第16話
人の善行は噂にならない。だが、人の悪行は噂になるものだ。特に、男女に関係することは。
我が家は、朝からてんてこ舞いだった。
なにせ公爵家の馬車が朝からやってきて、すぐに俺に来てほしいと言うからだ。俺はお古の服から出来るだけマシなものを探して、できるかぎり素早く着替えた。そして、びっくりしている母親を置いて馬車に飛び込んだ。
馬車は急いで、公爵家に向かった。
馬車の急ぎようが尋常ではなかったので、俺はイヴになにかあったのではないかと思った。人は簡単に死ぬ。昨日会って元気だった人も、翌日は風邪をこじらせて死ぬこともありうる。イヴに何もありませんように、と俺は馬車のなかで祈った。
馬車が、急に止まった。
公爵家についたのだ。
俺は、急いで馬車から降りた。すると、そこにはイヴがいた。あせったような顔しているが、元気そうだった。その様子に、俺はほっとする。
「キロル。急に呼んでしまってごめんね」
イヴはそう謝ったが、俺はイヴに何もなければそれでよかった。
「イヴ、何も怪我とかないよな。具合が悪いとかも」
焦る俺に、イヴはくすりと笑った。心配してくれるのがありがたい、とでも言いたげな笑顔だった。
「はい、私は元気ですよ」
俺は、思わずイヴを抱きしめた。俺の行動に、イヴは驚いていた。
俺も驚いていた。
イヴが元気で安心したのと同時に、彼女のことが酷く愛おしく感じたのだ。抱き着かれたイヴはびっくりしていたが、やがて俺の背中に手をまわした。まるで、ダンスをしているようだった。そんな中で「こほん」と誰かが咳をした。
改めて、当たりを見まわした。
するとそこには、顔色が悪いルーベルト王子とエリックがいた。俺は、慌ててイヴから離れた。
「急がせてしまって、もうしわけありません」
エリックには嫌味っぽく言われたが、俺としては笑うしかない。
「ところで、僕とイザベラについて何か聞いているかい?」
突然のルーベルト王子の質問に、俺は眼をぱちくりさせた。たしか母が話していた噂話に、王子が出てきたことがあった。王子が公爵家の令嬢にキスして婚約が決まった、という話だろうか。王子のキスのときに俺は現場にいたので「へー、あの二人婚約が決まったんだ」としか思わなかった。
「イザベラ嬢と婚約が決まったと聞いていましたが」
俺の言葉に、ルーベルトは深いため息をついた。どうやら、噂には尾ひれがついているらしい。
「キロルもそう聞いているわけか……」
ルーベルト王子の落胆ぶりに、イヴは「とりあえず、客間に行きましょう」と声をかけた。イヴの屋敷には何回も来ているが、客間を使わせてもらったのは初めてのことだった。きっと今日は王子が来ているせいだろう、と俺は考える。
客間は知らない人の肖像画とソファーぐらいしかない部屋だった。人をもてなすと言うよりも、密談するための部屋にも思える。ルーベルトはふかふかのソファーに座ると、もう一回咳ばらいをした。それだけで、エリックは部屋から退場する。
「まず二人に言っておくけど、イザベラ嬢と婚約したのはデマだ」
俺とイヴは「ふーん」と思いながら聞いていた。ルーベルト側が、イザベラのことを気に入っていないことは知っているからである。それにいくら貴族社会が厳粛でも、子供同士のキスで婚約とは普通はならない。
ルーベルト王子は、それを暗い顔をして俺たちに伝えた。どうやら、この噂を信じてしまっている人が一定数いるらしい。
ルーベルト王子は、その噂の火を出来るだけ消そうとしていた。だが、この噂は思いのほか広く浅く伝わってしまってしまったらしく、ルーベルト王子が火消にまわっても沈静する見込みがない。それどころか現王は、この噂に乗じてルーベルトとイザベラを本当に婚約させてしまおうと考えているらしい。
その話は聞いたイザベラは、歓喜しているようだった。なにせ、玉の輿の上に自分が前から惚れ込んでいる王子との婚約である。だが、反対に王子は落胆している。
「父親に嫌だって言えばいいと思うんですけど……」
俺は、恐る恐る提案した。
本人たちの意見が聞き入れられなければ、無理強いはしないのではと思った。なにせ、まだ二人とも十歳である。
「国王の命令は絶対だから……」
