乗車券を拝見します

尾手メシ

第1話

 木島がホームに着いた時、既に電車は来ていた。

 一時間ほどの残業をこなして、その後に行きつけの居酒屋で軽く一杯引っかけた。時間は午後一〇時を回っている。ホームにはまばらに人がいるばかりだ。

 日中は汗ばむ陽気だったが、春先の夜はまだまだ冷える。羽織った上着の前を両手で合わせながら、木島は近くの扉から車両に乗り込んだ。席に座って、おもむろに車内を見回してみる。一〇人ほどが乗っていた。木島と同じだろう、仕事帰りらしき会社員。塾の帰りなのか、鞄を抱えた子供。大学生らしき若者のグループ。静かな車内に、大学生達の小声で話す話し声だけが聞こえている。

 やがて、車掌のアナウンスと共に発車のベルが鳴り、プシューッと空気の抜ける音と共に電車の扉が閉まる。ガタンッと一揺れして、電車は走り出した。



 疲れと酔いの回った体にガタゴトという電車の揺れが心地良い。このまま一眠りしようかとも思うが、木島が降りる駅までは三〇分ほど。過去、何度か寝てしまって乗り過ごしたことがある。一度など終点まで行ってしまい、そこで電車が無くなってしまって帰るのに往生した。このまま起きていようと思うものの、電車の揺れに身を任せているうちに頭がぼうっとしてくる。木島はうとうとと眠り始めた。

 木島ははっと気がついた。しまった、眠ってしまった。電車は今、どこを走っているだろうか。乗り過ごしてなければいいが。慌てて窓の外を見てみるが、なにせ深夜になろうという時間である。暗い中に明かりがポツポツとついているのが見えるだけだ。どこを走っているのか良く分からない。仕方なく車内に目を戻すと、乗客が入れ替わっていた。木島が眠っている間に降りたのだろう、大学生も子供も会社員もおらず、代わりに男女が数人乗っている。

 新しく乗ってきたとおぼしき乗客は、性別も年代もバラバラだが皆一様に無表情で静かに席に着いている。時間も時間なので皆疲れているのだろうが、車内のLEDの白い光の下で見るそれは、木島の目には不気味に映った。乗り過ごしたかもしれないという不安も相まって、木島の心をざわつかせる。

 落ち着かない木島の耳にカッカッカッと靴音が響いてきた。そちらを見やれば、制帽を目深にかぶった車掌が歩いてくる。


「乗車券を拝見します」


木島の乗る車両に入ってきた車掌はそう告げた。車内灯の明かりの下で濃く影の刺すその顔はにこりともせずに無表情だ。

 乗客が懐から乗車券を取り出す。それを見て、木島も同じように乗車券を出そうとした。ジャケットの内ポケットに手を伸ばして、はたと気がついた。木島は普段ICカードで運賃を払っている。今夜も改札にICカードをかざして電車に乗った。乗車券を持っていなかった。どうしよう、乗車券を持っていないのに電車に乗ってしまった。素直に謝れば許してもらえるだろうか。考えのまとまらない木島をよそに


「乗車券を拝見します」


パチン。


「乗車券を拝見します」


パチン。


「乗車券を拝見します」


パチン。

 次々に車掌は乗車券をもぎっていく。

 すぐに木島の番になった。


「乗車券を拝見します」


木島の目の前に立った車掌の声に、しかし、木島は答えられない。


「乗車券を拝見します」


再度の車掌の呼びかけに、木島は意を決して答えた。


「申し訳ありません。実は、乗車券を持っていなんです」


それを聞いた車掌は、表情を変えることもなく、ただ一言だけ返す。


「乗車券をお持ちでない方のご乗車はご遠慮頂いております」


 駅に着いたのか、丁度タイミングよく電車が減速を始める。すぐにガタンッと一揺れして電車は停車した。プシューッという音と共に扉が開く。車掌に促されるまま、木島は電車を降りた。

 ホームに降り立って顔を上げた木島の目に映ったものは、墓石だった。どこまでも続いているように、夥しい数の墓石が辺り一面に並んでいる。それが、供えられているローソクの灯りを受けて、闇の中にゆらゆらと浮かび上がっていた。じっとりと汗をかくような生温い空気が、木島に粘り付いてくる。

 発車のベルの音に振り向くと、扉を閉めた電車がゆっくりと動き出すところだった。徐々に速度を上げながら、電車は墓石の向こうへ遠ざかっていく。それを木島はただ眺めていた。



 どうやって家に帰り着いたのか、木島は全く覚えていない。気がついたときには、自宅の玄関の前に立っていた。果たしてあれは現実だったのか、酔いと眠気が見せた幻だったのか。いずれにせよ、あれ以来、木島は切符が買えなくなった。もし、切符を持っている時にあの電車に乗ってしまったら、二度と戻れないような気がして恐ろしくて仕方がない。ただ、闇夜に墓石が浮かぶあの風景が、どうしても忘れられずにいる。

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