第91話

「すみません。お待たせしてしました。」

「いいえ。ちょうど今来たところです。」


学校から少し離れたところにある古い喫茶店。

ここはうみが入学からよくお茶を飲みに来る愛着の場所であった。


過ぎてきた長い時間をその身に秘めているような床しい内部。

窓からでは第3女子校の全景が一目で見渡せて一時の初々しい青春をその目で感じることができる。

運営している老夫婦は自分達の店を訪ねてくれる客のことが大好きで相手が誰だろうと心を込めた誠心誠意のおもてなしを心がけていた。


鼻をくすぐる香ばしい匂い。

店の主人はうみからまだ何も注文していないにも関わらず既に彼女の注文を予測してコーヒーを入れ始めた。


「とてもいいお店です。心が落ち着いて癒される。」

「お気に召したようで何よりです。」


席についたうみに向こうからの店に対する褒め言葉。

うみはまるで自分が称賛されたような気分になるほどこの店に自分なりの誇りを持っていた。


「実はここってコーヒーだけじゃなくデザートも絶品なんです。奥様が昔有名なベーカリーを運営されたことがありまして。私のおすすめはやっぱり定番のいちごのショートケーキとかチョコミントケーキでしょうか。」

「そうですか。じゃあ、甘さ控えめのでお願いしてみましょうか。」


最近健康診断で甘いものは慎むようにと言われた彼女は控えめのいちごのショートケーキを頼み、


「マスター、私はいつものチョコミントでお願いします。」


うみはお気に入りのチョコミントスフレを頼んだ。


「甘いものが好きなのは娘さんとそっくりですね。」

「まあ、最近は血糖値に注意しなければなりませんので少し控えていますが。」


血は争えないという言葉の意味を身を持って知るほど親子そっくりの嗜好につい笑ってしまううみ。

彼女は「赤城財閥」の総帥の前でも怯む気配もなく堂々としていていつものように親しみが溢れていた。


陶器のような青白い肌の上に滲む悍ましくて美しい圧。

黒いスーツの上に溢れている鮮血の軽いカールの長い髪の毛はまるで「吸血鬼」の首筋に住み着いているという守り神「血月ブラッドムーン」から零した一抱えの血潮のように蠱惑的な恐れを本能に与えた。


「赤城財閥」が独自に運営している特殊部隊「メルティブラッド」の元首長。

最強の吸血鬼である「ヴラドツェペシュ」、「無機王ノーライフキング」の門前まで近づいた正真正銘最強の吸血鬼。

彼女こそ世界政府側の最重要人物の一人として今の時代の平和を身を張って維持している「赤城財閥」の現総帥である「鮮血女王クイーンクリムゾン」「赤城ナターシャ」であった。


伝説のピアニスト「アナスタシア」の一人娘として母と同様かつてピアニストとして活躍した彼女は偶然チャリティー演奏会で当時の「赤城財閥」の総帥であったななの父の目について彼と結婚、ななを出産した。

ななの出産の直後「メルティブラッド」に志願して入隊、自ら「赤城」家を守る血の盾となった。

後に日光を浴びすぎて衰弱になった夫の代わりに「赤城財閥」の総帥、及び当主となった時、彼女の活躍ぶりを認めた全吸血鬼は誰も彼女の総帥任命に反対の手を挙げなかった。


「あの子は私の宝物です。」


誰のためではなくひたすら自分のために生き抜こうと決めつけた生き様。

彼女は自分の「吸血鬼」という種に誇りを持っていたが種のためではなくあくまで「ナターシャ」としての人生に夢中になっていた。

それがななを生むことでひっくり返ったという彼女の話にうみはなんとなく共感することができた。


「吸血鬼は他の種族より血の繋がりにこだわるところがあります。私も同じ吸血鬼達のことが大好きだったんですが母のように自分の道を自分で拓きたかったのです。血の繋がりではなく自分の人生を自分の手で掴みたかった。

