フランシスの過去 3
ベリンダが捕えられて二日後、エルシーはなぜか湖の上にいた。
昨日の夜にやってきたフランシスに、古城の近くにある湖でボート遊びに誘われたのだ。
そう言えば、ここワルシャール地方に誘われた時に、ボート遊びができると聞いた気がする。いろいろあってすっかり忘れていたが、ボート遊びをしたことは一度もないので、エルシーは二つ返事で頷いた。これがフランシスの言う「いい子にしていたご褒美」なのだろう。
ボートは縦に長く、見た目にはとても不安定そうに見えたけれど、乗ってみると案外大丈夫だった。
護衛の一人としてついてきていたクライドが、もう一回り大きい数人乗りのボートにした方がいいと言ったのを、フランシスが断って、この二人乗りのボートを選んだ。なんと、ボートは国王陛下自らが漕ぐという。
さすがに国王にボートを漕がせるのはどうかと思ったので、エルシーはオールに手を伸ばしながら「わたくしが……」と申し出てみたけれど、「お前には無理だ」と一蹴されてしまった。なかなか力と体力がいるらしい。
フランシスがゆっくりとオールを漕いで、ボートは滑るように湖の上を移動している。
湖はそこそこ深く広いのだが、水の透明度が高くて、下を覗き込めば湖底まで見渡せるほどだった。
ゆらゆらと揺らめく水面の底には、ごつごつした大きな黒と青を混ぜたような色に染まったような岩肌と、底に沈んだ木、小さな小魚の姿がある。不思議と、藻や水草などは見当たらなかった。
水面はターコイズブルーのような綺麗な青で、フランシスによれば湖の水に鉱物が含まれているから綺麗な青に見えるのだそうだ。
水の上だろうか、陸地にいる時よりもひんやりしているのに、日差しがまぶしい。
漕ぎつかれたのか、フランシスが湖の真ん中の当たりでオールを止めた。
「エルシー。ここに誘ったのはもちろん遊びの意味もあるが、今回の顛末についてお前にも説明するためだ」
フランシスが真面目な顔をして口を開いた。
「今回の件については事情があって公には詳細は伏せられることになった。妃候補たちを納得させるため多少の説明は必要だと見ているが、本当のことを話す必要はない。だから本来、お前にも話すことではないんだが……関わらせてしまったからな。ほかの妃候補たちにする説明ではお前は納得しないと思ったんだ」
ボートの上で二人きりになったのは、このことを誰にも聞かれずに話すためだったらしい。エルシーに事情を説明することはクライドにも伝えていないそうなので、胸の内にとどめておいてほしいとフランシスは言って続けた。
「まず一つ目はお前が一番気になっているベリンダの件についてだ。ベリンダについては少々複雑で何から説明すればいいのか難しいところだが……、ベリンダは男だ」
「え?」
「正確には、対外的にずっと女として育てられていた男だ。ベリンダが女ではないと知っているのは彼女――いや、彼の母親と乳母と母親の侍女の一部、そして従妹であるミレーユ・フォレスだけだそうだ」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
さすがにわけがわからなくて、エルシーは待ったをかけた。ベリンダの所作は、エルシーのそれよりも圧倒的に洗練されていて女性的だった。静かでおしとやかで、気品があったのだ。それなのにいきなり男性だと言われても、わけがわからない。
「ベリンダの亡き母がベリンダを女として育てることを望み実行に移したそうだ。ベリンダの母はエリンケル国のもと王女で、祖父がエリンケルを攻め植民地に置いた時点で、強引にサマーニ侯爵家に嫁がされている。祖父はエリンケル国王夫妻や王子たちは処刑したが、二人いた王女は我が国シャルダンに縁付かせた。ベリンダの母の姉はほかの公爵家に嫁がされたと聞くが、彼女は結婚して間もなく、自ら短剣で喉をかき切って自害したという」
