ダニエルの旅立ち 2

 泥棒に進入された夜から二日。

 誰よりも早く目覚めたエルシーは、窓を開けて朝の抜けるような青空を見上げた。

 嵐が通りすぎたあとは快晴続きだ。洗濯物が早く乾いていい。


(洗濯に取りかかる前に礼拝堂にお祈りに行って来こようっと)


 あまり早くに動き回っていたら、物音で眠っている人が起きてしまう。エルシーは時間を確認して、まだ洗濯に取りかかるには早いと判断すると、手早く着替えをすませて礼拝堂へ向かうことにした。


 王宮で着ていた手作りのワンピースに比べて修道服は丈が長くて動きにくいが、紺色のそれを身にまとうと、なんとなくだが身が引き締まるような思いがする。

 櫛で梳かしただけの銀髪の上からベールをかぶり、エルシーはできるだけ足音を立てないようにしながら礼拝堂へ向かった。


 修道院の隣にある礼拝堂の扉を開けて、エルシーは大きく息を吸い込む。

 朝の礼拝堂は格別だ。外とは違う何か特別な空気が漂っている気がして、ピンと張り詰めるようなこの独特の雰囲気がエルシーは大好きだった。

 礼拝堂の空気を胸いっぱい吸い込んだエルシーは、祭壇前へ向かおうと一歩踏み出したところで足を止めた。


(誰かいる……)


 祭壇前に誰かが立っていた。

 背の高い男だ。後姿なので顔はわからないが、黒い髪の男だった。


(こんな朝早くに、いったい誰……?)


 男は、グランダシル像に手を合わせているようだった。

 祈りの邪魔をすると悪いので、エルシーは礼拝堂の入口に立ち尽くしたままその様子を観察する。

 男は声を出さず、ただ静かに瞑目しているように見えた。もちろん、目をつむっているかどうかはエルシーからは見えないが、なんとなくそんな感じがした。


(……なんだか、これと同じ光景を見たことがある気がするわ)


 礼拝堂に祈りに来る人は大勢いる。見たことがある気がしても、それはきっと同じように誰かが祈りに来たときに同じような背格好の男がいただけだとわかっているのだが――なんだろう、それとは別に「何か」が引っかかる。

 エルシーには、男の後ろ姿に、ふと誰かが重なって見えた。


(誰だったかしら……)


 それは子供だった気がする。少年だ。どうして目の前の背の高い男の後ろ姿に、少年を連想してしまったのか、エルシーにはさっぱりわからない。

 どのくらい立ち尽くしていただろうか。

 祈りを終えたらしい男が、ふと振り返った。


「……エルシー?」


 振り返った男は緑色の目を丸くして、それから破顔した。

 エルシーも男の顔を見て瞠目する。


「陛下……⁉」


 それは、フランシスだった。

 ここにはいないはずの人だ。

 驚きの余り二の句が継げないエルシーに、フランシスは嬉しそうな顔で大股で歩み寄ってくる。


「修道服姿だと雰囲気が変わるな。こんな朝早くにどうしたんだ?」

「へ、陛下こそ……どうしてここにいるんですか⁉」

「ああ、到着が早すぎたから、さすがに起こすのも忍びないだろう? 皆が起き出してくる時間まで礼拝堂で待たせてもらっていたんだが」

「そういうことじゃなくて……」


 寝ている人に気を遣ってくれたのはありがたいが、それはエルシーが聞きたい答えじゃない。


「陛下は少しの間こちらへ滞在なさる予定です」

「そうです……へ⁉」


 突然第三者の声が割り込んできて、エルシーはぎょっとした。

 フランシスの背後を確かめると、祭壇前の長椅子の近くに背の高い男が立っている。灰色の髪をした男は、第四騎士団のコンラッド団長だった。


(ぜ、全然気が付かなかった……)


 騎士というものは気配を殺すことができるのだろうか。それともエルシーが祈りを捧げていたフランシスに気を取られすぎていたのだろうか。コンラッドが歩いて来て、エルシーは慌てて挨拶した。


「コンラッド団長、おはようございます」


 すると、フランシスがムッとした顔をする。


「エルシー、俺は挨拶してもらっていない」

「え? あ、あっ、そうですね。おはようございます、陛下……じゃなくて! 陛下がここに滞在するって、どういうことです……って、陛下!」


 今、コンラッドの前で「エルシー」と呼ばなかっただろうか。


(あ、でも、もうセアラじゃないからエルシーって呼ばれて大丈夫なんだっけ? でもでも、陛下がわたくしと顔見知りだって知られるのはまずいんじゃ……?)