それがいつか種の復興に繋がると私の母は言ってましたし夫もそれを尊重してくれたのです。」


だがななという宝物に出会うことで自分がやるべきことが見つかったというナターシャ。

彼女は家族こそ自分の人生を変えてくれた「運命の人」と言った。


「「運命の人」…」


ふと思い浮かぶある夕方の街。

時は中3の夏。ロケで遠いところまで遠征に行った時のことである。

海が見える古い駅前の前でうみは自分の「運命の人」に出会ってしまった。


潮風になびくきれいな桃色の髪の毛がすごくきれいで胸が非常識に大きかった少女。

たまたま同じ地域のあるイベントに参加していたという彼女は学校でアイドルをやっていると言った。


可愛い歌声と弾ける振り付け。

何よりそのとびきりの笑顔に心を惹かれた自分はいつの間にか彼女の歌に魅了されてずっと見続けていた。

彼女の歌を聞いている胸のそこから何かが湧き上がって何かの高揚感に包まれてしまう。

だがそれは自分だけではなく、周りの人々を巻き込むほど強烈で気がついたらあそこにはたくさんの人達が彼女のライブを見ていた。


「みらい!もう行くよ!」


そして彼女の先輩と思われる人の呼びに彼女だけの短いライブがその幕を閉じなければならないことを知って自分は大きな寂しさを抱えてしまったが


「見てくれてありがとうございます!私、アイドルが大好きでいつか皆とアイドルで繋がりたいです!いつかまた会ったらいいですね!」


ずっと見ていた自分の手をギュッと握ってそう言ってくれる彼女のことに心のどこかでもう一度彼女に会いたいという期待と希望を感じた。


それは正しく運命の出会い。そして彼女の存在は自分の人生を変えてくれた「運命の人」。

うみはそのことを今もちゃんと覚えていた。

だからこそその言葉の意味を誰より理解できたのであった。


「ななには私と同じくそういう「運命の人」に出会って欲しかったのです。」


そして彼女は誰よりも娘に自分の人生を変えてくれるような運命的な出会いに会って欲しかった。


「あの子が私に来てくれたから私はもっと大きな世界を見ることができました。自分が当たり前のように享受していたものが全て先代が残してくれた遺産であって今度は自分が自分達の子に譲る番だと。」


この道を選んだことに悔いはない。失うものがあれば得るものもある。

この世界はそういう仕組になっていると彼女は謙虚に自分の選択を受け入れた。


「母のような優れたアーティストにはなれませんでしたが代わりに私は守る側の人になれました。

一頃は自分は母のような人になれないと挫折し、絶望していた時もありましたが私は今の仕事に誇りを持っています。」

「それはすごいですね。尊敬します。」


それもまた人の生き方の一つだと彼女が経験から学んだ大切な教えにうみはただ素直に敬畏を表した。


「ですが人にはどうしても背いてはいけないことが、手放してはいけないことがありんです。ななには自分の心をもっと大切にして欲しかったのです。」

「それが「運命の人」である中黄さんのことを諦めないことだったんですね。」

「さすがです。」


娘と同い年にもかかわらず大人が顔負けするほどの洞察力に感心する「赤城財閥」の総帥。

人の心を見抜くことに人並み以上長けているうみのことを見込んでななのことを頼んだ自分の選択が間違ってないと確信する時であった。


「人は誰でも不完全性を持っています。当然です。我々を作ったという「神族」や「魔神族」にも間違えることはややあるそうですから。

でもあの子には私の完璧にこだわりすぎる私由来の成分が少々強すぎて自分と妥協することなんて到底許されなかったんでしょう。」

「自分と妥協…ですか。」


人に厳しいほど自分には何杯も厳しくなれる人。

うみから会ったななは初めからそういう固くて不器用で真っ直ぐな性格の持ち主であった。

何をやってもマニュアルどおり行わなければ気が済まない堅苦しい人。

そんなななが自分の正義や意思まで背けてたった一人、かなを振り向かせるために独自に動いたということは未だに衝撃的であった。


「人は誰でも間違える。あの子だって、かなちゃんだってまだ子供ですから選択を間違えることなんてそう珍しいことではありません。

きっと一人で死ぬほど悩んで苦しんでいたんでしょう。それでもななとのことだけはちゃんと二人で向き合って話し合って打ち解けて欲しかったのです。少し回りくどく遠回りしてあなたの手も貸してもらってしまいましたが何事も結果オーライですから良しとしましょうか。」


