門出
トライアウトから6日後に佐々木はかつての古株の球団から契約の話がきた。
この6日間、佐々木は気が気ではなかった。
つねにスマホを持ち歩き、何度もスマホ画面を見ていた。
そしてやっと通話が来たのだ。
その後、球団の監督から通話がかかってきた。
「もっと早く、連絡してくださいよ」
『焦らしてやろうと思ってな』
監督はいたずらっ子のように笑った。
◯
「……はい。そ、そうですか。それは良かったです。……ええ、はい。伝えておきます」
そして鈴は受話器を置いた。
相手は佐々木からであった。
トライアウトに合格した旨の報告。
これをトレーナー課の課長に伝えるだけ。
そこでトレーナー課の全員が自分を見ていることに鈴は気づいた。
皆、今の電話が佐々木からのものだと気付いたのだろう。
そしてトライアウトの結果を知りたがっているのだ。
鈴は課長のもとには向かわず、席を立ったまま、その場で声を大にして報告する。
「佐々木五郎選手からNPB時代の古株である球団に入団したという報告を受けました」
一拍の後、トレーナー課の皆は両手を上げたり、拍手をしたりして喜んだ。中には口笛を鳴らすものもいた。
「やりましたね」
隣の小春が自分のことのように嬉しそうに言う。
「佐々木さん、小春にお礼を言っといてと言ってたよ。一条投手やトライアウト参加選手のデータを送ってたんでしょ。あれ、すごく良かったって」
「いえいえ、多少は役に立つかなと思って」
小春は照れくさそうに言う。
◯
年末、駅前の居酒屋にて大北緑ジムの忘年会が行われた。
「では、今年はお疲れ様でした。来年もよろしくお願いします。乾杯!」
『乾杯!』
課長の音頭にトレーナー達はビールジョッキを掲げる。
「いやあ、佐々木さん達がうちのジムに来た時はどうなるかと思ったよ」
「本当ですよね。しかも担当が鈴と新人の小春だもん」
「花先輩ひどいです。私では駄目だって言いたいんですか?」
「駄目というか1人は不安じゃない」
「小春もいました」
「新人でしょ?」
「そうですけど!」
鈴は不貞腐れる。それを花は背を叩いて、
「ま、だけど、よくやったよ。まさか佐々木さんが狭き門であるトライアウトに合格だもん。梅原さんもNPBに戻るし、見事専属トレーナーをやりきったよ」
「そうそう。一時はどうなるかと思ったよ。確かちょうどこの頃だったよね」
課長がしみじみと言う。
「君ももう立派なトレーナーだよ」
「課長、それは早いですよ」
「花先輩ひどいです」
そしてトレーナー課の皆は各々にテーブルの料理を舌鼓を打ちつつ、今年のことや来年についてあれこれと語り合う。
「良い店を選んでくれて良かったよ」
ふと鈴が小春に向けて言う。
「まさか最後の仕事が忘年会のセッティングとは思いませんでしたよ」
小春は苦笑した。
「そっか。小春も今日までだったよね」
「てか課長、なんで最初の音頭で言わないんですか?」
「ごめん、忘れてた。では、改めて棗小春君の新たな門出に乾杯!」
『乾杯!』
「本当にごめんよ。まさか今年いっぱいとは思ってなかったから」
課長は手を合わせて謝った。
「いいんですよ。こちらこそ変なタイミングで辞めてしまってすみません」
「キャンプに参加するだっけ?」
花が小春に聞いた。
「はい」
「頑張ってね。応援しているからね」
「ありがとうございます」
「私も応援してるから。すぐ戻ってこないでよ」
と、鈴が小春の顔を指差して言う。
「戻りません」
「そ。……で、いつ向こうに行くの?」
「一応、正月はここで。8日に引越しします」
「手伝おうか?」
「結構です。荷物も少ないので1人で荷造りできます」
「そっか。なら、正月にまた初詣行こうよ」
「いいですよ」
◯
12月26日。
早朝の閑散とした駅前に佐々木と梅原、そして球団関係者、大北緑ジムからは課長と専属トレーナーを務めた鈴と小春がいた。
今日この日で佐々木達は大北緑を出るのだ。
「ありがとう。君達2人のおかげだよ。本当に助かった」
と、礼を言って、佐々木は鈴達と握手を交わす。
「俺も色々伸び悩んで苦しんでいたけど、君達が教えてくれたフォームのおかげで、また輝けるようになったよ」
次は梅原が礼を言って、2人と握手を交わす。
「頑張ってください。応援してます」
「下手なバッティングしたら許しませんよ」
「しないよ」
「佐々木さん、そろそろお時間です」
と、球団関係者の方が佐々木に告げる。
「……ああ。それじゃあ」
佐々木と梅原は手を挙げる。
「お元気で」
鈴達も手を振り返して応える。
そして佐々木達は改札口へと向かう。
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