第三十一話「王都の貴族、フィンに興味を持つ」

 ビンツ男爵の眼前に広がっていたのは――。


 街の人々がゆったりと体を休めている大浴場だった。



「これは、いったい……」


 そこにはもう、庭と呼べるようなものはなにひとつ存在していなかった。

 もしこれでモルデン侯爵の機嫌を損ねるようなことがあれば、ビンツ男爵は間違いなく破滅だ。


(庭は? わしの美しい庭は? いやそもそもなんでわしの庭が公衆浴場・・・・になっているんだ?)


 男爵の全身から、冷や汗が吹き出す。



「温泉ってのは気持ち良いもんだな、クレイ」

「ええ、旦那さま! こんなのわたくし初めてです!」


 服屋が提供してくれた布を巻いて、みなゆったりと温泉を楽しんでいた。



「ビンツ男爵、貴殿は美しい庭と言っていたが、これは……」

「違います違います違います! なにかの間違いです! わたしの庭がそんな……あ、あいつです!」


 男爵は、温泉に浸かっているフィンを指さした。


「あいつです! フィン・バーチボルトという男です! みんなあいつがやったんです! ですからどうか……」


 領主の罷免ひめん――僻地へきちにとばされる――さまざまな思考がビンツ男爵の頭を巡る。

 なにせ美しい庭を愛することで有名なモルデン侯爵に、こんな光景を見せてしまったのだ。


「みんなあいつがやったことですから! 私はなんの関係もなく!」

「ビンツ男爵!!」


 モルデン侯爵の声に、ビンツ男爵は震え上がった。


「ここは貴殿のやしきに相違ないな!?」

「それはそうです……そうなんですが……みんなその、あいつが……」


 フィンをさす指が、ぷるぷると震えている。


「これが、美しいと評判の貴殿の庭か!!」

「いえ、いつもはそんな、そんなことは……」


 ビンツ男爵は、おずおずとモルデン侯爵を見上げた。


「どうか……領主の罷免だけは……」





「素晴らしいッッ!!」




 こぶしを握りしめ、モルデン侯爵は目をうるませていた。


「聞けばリーンベイルでは地震があったそうではないか。自らの庭を公衆浴場として開放し、疲れた民草に癒しを与えるとは、なんたる領主のかがみか!!」


 モルデン侯爵は感動の眼差しで、温泉に近づいた。

 そして湯を手ですくい、香りを確かめる。


「なるほど【治癒の薬草】による薬湯か! 読めたぞビンツ男爵。貴殿はコレを作っていたから今まで薬草の供給をしぶっておったのだな」

「え、あの、その、え?」

「いくら大量の【治癒の薬草】があったとて、いまだに価格の高騰こうとうは続いておる。ゆえに市場を待っていては、すべての民の傷を癒すまで何年かかるかと思っていたが……」


 感動に打ち震えるモルデン侯爵は、男爵の狼狽ろうばいなど気にせず言葉を続ける。


「だがしかし、こうして金も取らず湯治場を開放すれば、多くの者を同時に、そして分け隔てなく癒すことができるというわけか! 貴殿は素晴らしい慈善家だ!!」


 ビンツ男爵は、状況がまったく飲み込めていない。

 モルデン侯爵は、ビンツ男爵の手を握った。


「私を許して欲しい、ビンツ男爵。私はてっきり貴殿のことを、鈍牛どんぎゅうの尻からひり出されたクソ豚だと思っていた! こなごなにして作ったクソッタレなソーセージを犬の餌にでもしたほうが世のためになると、大きな勘違いをしていた!」


