第十八話「小さな世界」
サンティは、たおやかな笑みをけして崩さなかった。
ただひとり、フィンを支えてくれた、大切な仲間。
“冒険者殺し”――そして。
フィンに苦痛を与え続けてきた、張本人。
テーブルの上で指を組んで、フィンは言う。
「聞いて意味のあることかどうかはわからないが……どうしてこんなことをしたんだ?」
それを聞くと、サンティの笑みは輝いた。
「“恋”だからです」
サンティは、静かに語り始めた。
「私はフィンさんの、
フィンを見ていたはずのその瞳は、気づけば――まるで夢を見るように、あらぬ方向に向けられていた。
「私にだけに向けられた、気持ち。それを、包み込んで、
ゆっくりとイスから立ち上がったサンティは、胸元に手を置いて言葉を続ける。
「
サンティは愛おしげに、フィンを見つめた。
まるで恋人と、
「痛みと苦しみが、必要なんです。恐怖と絶望に染まってなお、私に
フィンに【ヒール】をかけた、あの日と同じようにサンティは
「なんども、なんども繰り返して、たくさんの“恋”を
「………………」
「すっかりくたびれて、傷ついて、プライドも、なにもかも失っていくあなたを見るたびに、私の
笑顔に、
「私はあなたに、本当の“恋”をしたんですよ」
しばらく、部屋を静寂が支配し――
それを破ったのは――クレイだった。
「……なにが、本当の恋ですか」
クレイは、イスを蹴って立ち上がった。
「あなた“それ”は飢えた獣の言い訳です」
ルビー色の瞳は、怒りに満ちている。
「はっきり言ってあげます。あなたは本当の“恋”を知らない。これまでも、そしてこれからも」
そのときはじめて、サンティの顔から笑みが消えた。
静寂よりも冷たい目が、炎のように揺れるクレイのそれと交わる。
「“恋”は……旦那さまが教えてくれた“恋”は、そんな醜いものではありません!」
サンティは修道服の
「あなたのような小娘には、私の“恋”がどんなものか、永遠にわからないのでしょうね」
数多の血を――“恋”を
だがサンティは、もうクレイを見ようとはしなかった。
あまりにも、
涙が、ひと
「
サンティは欠けた刃を、クレイではなく、
切っ先が柔らかい皮膚を裂こうとした、そのとき。
「……もう十分だ」
フィンは立ち上がって、サンティの腕を掴んだ。
軽くひねると、ナイフは床に転がってむなしい音を立てた。
「君のそれが“恋”だというなら、そんなふうに決着をつけちゃいけない」
交わされた視線の、そのどちらもが
サンティの体から力が抜け、フィンはそれを抱きとめる。
「……もういいでしょう? 修道長さん」
フィンが合図すると、ドアが開いた。
そこに立っていたのは、修道長だ。
「本当に残念でなりません。憲兵さんの詰め所へ使いをやりました。もうすぐ来られる頃合いでしょう」
「………………」
憲兵隊が到着するまで、誰ひとり言葉を交わさなかった。
サンティはなにも言わず、憲兵に連行されていった。
ただ――そのときにこちらへ向けられた
フィンとクレイは、騒ぎに
「あのパーティーでは、散々な目に
フィンはひとり、むなしく
「でも、サンティのことは信じていたんだ」
「旦那さま……」
ベイブの言ったとおり、すべてサンティが仕組んだことだった。
パーティーでいやがらせを繰り返されたことも、悪い噂を流されたことも。
なにもかも。
「………………」
いずれ、すべてが明るみに出るだろう。
やがてリーンベイルの人々が“冒険者殺し”の傷を忘れていくように。
街に広まった、フィンの悪い噂も消えていくに違いない。
そうして、街には日常が返ってくるだろう。
フィンのもとにも、本当の、人間としての日常が。
それでも――フィンはなにか大事なものが、自分の心から抜け落ちたような気がしていた。
サンティの“優しさ”に支えられ、それを疑わず受け止めていた、なにかが――。
「ちょっと……疲れちまったかな」
「旦那さま」
クレイは、わずかに笑顔を見せた。
それがあのサンティの最後の笑みを、少し上書きしてくれた。
「少し、街はずれまで歩きませんか?」
「
「いいから、来てください!」
クレイに手を引かれ、街の人の目が届かないところまで、ふたりで歩いた。
足音が、なんだかむなしい。
それがやがて草を踏む音に変わり、街はずれの丘へとのぼった。
「こんなところへ連れてきて、どうするんだ?」
「見ていただきたいものがあるんです」
すうっ、とクレイの身体が浮かび上がる。
そしてその背から大きく広がるのは――見忘れるわけもない。
まばゆい神々しさは、天の使いか。
人知を超えた威厳は、悪魔の
最初に会った宿屋で、フィンはそんなふうに感じたものだ。
いま、美しい銀色の翼は、ほんとうに優しく輝いていた。
「いいものを見せてくれて、ありがとう……」
「なに言ってるんですか旦那さま! ここからが本番ですよ!」
クレイはそう言ってフィンの後ろに回って、体をぎゅっと抱きしめる。
「いっきますよー!」
そう言って――クレイはフィンを抱えたまま、空高く飛び立った。
「お、ちょっと待て! 落ちる! 落ちる!」
「心配しないで……身を任せてください……」
そのときのクレイの声は、不思議とフィンの心を落ち着かせた。
ふたりはどこまでも、どこまでも空を昇っていく。
心の
「見てください旦那さま!」
リーンベイル近郊の山々は、まるで手のひらで包み込めそうなほど小さく見えた。
濃い緑の山肌が、奇妙に柔らかそうに感じる。
流れる川が、細く、ちらちらと輝いている。
遠くを見渡せば、円い地平線。
あそこに見えるのは王都だろうか。
そうして、今まで自分を閉じ込めていた、リーンベイルの街――。
「あんなに、小さかったんだな……」
「そうです! あーんなに小さいです! そして世界はこーんなに大きいです!!」
ちっぽけなもので、自分を縛りつけていたのだ。
自分の知らない世界は、大きく眼下にひろがっている。
「こんな光景、初めて見たよ……」
「私も初めてです!」
足下を、小さな雲が横切った。
「恋とか優しさとか、まだはっきりとは、わからないですけれど」
クレイは、フィンの耳元にささやいた。
「旦那さまと見る景色は、今まで見てきたなによりも、ずっときれいです」
きっと今までたくさんの風景を見てきたのだろう。
しかし、クレイの弾む声に嘘はない。
「……そうか」
フィンの呟きは、広大な風景に吸い込まれていく。
憂い、苦しみ、望みを失って――思えば、なんて愚かなことだったのだろう。
フィンの心の中で、涼しいものが膨らみ始めた。
きらめいていて、爽快で、それなのに、どこか温かくて――。
「どうですか旦那さま?」
クレイの問いに、フィンは胸が張り裂けそうな大声で返した。
「ああ、最高だ!!」
小さな街を見下ろす、ふたりきりの遊覧飛行。
ふたりはどこまでも高く、空を昇る。
いつぶりのことだろう――ようやくフィンの心に、火が灯った。
けっして何にもかえがたい、琥珀のような、ひそやかなともしびが――。
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これにて第一章、完結となります。
読んでいただき、本当にありがとうございます。
引き続き、第二章もお付き合いいただけますと幸いです。
そして願わくば、皆さまが感じたものを、ほんの少しでも
目に見える形で分けていただけると、僕たちはとても喜びます。
皆さまからの、ご感想、ご評価、フォロー。
心の底よりお待ち申し上げております。
今井三太郎/マライヤ・ムー
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