昔の自分なら想像もできない気楽な考え方。

だが彼女はそういう固い視線こそこの世界を、人の成長を阻害するものであることを自分の「運命の人」から教えてもらった。


「間違えることを恐れてはいけない。大事なのはどう克服して前に進むのか。私は彼から教えてもらいました。

ななは賢い子です。学んだこと、教えられたことを自分の成長へ繋ぐことができるほど私達の自慢の娘です。」


彼女はどうか娘にもそのような生き方もあることを彼女自身が気づいて欲しいと心から願い、またなながそれを受け止めてさらなる成長を成し遂げると信じていた。


「あの子は笑っていましたか?」


出されたケーキを完食した後、うみから見てきたななのことを確かめるナターシャ。

そんな彼女にうみはただ


「はい。中黄さんと二人でとても幸せそうに。」


自分の目で見てきたありのままのことを言ってあげることにした。


「そう。良かったんですね。」


まるでやっと一息ついたようなほっとする顔。

母として彼女は純粋に娘ともう一人の娘のことを心から気にかけていた。


白無垢に包まれて幸せそうに愛の視線を交わすかなとなな。

皆の祝福の元で手をつないで「結びの橋」を渡って未来への絆を約束する二人はこれ以上はないほど幸せに見えた。

それは正しく救世主「光」とその伴侶として世界を救った「極の巫女」「園子」の契であったとうみはそう話した。


「今回のことも含めて今日は本当にありがとうございました。青葉さん。」

「いえいえ。私の方こそお役に立てて光栄でした。」


「赤城財閥」総帥自らのお礼を謙った態度で大事に受け入れるうみ。

彼女のそういう謙譲の精神もまた人々に愛される理由ではないかと総帥はそう感じてしまった。


「アーティストとしてあなたのことはただ純粋に尊敬しています。これからも応援しますので頑張ってください。」

「ありがとうございます。」

「そしてこのご恩は一生忘れません。今後何かお困りでもあったら遠慮なく言ってください。「赤城財閥」が全力であなたのお力添えになります。」


っとお代はもう済ましておいたからゆっくり堪能してから帰ってくださいという話を残して席を外すナターシャ。

そしてうみの前にはいつからか「赤城財閥」関連企業の特典を全部享受することができる優待券が差し出されていた。


「「人魚マーメイド」は吸血鬼に等しいくらい陸地での生活において数多い不便さと不自由を抱えています。

幸い「赤城財閥」の本は製薬。きっと「教会」や「神社」の助けだけでは足りないところもいくつかあるのでしょう。これは「赤城財閥」の全ての病院や医療施設をいつ、どこでも無料で利用するできる優待資格です。

ささやかですがどうぞお受け取りください。」


うみのように陸地での生活を選ばない人魚が多いため、まだ地上にはそのための施設が著しく足りない。

実際うみは幼い頃、慣れない陸地生活の中、命に関わる危険に何度も晒されたことがあってナターシャからの今後彼女の医療関連サービスの無料提供を約束は彼女にとって、ひいては人魚という種の陸地生活に大きな発展を成し遂げることができるきっかけになりそうな予感がした。


「ありがとうございます。大切に使います。」

「いいえ。これくらいで足りないと思われるほど今回のことは我々にとって一大事でしたから。」


将来「赤城」家の名を担ぐななが不安な精神状態を維持していては非常に困る。

そう思われるかも知れないが彼女はただ親として愛する二人の娘達を助けてあげたかっただけであった。


「それでは私はここでお先に失礼します。機会があったらまたお会いしましょう。」


っと店を出る彼女の足取りはなんだか気軽そうに見えるとうみはそう感じた。

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