そういうことなのか、と俺は納得してしまう。後継者の結婚問題は、家族の問題というよりも国の問題になってしまうらしい。そうなると王子として王の決定はくつがえすことは難しいようだ。
「せめてイヴと親戚じゃなかったら、イヴと婚約するっていう手もあったんだけどな」
その言葉に、俺は驚いた。
「言っていませんでしたっけ」
イヴは眼をぱちぱちさせた。
「私の母は王家の出身で、今の王の妹にあたります。結婚して、公爵家に降嫁したんですよ。だから、私とルーベルト王子は従兄同士なんです」
言いませんでしたっけ、とイヴは首をかしげる。まったく聞いていなかった。どうりで王子と護衛役のエリックだけでイヴの家に来ているわけだ。親戚の家だからという理由で、警戒が甘くなったのだろう。
「ルーベルトは、どうしてイザベラが嫌いなの?」
イヴは、不思議そうに首をかしげた。冷静に考えるのならば、イザベラは結構な優良物件だ。イザベラは公爵家の人間で、兄と弟までいる三兄弟だ。跡取りのことを心配しなくていい。
そして、イザベラ本人も美人だ。ウェーブのかかった黒髪に、青色の瞳。子供のころから美人なのだから、大人になればもっと美人になるだろう。
それとも政治的な問題だろうか、と俺は考える。王族の親族になれば、親類として政治に入る込むことも容易になる。イヴの父親は気にしていないようだが、イザベラの父親は政治に興味があるのかもしれない。
「僕、気の強い人は苦手なんだよ」
ルーベルト王子の言い分は、情けないものだった。だが、気持ちはわからなくもない。他の顧みないイザベラの王子へのアプローチは見ている分には面白いが、代わりをしたいかと問われれば嫌だ。
「でも、結局は父上が選んだ子と結婚するんだろうけど……」
ルーベルトは今日何度目かのため息をついた。
「しかも、学院に進学する前に婚約者を決めるって父上は言っているんだよな」
学院とは、俺やイヴのように魔法の才能を持った子供たちを集めて教育する場所のことだ。ひと昔前なら庶民は入学できなかったが、最近では魔法の才能を持った子供ならば誰でも入学できるようになった。
学院に進学するということは、ルーベルト王子も魔法使いということになる。どんなことができるのか気になったが、話の腰を折ってしまうので今度きいてみることにしよう。
「学院入学前に婚約者発表か……」
俺とイヴの婚約も早いほうだが、王族の婚約となればもっと早い場合もある。生まれてすぐに婚約者が決定するという前例もあるほどだ。逆に遅ければ、三十代ぐらいになるまで婚約者が決まらないこともある。だが、大抵の場合は早めに婚約者が決定する。
婚約者が決定した花嫁側は、その日から厳しい花嫁修業を受けることになる。りっぱな王妃になるために。
「イザベラは花嫁修業にも耐えきりそうね」
イヴの一言に、ルーベルトはさらに落胆する。イザベラは公爵家の娘として厳しく躾けられているだろうし、本人にもやる気は十分にある。
「その辺にいる平民を連れてきて「彼女と結婚します」といったら、父上は許してくれるかな?」
ぼうっとしながら、ルーベルトは呟いた。
イヴが「そんな人に迷惑をかけるようなことはやめなさい」と注意した。まるで姉が弟を叱るような雰囲気だった。
「とりあえず、今日は話をきいてくれてありがとう……。王宮にいるといつ父上から婚約の話が出るのか分からなくて気が休まらなくて」
どうやら王子は王子で、大変らしい。その大変さを聞いて欲しくて、親戚の家に転がり込んでいたようだ。
「あんまり無理しないでね」
イヴは、テーブルに置かれていた呼び鈴をならした。すると部屋の外にいたエリックが、部屋に入ってくる。ルーベルトは、すでに眩しいほどの王族の輝きを帯びていた。きっと今までの顔は、部下には見せられない顔だったのだろう。そう考えると同い年の従妹であるイヴの存在は得難いものなのだろうと思った。
「じゃあ、イヴ。またな。婚約者のキロルも」
そう言ってルーベルトは、屋敷を去っていった。
その十日後に、ルーベルトとイザベラの婚約が大々的に発表された。
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