エルシーは国の事情についてはさっぱりわからないのでフランシスがかいつまんで説明したことによると、エリンケル国と言うのはシャルダン国の南にある国で、二代前の国王の時代に起こった戦争により、シャルダンの植民地となったらしい。国はそのまま残されているが、現在はシャルダン国がエリンケル国を管理し、国王の名前はフランシスになっているそうだ。エリンケル国の王族の生き残りは、政にすら一切の干渉を許さず、各地に散っているらしい。強引にシャルダン国に嫁がされた王女たち以外については、縁者のもとに身を寄せたのだろうと言っていた。
「ベリンダの母はサマーニ侯爵に嫁がされたが、当時は十一歳だったそうだ。侯爵はベリンダの母を離れに隔離して、夫婦らしい生活はほとんど送っていなかったらしい。侯爵はパーティーにはいつも愛妾を伴っていたからな、実質的な侯爵家の女主人はその愛妾なのだろう。結婚して十数年ほど経ち、ベリンダが生まれたというが、ベリンダが生まれてからも、ベリンダとその母は離れて生活していて、侯爵はほとんど顔を見せなかった。だからこそ、隠し通せたのだろう」
「でも、どうしてそんなことを……?」
「ベリンダを俺の妃候補として王宮に入れるためだ」
「え?」
「サマーニ侯爵家に娘が生まれたら妃候補になるだろうことは、ベリンダが生まれる前から決まっていた。詳しくは言えないが、次にどこの家の娘を妃候補として入れるのかは、王家に男児が生まれた時点で順次話し合われて決められていくんだ。サマーニ侯爵家は王家への貢献度が高く、かなり早くから決まっていた。ベリンダの母が彼を生む前に知っていてもおかしくない」
「でも……」
男を妃候補として王宮に入れてどうするというのだろう。エルシーはますます訳がわからなくなった。首をひねっていると、フランシスが手を伸ばしてエルシーの指先に触れた。本当は頭が撫でたかったようだが、ボートの上で不用意に立ち上がることもできないから、届かなかったらしい。
「お前は本当に純粋でいいな。……クラリアーナにも事前にこのことは説明しておいたが、あいつはベリンダが男だと知った時点である程度のことは推測できた」
どういう意味だろう。エルシーが馬鹿だと言いたいのだろうか。さすがにムッとすると、「違う」と苦笑される。
「思いつかない方がいいんだ。こんなドロドロした物騒なこと、お前には似合わない」
「ドロドロした物騒なこと?」
「ベリンダは俺を殺すために女として育てられたということだ」
「ええ!?」
エルシーは驚愕した。
思わず立ち上がりかけて、ボートが左右に大きく揺れたので、慌ててしゃがみこんで船縁にしがみつく。
「嫁がされたのが十一歳とは言え、国を奪われた王女の恨みと言うのは凄まじいものがあるらしい。ベリンダの母は、シャルダン王家への復讐心だけを糧に生きながらえていたらしい。ベリンダは物心つく前からシャルダン王家への怨嗟を叩きこまれ、いずれ俺の妃候補として王宮に入り、俺の寵を得て油断させ殺せと言い続けられていたそうだ。そのためにお前を生んだのだと、自分の子に、よくもそんなことが言えると思う。……これだから女は嫌いだ」
女ではなくベリンダの母が特殊だっただけだろうが、確かにそれはひどい。
エルシーは両手で口元を覆った。
「だが俺は王宮には足を運ばなかった。ベリンダは母の言いつけを守るべく何度も俺に手紙を送り、俺を自分の部屋に来させようとしていたようだが、俺がいつまでも乗ってこないから、別荘にいる間にけりをつけようとしたらしい。結果がこれだ」
もうエルシーには言葉もなかった。茫然としていると、フランシスが一度大きく息を吐き、「ここからがさらに複雑になる」と前置きして続けた。
「問題がややこしくなったのは、ベリンダの計画について、ミレーユが知っていて、彼女が見当違いな方向でベリンダを止めようとしていたことだ」
