フランシスの過去 4

 フランシスは重たい息をつくと、「聞きたいか?」とかすれた声で訊ねてきた。


 聞きたいかと問われれば聞きたい。直感だが、それはフランシスの女性への苦手意識を芽生えさせた最初の出来事のような気がした。

 でも、聞いてもいいのだろうか。表情を見れば、この過去がフランシスにとってどれだけつらいものかわかるから、エルシーは躊躇ってしまう。


 エルシーの躊躇が伝わったのか、フランシスはふっと笑って、オールを漕ぐのを再開しながら、世間話でもするように口を開いた。


「俺がまだ十歳のときのことだ。特別優しい母というわけでもなかったが、俺はそれなりに母を慕っていたし、母も俺のことを疎んじてはいないと思っていた。だけど十歳のある夜……」


 フランシスはそこで一度言葉を区切ると、小さく俯く。


「夜に息苦しさを覚えて目を覚ました俺が見たのは、泣きながら俺に馬乗りになって、首を絞めている母の姿だった。俺は叫び声をあげて、力いっぱい母を突き飛ばした。首を絞められた苦しさや痛みよりも、母が俺を殺そうとしていたことの方が衝撃だった。俺の声にすぐに衛兵が部屋に飛び込んできて、俺はすぐに母から引き離された。数日たって、滅多に姿を見せない父が俺に言ったことには、母は精神を病んでいるからしばらく療養させるということだった。だがそんな言葉で、実の母に首を絞められた心の痛みが晴れると思うか? 俺はすっかり自分の殻に閉じこもるようになって、そんな俺は父の勧めで――いや、ここから先は関係のない話になるからやめておこう」


 ぽつぽつと静かな声で語られる内容の衝撃に、エルシーは言葉もなかった。


「母親でさえ裏切るんだ、血のつながっていない女どもなんて信用できると思うか? あ、いや……もちろん、お前のことは信用しているし、その……」

「無理しなくてもいいですよ?」


 フランシスがエルシーに心を許していることは、エルシーにも自覚がある。アップルケーキの効果なのかどうなのか、エルシーが「エルシー」だと気づかれたあたりから――フランシスと関わりはじめてほぼ最初のあたりから、彼はエルシーに気を許していた。


 だけど、だからと言って、完全に信用することはできないだろうと思う。「女性」とひとくくりにしてしまうのはどうかと思うけれど、それだけの過去があったのだ、そう簡単に考えは変わらないし変えられない。こう言うのをトラウマだというのだと、ずっと昔に修道院の院長のカリスタに教えられたことがある。それがいつだったのかは、思い出せないけれど。


「……無理はしていない。エルシーは、大丈夫なんだ」


 フランシスは顔をあげ、真剣な顔でエルシーを見つめた。


「なあエルシー。セアラ・ケイフォードと入れ替わらずに、このままずっと王宮に留まる気はないか? お前が望むなら、俺が何とかしてやれる。だから……だから――」


 フランシスの綺麗な緑色の瞳が、今日の湖の水面のように青いエルシーの瞳を絡めとる。


「ずっと俺の側にいないか?」


 エルシーは驚いて目を見開いた。

 エルシーは身代わりだ。セアラの顔の痣が治るまでの、たった三か月ほどの身代わり。エルシーには帰る場所がある。だからフランシスの側にはずっといられないし、考えたこともなかった。


 セアラと無事に入れ替わったら修道院に戻って、シスター修行を再開する。そしてゆくゆくはシスターとなり、グランダシル神のお嫁さんになる。それがエルシーの夢で目標だ。


 だのに、どうしてか、ぐらりと心が揺れたのがわかった。

 そんな自分の思考とは想定外の動きをする心に戸惑って、エルシーがすぐに答えを返せないでいると、フランシスが続けた。


「お前は修道院に戻りたいのか? どうしても? 礼拝堂が好きならいくらでも礼拝堂に通い詰めていいし、掃除だって好きにすればいい。お前の心を守る場所なら俺にだっていくらでも用意してやれるし、文句を言うやつを黙らせる力もある。それでも、ダメか?」


 ダメなのではない。困るのだ。エルシーには帰る場所がある。今まで育ててくれたカリスタには返せないだけの恩があって、姉のように優しいシスターたちや、弟妹のように可愛い修道院の子たちも待っている。帰らなければいけない。帰らなければ……。エルシーは、実の父であるヘクター・ケイフォードが言うには、死んだ娘で、この世にはいない存在だから――修道院の中だけがエルシーが生きていることを許してもらえる場所なのだ。


「わた、し……シスターに、なりたいんです」


 からからに乾いた口で、エルシーは絞り出すように言葉を紡いだ。


「シスターになって、神様のお嫁さんになって……わたしのように帰る場所のない子供たちを育てて、幸せにしてあげたいんです」


 カリスタが、エルシーにしてくれたように。


 修道院に来たばかりのころ、エルシーは泣いてばかりだったそうだ。そんなエルシーに寄り添って導いてくれたのはカリスタで、エルシーは将来カリスタのようになりたいと思うようになった。


 修道院から出ることが叶わなかったからシスターになろうと思ったのもあるけれど、でも、カリスタのようになりたいと思った気持ちは本物で、今更選択肢が提示されても、本当に困る。


 迷いたくないのだ。悩みたくない。迷うこと、悩むこと自体が、罪のような気がするから。


 フランシスは優しいし、クラリアーナやイレイズとも仲良くなった。ダーナとドロレスもとても親切だ。みんなの側は、エルシーにとって居心地のいい場所になりつつある。だからこそ、惑わすようなことは言わないでほしかった。

 エルシーが苦しそうに眉を寄せたからか、フランシスが苦笑して首を横に振った。


「悪かった。……今のは忘れてくれ」


 すっと、あっさり引いたフランシスに、エルシーは驚くと同時に少し淋しさを覚えてしまった。そんな自分にやっぱり戸惑って、エルシーはふるふると首を小刻みに横に振ると、頭の中の雑念を追い払った。


「エルシー、もう一周するか?」


 話しながらだったから、すでに湖を二周している。フランシスの手は疲れていないのだろうかと心配になったが、もう少し湖の上でフランシスと話していたい気になったエルシーは、遠慮がちに頷いた。


「……もう一周、したいです」


 その直後、ふわりと笑ったフランシスが、空から降り注ぐ日差しのように眩しくて、エルシーはちょっぴりドキドキしてしまったのだった。

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