 エルシーが混乱していると、フランシスが楽しそうに笑った。


「慌てなくても大丈夫だ。コンラッドには少し前に事情を説明してある」

「そうなんですか⁉」


 エルシーがコンラッドを見上げると、彼は苦笑いで頷いた。


「聞いた時は驚きましたけれどね」

「だから気にしなくていいんだ。それで、俺がどうしてここに滞在するか、だったな」

「あ、そうです!」


 エルシーが頷けば、フランシスは少しもったいぶるように答えた。


「実はな……近くの監獄から囚人が脱走したんだ。俺はその囚人を追っている」

「ええ⁉」


 エルシーが驚くと、なぜかフランシスの隣でコンラッドが嘆息した。


「追っているのは陛下ではなく騎士たちですけどね」

「俺の騎士を貸し出してやったんだから一緒だろう。まあそういうことで、俺は騎士たちの報告を待たねばならんから、しばらくここに滞在することにしたんだ。院長には連絡を入れさせておいたんだが、昨日のことだったし、まだ周知されていなかったようだな」

(院長先生はたまにお茶目だから、きっとわたくしが驚くと思ってわざと黙っていたんだわ!)


 カリスタが知っていたと聞いたエルシーは口を尖らせた。


「一応、俺が国王だと知られるのはまずいから、ここでは陛下と呼ぶのは禁止だ。カリスタには騎士の一人として扱うようにと告げてある」

「……だからその格好なんですね」


 フランシスは騎士と同じ制服に身を包んでいた。

 国王が騎士に扮してこんなところにいていいのだろうかとエルシーは心配になったが、コンラッドはすでに諦めているようだった。「大丈夫なんですか?」と目で訴えるエルシーに、こう返す。


「可及的速やかに対応すべきは陛下のお妃様問題ですから、多少のことは致し方ありません」


 フランシスの妃問題とここに滞在することに何の因果関係があるのかさっぱりだが、どうやら問題はないらしい。


「だからエルシーも、俺のことはフランシスと名前で呼ぶように」

「ええっと……フランシス様、でいいですか?」

「ああ」


 フランシスが満足そうに頷くと、コンラッドがこめかみを押さえた。


「何度もいいますが陛下――フランシス様、囚人が見つかろうと見つかるまいと、滞在できるのは一週間が限度ですからね。あまり油を売っていると、帰ったときにアルヴィンがうるさいですよ」

「わかっている」

「……だといいのですが」


 コンラッドはとても疲れた顔をしているが、フランシスは彼のことなど意に介さず、思い出したように手を打った。


「そうだエルシー、土産があるぞ。ここに来るときに杏を買って来たんだ」


 フランシスはそう言って、祭壇前の長椅子に向かうと、大きな籠を持って戻って来た。


「まあ! こんなにたくさん!」

「リンゴは売られていなかったがな、杏で何か作ってくれ」


 リンゴは時期ではないので店頭には並んでいなかったのだろう。リンゴは温度や湿度に気を付けて上手に保存すれば長期保存が可能だが、夏になるとさすがに店頭には並ばなくなる。修道院で保存しているリンゴもそろそろ食べきってしまわなくてはいけない時期だ。食べきるころには、今年収穫されたリンゴが出回る季節になるだろう。


(杏なら、ケーキにしてもいいし、ジャムにしてもいいし、干し杏を作ってもいいわね)


 エルシーは笑顔でフランシスから杏の籠を受け取った。


「ありがとうございます! 今日のおやつのときにでも作りますね」

「ああ、楽しみにしている」


 フランシスが来たことには驚いたが、もう二度と会うことはないだろうと思っていた彼に会えたのは純粋に嬉しかった。


(お洗濯とお掃除が終わったあとで、杏ケーキを焼きましょう)


 エルシーは籠をぎゅっと抱きしめると、もう一度フランシスに微笑みかけた。

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