フランシスは再びゆっくりとオールを漕ぎはじめた。
ボートが湖の上を滑るように動き出し、柔らかで少し冷たい風がエルシーの頬を撫でる。
「ミレーユ・フォレスはベリンダの計画を阻止したかったらしい。国王を暗殺しようとすれば、ベリンダの極刑は免れない。しかしベリンダはいくら言っても計画を変更しようとはしなかった。母が死んだのに――いや、死んだからこそ、母親の怨嗟が耳に張り付いて、まるでそれだけが自分の生きる意味のように感じていたのだろう。だからミレーユはベリンダを言葉で説得するのをやめて、別の方法を取ることにした」
「別の方法?」
「俺の寵を得ることだ」
「……え?」
うん? とエルシーが首を傾げると。フランシスが苦笑する。
「俺もどうしてそちらに思考が行ったんだと思ったけれど、ミレーユに言わせれば、俺がミレーユを愛し、彼女を妃に迎えることを決めれば、ベリンダもミレーユの未来の夫を殺そうとはしないだろうと考えたらしい。なんとも突飛な考えだとは思うが、そのせいでクラリアーナに被害があったと思うと、馬鹿馬鹿しいと笑って許すことはできないな」
「どういうことですか?」
「クラリアーナに毒を盛ったのは、ミレーユだ。白状した」
エルシーは息を呑んで固まった。
フランシスの話はこうだ。
あの日、クラリアーナとイレイズがお茶を飲むため、手の空いていたメイドに準備を頼んだ。ちょうど手が空いていたのはミレーユの部屋付きメイドだったエマで、彼女はキッチンからティーセットと一緒に蜂蜜を準備してもらって、クラリアーナのところに運ぶ途中だった。
それをミレーユが呼び止めてエマから事情を聞き、咄嗟に犯行を思い付いたという。
「ミレーユは、自分の計画のためには、妃候補の中で一番位が高く、俺の妃の筆頭と呼ばれているクラリアーナや、最近クラリアーナと仲良くしていて、何かと俺の目に留まることが増えたイレイズが邪魔だったらしい」
ミレーユはエマが持っていた蜂蜜に目を止めて、自分もほしいから今すぐに取りに行けと命じたらしい。このティーセットは、自分が他の誰かに言づけておいてやると言ってエマの手から奪い取った。
そして蜂蜜の瓶の中に毒物を混ぜ、ちょうど姿を見かけたララに言づけたらしい。
「じゃあ……もしかしてその毒物は、薬草園にあったものですか?」
ミレーユを薬草園で見かけたことがあるエルシーが推理したけれど、フランシスは首を横に振った。
「違う。ミレーユが薬草園を荒らしたのは確かだが、毒はあらかじめミレーユが所持していたものらしい。つまり、遅かれ早かれ、どこかで邪魔者を消し去るつもりだったということだ。薬草園を荒らしたのは、犯行に使われた毒がそこから取られた物だとカモフラージュするためだろう」
ミレーユは薬と偽って毒物を隠し持っていた。間違えれば命に関わるようなもので、クラリアーナが助かったのは、味が変わることを恐れたのか、蜂蜜に混ぜられていた毒が多くなかったことと、彼女がごく少量の蜂蜜しか使わなかったことだという。
フランシスは空を見上げて嘆息した。
「まったく、恐ろしいことを考えるものだ。女は自分の目的のために他人を殺すことも、子供を道具のように使うことも――不要になったら殺すことだって厭わない」
「そんなことは――」
「もちろん例外がいることは知っている。だが、こういうことがあると、どうしても思い出してしまうから……うんざりだ」
フランシスはオールを漕ぐのをやめて、ぐしゃりと髪を乱した。
「――俺も殺されかけたことがある。王太后に――実の、母親に、首を絞められて、な」
一瞬、エルシーの耳に入る音がすべて消えたような、気がした。
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