 握った手をぶんぶん振りながら、モルデン侯爵は感動の涙を流す。


「確かにここは、世界一美しい庭に違いない。貴殿の意をみ、すぐにでも王都で苦しむ人々が湯治に来られるように定期便を手配しよう」

「それは……もちろん……まったく……」

「話は聞いたな、では早馬を飛ばせ!」

「承知いたしました! モルデン侯爵!」


 モルデン侯爵の部下は、馬に乗って遠くへ消えていった。


 あっという間に、王都から湯治客を招くことが決まってしまった。

 モルデン侯爵の顔に泥を塗るわけにもいかないので、今さら金を取ることもできないだろう。


 かくして、ビンツ男爵の庭は、誰でも無料で使える公衆浴場となった。


「しかも貴殿はこの浴場を自らの手柄とせず、作事さくじになった者の名を私に伝えてくれた。すべての領主は貴殿のようでなくてはならん」

「それは……その……どうも……」


 ビンツ男爵は嫌な汗をかき続けている。

 そんなことは気にもせず、モルデン侯爵はフィンに声をかけた。


「君は、たしかフィン・バーチボルトといったか? 建築技師かね?」

「いえ……私はしがない冒険者です」


 おずおずとフィンが答えると、モルデン侯爵は質問を続けた。


「ふむ、冒険者! 君がこの公衆浴場の建設を提案し、指揮したというのは本当かね?」

「そうです! 旦那さまはとっても偉くって……むぐむぐ」


 フィンは慌ててクレイの口をふさいだ。


「思いついたのは私ですが……ひとりじゃとても、こんなことはできませんでした。街のみんなの力があってこそで……」

「ビンツ男爵といい、君といい……リーンベイルの者は、誰もが謙遜けんそんの徳を持っていると見える」


 そう言って、モルデン侯爵は側近に上着を預けた。


「この素晴らしい公衆浴場を造った君と、同じ湯に浸かる光栄に浴してもかまわんかね?」

「私の許可なんか、いりませんよ。みんなの温泉ですから」

「では遠慮せず、湯をいただこう」


 モルデン侯爵は脱場で服を脱ぎ、腰に布を巻いてかけ湯をした。

 そうして湯に足を踏み入れ、フィンのところまでやってきた。


「私はホーラント・モルデン侯爵……王都ウルカンヘイムの執政官だ」


 そう言って、モルデン侯爵はフィンに手を差し出した。

 フィンは立ち上がって、その手をおずおずと握る。


「フィン・バーチボルト、冒険者です」

「ただの冒険者じゃありませんぜ! 侯爵どの!」


 街の人々から声が上がる。


「あの凶賊きょうぞく“ドブイタチ”をひとりでぶっ潰した英雄ですよ!」

「それに“冒険者殺し”も、見事捕まえてみせた!」

「ふむふむ、詳しい話を聞きたい」


 モルデン侯爵は人々の言葉に耳を傾ける。

 みんな温泉で気持ちよくなっているものだから、どんどん話を盛りまくった。

 そしてそれを真剣に聞いているモルデン侯爵。


「なるほど、武勇に長け、優れた知性を持ち、機転を働かせる勘に加えて統率力、そして人徳までも持ち合わせていると……」


 モルデン侯爵は、口ひげをひねり、うなった。


「これほどの逸材がリーンベイルの地にいたとは……ひとまずは湯に浸かろう、隣にいてもかまわんかね」

「旦那さまの隣はわたくしだけですっ! むぐぐぐぐ」

「どうぞ、お好きな場所で」

「では失敬」


 モルデン侯爵は肩まで湯に浸かり、ふうっと息をついた。


「素晴らしい湯だ。骨のずいから疲れが染み出すようだ。フィン君、と呼んでもかまわないかね?」

「それはもう、どうぞ、ご自由に」

「君の話を詳しく聞きたい」

「はあ……」


 フィンも、ただただ戸惑うばかりだ。

 王都の貴族が、ただの冒険者であるフィンに、やたらと興味を抱いている。


「私はね、フィン君。優れた働きをする者は、それに応じた場所にいるべきだと考えている。なにもリーンベイルを軽んじているわけではないがね」


 そう言って、モルデン侯爵は快活な笑顔を浮かべた。


「明日、ビンツ男爵の家に招待されることになっている。男爵さえ良ければ、君も交えて話の場を持ちたい。かまわないかね、男爵?」


 ビンツ男爵は、それを聞いてぷるぷると体を震わせた。

 あの憎い憎いフィン・バーチボルトを、家に招待することを提案されたのだ。

 しかし侯爵に逆らえるはずもない。


「ええ、かまいませんとも! なにとぞ、侯爵のお考えのとおりに……!」

「と、いうわけだ。ぜひ来てくれたまえ。ではお先に失礼」


 そう言い残すと、モルデン侯爵は温泉から上がり、脱衣場へと入っていった。


「なんかよくわからんが、とんでもないことになってる気がする」


 肩まで湯に浸かって、どうも思考が鈍っている。


「まあ、なるようになるだろ」

「ええ、旦那さま!」


 フィンはこの先、自分に何が待ち受けているのか、当然のことながら知る由もない。




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