あたし自身だって。今でも十二分に甘えすぎているんだから、これ以上踏み込む訳にはいかない。おじさんは、ただの“お隣さん”なのだから。

「明日はなに食べたい?」

「なんでもいいですよ。ありもので」

 帰り際の、いつものやり取り。本当に優しい人だ。その優しさを向けられるたび嬉しくて、同時にそれを食い物にしている自分に嫌気がさす。それなのに離れられない矛盾した感情に揺さぶられながら、今日もあの家に帰る。

 玄関で靴を履いて振り向くと、見送るため敷台に立っているおじさんが目を細くしてあたしを見下ろしていた。いつも笑顔だけれど、この時ばかりは少し寂しげに、哀しげに見えるのはなぜだろう。

「じゃあ、おやすみなさい」

「おやすみ。また明日ね」

「はい、……また明日」

 また明日、また会えますようにと祈りを込めて、あたしはその言葉を口にする。

 街灯に照らされた宵闇の中に進み振り返ると、ひらひらと手を振るおじさんがいて自然と口元が綻んだ。カラカラと音を立てながら引き戸を閉めるが、後ろ髪を引かれる思いとはこのことを言うんだろう。歩き出すと名残惜しげに短い髪がなびいたので、何の気なしに振り向いた——視界に映ったのは明かりの灯った玄関と、毛筆書体で『小路(おじ)』と書かれた表札。

 そのまま足取り重く帰路に着く。田舎町の端の方だから近隣住宅ははまばらで、近くにはあまり家がない。しかし隣と呼べるくらいの距離しか離れていないあたしの家にはすぐに着いた。玄関に着くとなんとなく、いつもは意識から逸れているうちの表札を視界に入れた。かわいらしい丸文字で書かれた『小鳥遊』の名字の後ろに、父の名前、母の名前、そしてあたしの名前、『明(めい)』の文字。

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