里帰り 1
「んー! お日様のいい香り!」
ワルシャール地方から戻って早三日。
日が西に半分沈み、空が赤紫色に変わりはじめたころ、エルシーは庭に干した洗濯物をせっせと回収しつつ、洗濯物の香りを堪能していた。
取り込んだばかりの洗濯物は、太陽の匂いがするのだ。この匂いがエルシーは大好きで、洗濯物を回収しつつ、くんくんと鼻を近づけてしまうのは昔からの癖だった。
「お妃様! 洗濯物はわたくしがしますから、早く準備をしてくださいませ! まだお荷物の確認が終わっておりませんわ!」
ダーナが玄関から飛び出してきて、暢気に洗濯物の匂いを嗅いでいたエルシーに苦言を呈す。
「そんな急がなくてもまだ時間はあるわよ」
「ございません! 明日の朝出発ですよ⁉ 陛下にお手紙は書かれましたか⁉」
「手紙? 書いてないけどどうして?」
エルシーが手を止めて振り返ると、ダーナがこれ見よがしなため息をついた。
「移動を含めて三週間も留守にされるんですよ? ほかのお妃様候補たちは皆さま陛下にお手紙を書かれています」
そう。エルシーは明日から、ケイフォード伯爵領に里帰りをすることになっている。三か月に一度許される里帰り期間だ。そして、予定ではそこでエルシーはセアラと入れ替わることになっていて、もう二度とここへは戻ってくることはない。
(確かに。お別れの手紙を書かないと不義理よね)
里帰りに行く前に手紙を書く必要性がわからなかったが、よく考えるとフランシスとはこれっきりもう二度と会うことがなくなる。なぜならエルシーはただのシスター見習いで、フランシスは国王陛下だからだ。シスター見習いと国王陛下の間に接点があるはずがない。
フランシスにはここにいる間よくしてもらったし、黙って去るのは感じが悪い。妃候補は不用意に城へ近づけないから、直接別れを告げに行くことはできない。手紙で別れを告げておいた方がいいだろう。
クラリアーナとイレイズには今日の朝別れを告げている。特にクラリアーナはエルシーの正体を知っているので、エルシーがこのまま戻らない予定であることも知っている。彼女は淋しそうな顔をして、「定期的にお手紙を書きますわ」と言ってくれた。公爵令嬢と文通なんて恐れ多い気もするが、クラリアーナとこれっきりになってしまうのは淋しいので、手紙のやりとりができるのはとても嬉しい。
「ドロレスが鞄に詰める荷物を出していますからご確認を! それから急いで、でも丁寧にお手紙を書いてくださいませ」
急いで丁寧とか無茶を言う。
エルシーは渋々洗濯物の取り込みをダーナに譲ると、玄関を入ってすぐの階段を上って二階に上がる。
エルシーの部屋に入ると、ベッドの上に着替えやらなんやらと荷物が並べてあった。
「ご実家に戻られるのですから、道中の着替えだけご用意しました。こちらで問題ございませんか?」
ケイフォード伯爵領へは片道三日かかる。途中で宿を取るので、その時の着替えが必要なのだが、その割に用意されているドレスが多い。
「夜着とドレス一着、あとは下着があればいいと思うんだけど」
「何をおっしゃるんですか! 最低限これだけは必要です」
ドロレスはエルシーをいったい何度着替えさせるつもりでいるのだろう。明らかに三日分より多い気がする。
「王宮に戻られるときのご実家からの持ち込みは禁止されておりますから、お妃様の確認が終われば、ジョハナ様に中身の確認をお願いすることになっております。明日持ち出した荷物以外の荷物が、帰って来たときに紛れ込んでいたら没収されますのでご注意ください」
女官長のチェックまで入るらしい。
(徹底しているわね……)
もともと実家からの差し入れなどは禁止されていたけれど、ワルシャール地方での騒動があってからこれまた一段と厳しくなった。もう二度と妃候補に問題は起こさせないというジョハナの意気込みを感じる。
(それにしても、すでに三人がいなくなってわたくし含めて十人になってしまったのに、やっぱり補充はしないのね)
補充をしないどころか、フランシスと妃候補たちには依然として距離がある。フランシスが近づこうとしないからだ。どういうわけかフランシスはエルシーに心を開いてくれているようで、エルシーにはよく話しかけてくれるのだが、協力者であるクラリアーナとエルシー以外の妃候補と話をしているところはほとんど見なかった。
フランシスに過去のトラウマがあることはついこの前聞いたばかりで、彼が女性に近づきたがらない気持ちもわからないでもないが、早く彼の心を溶かしてくれる優しい女性が現れればいいのにと思う。
エルシーはドロレスに急かされて荷物の確認をすると、ドロレスがジョハナのもとに荷物を運んでいる間、フランシスに宛てて手紙を書くことにした。
支給される手紙用の紙はほぼ使っていないし、使ったとしても本来の目的以外の使い方をしているので――主に揚げ物の時の油取り紙とか――、まだまだたくさん余っている。
思えばフランシスに宛てて手紙を書くのは、以前、礼拝堂の掃除についてのお礼状を出したとき以来だった。つまり今日で二回目だ。
ほかの妃候補たちは支給される紙を使い切る勢いでフランシスに手紙を書いているのにとダーナとドロレスは嘆いているが、エルシーからしてみれば、よくそんなに手紙に書くことがあるものだと感心するばかりである。
「だいたいわたくし、文才ないのよねー。『お元気ですか、わたくしは元気です』のあとは何を書けばいいのかしら?」
そもそも目と鼻の先に住んでいて、つい先日までワルシャール地方の城で毎日のように顔を合わせていた相手に「元気ですか?」もないのだが、エルシーはもちろんそれには気づかない。
「いってきます、はおかしいし……さようなら、お世話になりました? あら、お手紙終わっちゃったわ」
――お元気ですか、わたくしは元気です。明日、里帰りのため王宮を出立します。さようなら。お世話になりました。
便箋に三行だけで終わってしまったがこれでいいだろうか?
