02●イワノフスカヤ村の謎(2):大学生活は可能? ドイツ軍は何しにここへ?
02●イワノフスカヤ村の謎(2):大学生活は可能? ドイツ軍は何しにここへ?
西暦1941年6月、ナチスドイツのヒトラー総統は『バルバロッサ作戦』を発動、ソ連との戦端を開く。
独ソ不可侵条約を勝手に破った一方的な侵略である。
ドイツ軍は大挙して東へと侵攻、モスクワを目指して進撃するが、道路は主要街道の一本を除いてほとんど未舗装、そこへ秋の長雨で路面は泥濘化、戦車すら走行困難となり、補給も滞って戦線は停滞する。
モスクワはまだ攻略できないが、ここで戦線を固めて越冬し、翌年に仕切り直して再攻勢をかけるべきではないか……と将軍は進言するが、ヒトラーは首を縦に振らなかった。
「もうチョイやないか! ちゃっちゃと攻めて取ってまえ!」(関西風)
同年10月、『バルバロッサ作戦』に代えて、『タイフーン作戦』を発動。
ドイツ軍はモスクワへ猛攻をかける。
しかしソ連軍も本気だった。
10月、モスクワ市内は戦闘地域と宣言され、全ての市民が軍事機構に組み込まれる。17歳以下の子供、女性も老人も根こそぎ動員されて、非戦闘員は陣地作りに従事させられた。(『タイフーン作戦』著:小林源文 2002 学習研究社 15頁)
ドイツ軍は12月、「クレムリンまで直線であと44キロ」(同81頁)にせまるが、猛烈な寒気を纏った冬将軍に襲われる。
防寒装備と
ソ連軍は反転攻勢を仕掛ける。
明けて1942年、ソ連軍はじわじわと戦線を西へ押し戻した。
2月現在、モスクワとその南の都市トゥーラを結ぶ線から西へ50~100キロあたりまで、ドイツ軍は後退している。
連日、零下30度に至る極寒地獄にさらされて、戦車のバッテリーはいかれ、車両のラジエータは凍り付き、銃器のメカまで凍結する現状で、凍傷に苦しみ凍死者も続出する中、ドイツ軍はヒトラーの命令で戦線死守に努めるが、劣勢を挽回することはできなかった。
*
以上が、1942年2月7日のイワノフスカヤ村を取り巻く戦況です。
以上を踏まえ、『同志少女よ、敵を撃て』の第一章と照らし合わせてみましょう。
まず、セラフィマの大学生活の謎です。
セラフィマは「モスクワの大学に」進学することを話題にします。(P18.24)
明るい話題ですが、前述したように、前年の1941年10月から、モスクワの全市民が戦時動員されています。
大学など教育機関の授業などは、まだ正常に復帰していないと思われます。
というのは、ドイツ軍を50~100キロばかり西に押し返している状態で、このあと春になれば、再度、大攻勢をかけられる恐れがあるからです。
大学再開のめどは立っていないでしょう。
セラフィマが戦時体制のモスクワに移住することは、花のキャンパスライフどころか、戦時動員に組み込まれることを意味しています。勤労奉仕です。おそらく軍の補助業務などに就かなくてはならないでしょう。
ですから、モスクワでの大学生活を夢見るセラフィマのセリフは、1942年2月という時期では、どこか不自然です。大学そのものが新学期まで存続しているのか、それすら心配して当然の状況なのです。
しかしこの時制を半年間さかのぼって、今が1941年の夏としたら、ドイツとの戦争が始まってまだ一、二か月となり、モスクワの市民は戦時動員されておらず、大学などの学生生活も(たぶん夏休み中となりますが)破綻してはおらず、9月の新学期からの入学を楽しみにしても不自然ではないと考えられます。
モスクワでの大学生活を語るセラフィマのセリフや明るい表情は、1941年の夏ならばギリギリ可能ではないか、そう思うのです。
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もうひとつ、不自然な点は……
村を襲うドイツ軍の一部隊は、何しに来たのか? という謎です。
突如、村に現れたドイツ軍は、村人にこう詰め寄ります。
「パルチザンの居場所を言え」(P27)
いの一番に、パルチザン狩りです。
パルチザンとは、ナチスに反抗する武装民兵。
非正規軍の、ゲリラといったところです。
