第3話:個性の尊重 ①

今は普通に生活できる人とそうでない人がいる。これは、私が調べていて感じた傾向だが、個性が表にあまり出ないもしくは感じない人ほど組織でうまくいき、個性が表に出ていて、意思が強い人ほど個人の方が向いている場合が多い。しかし、日本ではこれらの二極化はあまり好まれない傾向にあり、今では表に出ている人たちはそこまで強い風当たりはないが、一部で誹謗中傷などをする人が多い。これは、日本が教育の中で“他者の立場に立って考える”という行為に対してあまり深入りしてこなかった結果だろう。これは、海外ではかなり浸透していて、この教育のおかげでいじめなどがかなり少数に抑えられている。


 この行為は「相手の立場が違ってもあなたと同じ時期があったのだから、相手を尊重して一緒に成長して行きなさい。」という相互理解の精神から由来している思想だ。しかし、日本では数字による競争社会を作ってきたため、相手を陥れて脱落させることで自らの個性を生かすという手法で生きていくことが正しいこととして認識され、成人したときに正当化されるのだ。


 これは“表現の自由”が生んだ弊害の1つのような違和感がある。というのは、同じ教育を受けて、受けた結果を数字で評価され、その評価で一喜一憂し、偏差値などの数字が高い学校を目指し・・・と完全に周囲を見失って生きているような気がしてならない。


だからだろうか、SNSなどで誹謗中傷すること、面白半分でいじめている動画やターゲットにしている人の写真にいたずらをするなど常識の範疇(はんちゅう)を超えてしまう行為が平気で行われ、それらの行為を誰も止めることはない。


 ここで考えたいのは“個性とは社会形成の1ピース”であるということだ。これは、私見のためある意味社会における共通認識とずれているかもしれない。


 私は個性というのは潜在的なマンパワーを持っているのではないかと考えている。例えば、奇抜な絵を描いている人がいたなら、その人に肯定的な発言を投げかければその人の自信につながっていく。そして、その奇抜だと思っていた絵がとても素敵な絵に見えてくる。これは、相手の良いところを見続けることで欠点が見えなくなるという心理的な考え方だ。


 また、個性的な小説や歌詞などを書く人を私は面白いと思うし、独特な世界観を毎回楽しんでいる。しかし、相手の世界観を自らの世界観にすり替えてしまうことで自らは満足かもしれないが、相手の世界観を壊すことは何の得にもならない。

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