エルシーが便箋と睨めっこして唸っていると、突然うしろから「ゴホン!」と声がした。
驚いて振り返ると、開け放されている扉の外にフランシスが立っていてエルシーは目を丸くする。いつの間に来たのだろうか。
「陛下、どうしてここに?」
「三分前だ。ちなみに扉も叩いたし呼びかけたが、お前が気づかなかったんだぞ。仕方なく扉はあけさせてもらったが、誓って中には入ってない」
「はあ……」
よくわからないが、何故中に入らないのだろうか。入って来ればいいのに。
「ごめんなさい、手紙を書いていて気づきませんでした。ダーナは下ですか?」
ドロレスはジョハナのところへ出かけて行ったばかりだが、ダーナはいるはずだ。フランシスは頷き「下で茶の支度をしている」と言った。フランシスが自らエルシーを呼びに来ることを買って出てくれたらしい。
エルシーが椅子から立ち上がろうとすると、フランシスがそわそわした様子で「誰に手紙を書いていたんだ?」と訊ねてきた。
「陛下です。見ますか?」
エルシーがそう言って三行だけの手紙を差し出すと、それを受け取ったフランシスが何とも微妙な顔をする。
「……これだけか?」
「ほかに思いつかなくて」
「いや、いろいろあるだろう! ワルシャール地方の時の思い出話とか、もっとこう……」
「ワルシャール地方ではほとんど毎日陛下と一緒にいたじゃないですか」
フランシスが知らないことなら手紙にも書けるが、彼が知らないことはない気がする。
エルシーがもっともらしく言うと、フランシスはがっくりと肩を落とした。
「まあいい。じゃあ、これはもらっておくがいいんだな?」
「もちろんですけど……自分で言うのもなんですけど、そんな手紙でいいんですか?」
正直言って、エルシーならいらない。中身もへったくれもないからだ。
フランシスはこれまた微妙な顔をして、しかし丁寧に手紙を折りたたむ。返してくれないので、もらってくれるらしい。
エルシーがフランシスとともに階下へ降りると、ダイニングでお茶の準備をしていたダーナが振り返った。
「陛下、お妃様。お茶菓子はアップルケーキでよろしかったでしょうか?」
「ああ」
エルシーが答えるより早く、フランシスが即答した。フランシスはアップルケーキが好物なのだ。
エルシーとフランシスが席に着くと、ダーナがティーカップに紅茶を注ぎ、ケーキを用意してダイニングから出て行く。
部屋に二人きりになると、フランシスがふと真顔になった。
「里帰りのあと、『お前』は戻って来るのか?」
エルシーは紅茶に砂糖を落としながら、首を横に振る。
「戻ってこないと思います。顔の痣も治っている頃でしょうし」
本物のセアラは、妃候補として王宮に上がる前に階段から盛大に転がり落ちて顔に大きな痣を作った。エルシーはその代わりに「セアラ・ケイフォード」として王宮に上がることになっただけで、本物のセアラの顔の痣が治れば入れ替わる。
(でも不思議。修道院に戻りたいのに、ここにはもう二度と戻ってこられないと思うと淋しい気もするわ)
エルシーはシスターになり、神様のお嫁さんになるのが夢だ。その夢は今も変わらないし、早く修道院のみんなのもとに戻りたい気持ちも変わらないのに、ここを離れるのが淋しい。
エルシーがそんな自分の気持ちに戸惑って、誤魔化すように笑うと、フランシスが視線を落とした。
「そうか……」
「ここでの生活、いろいろあったけど楽しかったです」
「ああ……」
できることなら、本物のセアラとも仲良くしてほしいと思う。だが、女性嫌いのフランシスには難しいだろうか。
エルシーはじっとフランシスの顔を見つめて、それから微笑む。
フランシスはすごく優しくて、彼を一人にするのはなんだか心配な気もするけれど、エルシーはもう彼を心配できる立場ではなくなる。
「陛下……お元気で」
そうか、本当にこれでお別れなのだ――と実感がわくとともに、何だから泣きたいような気持になってきた。
フランシスはアップルケーキにフォークを刺して、それから顔を上げると、エルシーに向かってどこかぎこちなく微笑み返した。
「…………ああ、お前も元気で」
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