ここも、ちょっと不自然です。
なぜなら彼らは、「小隊規模で敗走して、道を間違えてここになだれ込んだ」(P40)と明示されているからです。
1942年2月現在、戦線は西方50~100キロの距離に押し戻されています。
つまり彼らは、本来なら西へ逃げなくてはならないのに、方向を間違えて正反対の東へトラックを走らせ、50~100キロも移動してイワノフスカヤ村へ迷い込んだことになります。
なのに西を東と間違える、トンデモな方向音痴。不思議なフリッツたちですね。
それに厳寒の2月です。
「制服は、全てが薄汚れ、だらしなく着崩されていた」(P26)とありますので、かなりボロボロ感のある敗残兵で、補給もままならずソ連軍から逃げていると思われます。
腹を減らし、寒さに凍える、手負いの敗残兵。
そんな連中が最初に欲しがるものは、まず食い物、そして身体を温める酒、そして車のガソリンでしょう。
パルチザン狩りどころでなく、いの一番に略奪あるのみです。
次に防寒具を奪い、その次に女……となってしまいそうですが、婦女暴行に及ぶ前に、指揮官にわずかでも判断力が残っていたら、まず村人にこう要求するでしょう。
“ここはどこなんだ! 地図を持ってきて正確に教えろ!”
敵地の只中で道に迷っているのですから、のんびり婦女暴行する前に、まず現在地を把握しなくてはなりません。
肉欲にかられて、もたもたしていると、次の一瞬にソ連の正規軍がドッと現れるかもしれない。虐殺されるのはこちらです。
現在地を知り、どっちへ逃げるのか、逃走の算段を付けるのが最優先のはず。
なのに、パルチザン狩りです。
パルチザン狩りをするというのは、この村を今から当分の間、占領するので、我々ドイツ軍の邪魔になる反抗分子をまず一掃するゾ……ということですね。
今後、占領して居座るぞ……という意志が、前提になります。
しかし彼らは味方の戦線へと必死で逃げている途中ですから、パルチザンの捜索なんか放っておいて、地図を確認し、食糧や燃料を略奪したら、西を目指して一目散にスタコラ逃走したいはず。
なにしろ、パルチザンどころか、ソ連の正規軍に追われる身なのですから。
ですから、この、第一章P26の“パルチザン狩り”のくだりは、今が1942年の2月とすれば、不自然さをぬぐえないと思われます。
しかしこの時制を半年間さかのぼって、今が1941年の夏としたら、ドイツとの戦争が始まってまだ一、二か月となります。
モスクワを陥落すべく進撃するドイツ軍の偵察部隊がイワノフスカヤ村にいち早く到達して、“以後ここはドイツ軍が占領する”と宣言して、「パルチザンの居場所を言え」(P27)と詰め寄る光景があっても、納得できるわけです。
“明日も明後日も、以後ずっと、我々ドイツ軍がこの村を支配する”という前提があってこそ、パルチザンを排除することに手間をかける意味があるのですから。
ただし、村の位置関係が合いません。
モスクワとトゥーラの中間点とされるイワノフスカヤ村から見ると、1941年の夏では、まだドイツ軍ははるか200キロ以上、西の彼方にあって、東に向けて進撃している真っ最中です。
ですからこの場合、“イワノフスカヤ村はモスクワから200キロあまり西にある”と、地理設定を変更する必要があります。
*
つまり、こうなります。
“イワノフスカヤ村はモスクワから200キロあまり西にある”とし、
“現在は1942年2月でなく、半年前の1941年夏である”と設定を変更すれば……
第一章の鹿狩りの場面描写や、大学に関するセラフィマのセリフや、ドイツ軍の行動にみられる不自然さが綺麗に解消されるのです。
以上が、私が『同志少女よ、敵を撃て』の第一章の原稿が、当初、“1941年夏”の物語として執筆され、そして、ある理由によって、“1942年2月”の出来事に書き換えられた……と推理する根拠の一つです。
さてしかし、推理の根拠はもうひとつあります。
“焦土作戦”の謎です。
詳しくは次章で。
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