第十六話「恋」
もう、日が昇ろうとしている。
朝焼けが
その中をフィンとクレイは、リーンベイルの街へ向かって歩いていた。
「………………」
「………………」
ふたりの間を流れるのは、今までで一番長い沈黙である。
クレイとしては――ほんとうのところ、“恩返し”ができればそれでよかったのだ。
その流れで、つがいになれれば、なおよし。
そんな軽い考えでいた。
しかし今。
「………………」
街へ向かう森の道で、クレイはフィンの横顔を見上げる。
クレイは思わず声をかける。
「……旦那さま」
「ん? どうした?」
フィンは優しく問い返してくる。
目の奥の寂しさを、クレイに見せまいと、気丈に。
これだ、“この優しさ”だ。
クレイは、自分の頬が熱を持っていることを自覚していた。
「……今の自分が、よくわからないんです」
クレイはそう、正直に答える。
声が少し震えたのが、自分でも不思議と気になってしまう。
そんなクレイに、フィンは前を見たまま、笑ってみせた。
「相変わらず変わってるな、君は」
そうして、クレイを見下ろす。
「疲れてないか?」
クレイの胸の奥が、きゅっと跳ねた。
「はい……その、疲れてはいません」
「そうだ、君は魔物の王だった。このぐらいで疲れはしないか」
「………………」
誰かに“助けられた”などということは、生まれて初めてのことだ。
まるで人間のおとぎ話みたいに――王子様が助けに来た。
――それも、2度。
「クレイ」
「は、はい!」
物思いに
「本当に大丈夫か?」
「たぶん、大丈夫なんだと思います」
「どうも、要領を得ないな」
そう言って、フィンは後ろ頭をかいた。
矢筒に残った少ない矢が、からりと鳴った。
「その、君に謝らなければいけないことがある」
フィンはクレイの目をまっすぐに見た。
その改まった態度に、クレイはかすかな不安を覚える。
心の底から申し訳なさそうに、フィンは言った。
「イビルデスクレインの力を使うな、なんて……乱暴なことを言ってすまなかった」
そのまっすぐな瞳に、クレイは吸い込まれるような心地がする。
人間の瞳が、どうしてこんなに美しく――。
「聞いてるか?」
「……はい、耳には入ってます」
「もうちょっと奥まで届いてくれると嬉しいんだけどな」
フィンはクレイの手を取って、大きな木の根をまたいだ。
大きな手だな、とクレイは思った。
それだけのことが、不思議とうれしい。
「君の力はとても大きなものだ。だからといって、
フィンはクレイの手をはなす。
あっ、と思うと――その手で頭を
「力を正しく使うんだ、クレイ」
「正しく、というのは人間の“摂理”ですか?」
「……それも難しいところだな」
「君には君の、世界の
クレイは、今度はこちらからフィンの手を握った。
「私は、旦那さまの目で、世界を見てみたいです」
フィンは少し笑ってこたえる。
「……そんなたいしたものは見れないぞ」
ふたりの間に、再び沈黙が流れた。
けれども、その沈黙はさっきより、ほんの少し優しい。
………………。
…………。
……。
森から出て、遠くリーンベイルの街へと続く道を、ふたりで歩く。
車輪をガタガタいわせている、行商人の馬車と、すれ違った。
クレイは、会話の邪魔をするそんな音に、どこか安心している自分に気づいた。
――言いにくい何かを口にしようとしている。
こんなふうに感じるのも、初めてのことだ。
「わたくしは……イビルデスクレインは、魔物の王です。でも種族としては、下級の鳥形魔物である“クレイン”の突然変異体なんです」
馬車の音が遠ざかっていく。
フィンはクレイの静かな声に耳を傾ける。
「………………」
「だから親にエサをねだったことも、兄弟姉妹と体を温めあったこともありません。これまで、ただひとりの存在として生きてきました」
クレイの声には、遠くを懐かしむような響きがあった。
「それに、なんの不便も、感じたことはありませんでした」
ぬかるみを避けて、ふたりは歩いた。
「あの森で傷を
クレイは朝陽にうるむルビーの瞳を、フィンに向けた。
「わたくしはその“優しさ”を、絶対に失いたくありません」
クレイは、足を止める。
フィンもそれにつられて立ち止まった。
「旦那さまは、あのベイブとかいう男を、同じように癒しました」
「それも無駄になっちまったけどな」
「あのとき、旦那さまの“優しさ”は……。“恩”は、わたくしだけのものでないという……当たり前のことに気がついたんです」
クレイの視線が足もとに落ちる。
「そうして、それが……」
足もとを見つめたまま、クレイはフィンの手を握る指に力を込めた。
「たまらなく、不安なんです」
「………………」
フィンはクレイのこの言葉をどう受け止めたものか、考えあぐねている様子だ。
クレイは、自分のひとことひとことに、勇気が必要なのがとても不思議だった。
「今も、不安です。爪も牙も剣も魔法も、なにひとつ恐れたことなんてなかったのに。旦那さまの“優しさ”を失うことが、とても怖いんです」
日が昇り始めると、でこぼこの道にふたつの長い影ができた。
影と影とが、お互いを確かめるように手を握り合っている。
「最初は旦那さまにこの身を助けられたことに、旦那さまの“優しさ”にただただ驚いていました。でもわたくしの心を震わせたのは、驚きではなかったのだと、今日、やっと気づきました」
いつもは気軽に腕にしがみついていたのに。
今はただ繋いでいるだけの手が、なによりもクレイの心臓を高鳴らせる。
「嬉しかったんです。旦那さまが、わたくしのために、なにかをしてくれたことが」
「………………」
フィンは黙って、クレイの話を聞いている。
クレイの抱いている感情がなんであるのか、身に覚えがないわけではない。
しかしそれを、クレイがどこまで自覚しているのか――。
「旦那さまの声、旦那さまのにおい、そして旦那さまの“優しさ”……わたくしはどれも失いたくありません。それに怯えていて、けれども心地よくもあって……旦那さま、わたくしはどうなってしまったのでしょう」
クレイの問いを受けて、フィンはぽりぽりと頭をかいた。
「それはその……なんだ」
フィンは言いよどむ。
「“恋”って言葉があってだな……あ、いや、なんでもない、忘れてくれ」
そんな言葉を簡単に口にできるほど、今の自分は若くない。
だからフィンは、途中で言葉をにごした。
「いろんな言葉で呼ばれる感情だけれど、名前をつけることにたいして意味はない。ただ、なんというか、その感情は、大事にしてやっていいと思う」
なにもフィンは、クレイの気持ちを自分につなぎ留めたいわけではない。
ただ――それは、ないがしろにしていいものではない。
それくらいのことは知っている。
「“それ”は君の感情だ。君のための感情だから……捨てたいときには、捨てていいんだからな」
フィンがそう言うと、クレイは首を振った。
「嫌です。この温かい気持ちは、ずっとわたくしのものです……旦那さま」
「………………」
フィンは、また後ろ頭をかいた。
さすがにここまでくると、照れくさい。
「さあ、早く帰ろう。体を拭いて、少し横になりたい」
「はいっ!」
「やっと元気な声が出たな」
そうしてまた、ふたりは歩き出した。
しっかりと手を繋いだまま、長く曲がりくねった道を――。
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次回、
第十七話「回復術師サンティ」
本日18時ごろの更新を予定しております。
お楽しみに!
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