彷徨う騎士 1
皆が寝静まった夜、彼はむくりとベッドから起き上がると、カーテンをあけた。
窓の外には輪郭のぼやけた欠けた月が浮かんでいて、空にはまだ薄い雲の膜があることを物語っている。
夜遅くまで騎士たちが警備をしているが、さすがにこの時間には皆就寝したようだ。
(チャンスは、今しかない)
彼女が、何かしようとしていることは知っていた。彼のために、彼を止めるために、このままでは彼女はその穢れの知らなかった手を血に染めることになるだろう。
彼の計画を知って、あの優しい女の子は涙を流したけれど、幼いころから叩き込まれた価値観は変わらない。
どんなに泣かれようと、縋りつかれようと、例えこの身が滅びようとも、やらなければならないことがある。
――わたくしはそのためだけに嫁いだの。
――あなたは、そのためだけに生まれてきたの。
繰り返し繰り返し……それこそ生まれたその日から繰り返された呪いの言葉。
彼の体にはその呪いがべったりと染みついていて、どんなに洗い流そうとしても、まっさらには戻れない。
「――俺は、そのためだけに、生まれてきた……」
死ぬまで呪いの言葉を吐きつづけたあの人は、もういない。
けれども消えない呪いは、呪いを吐く人がいなくなっても、生き続けている。
彼は踵を返すと、物音を立てずに部屋を出た。
城の廊下には赤い絨毯が敷かれていて、足音を殺すには丁度いい。
城の玄関から外に出ると、彼は静かに背後を振り返って、小さく笑う。
自分はきっと、死ぬだろう。
「どうか君は、幸せに」
つぶやいたささやきは、少し冷たい夜の風に攫われて、静かに消えた。
☆
次の朝、礼拝堂から戻った直後に耳に飛び込んできたベリンダ・サマーニ侯爵令嬢失踪の情報は、エルシーを驚愕させるに充分だった。
侍女仲間から話を聞いてきたダーナとドロレスによれば、ベリンダ付きの侍女が彼女を朝起こしに行ったときにはすでに彼女は部屋におらず、枕がナイフか何かで斬りつけられており、羽毛が散乱していたという。そしてさらには、カスタードクリーム色の長い髪が床にばらまかれていたという。
カスタードクリーム色の髪と言えばベリンダのものと同じ色だった。
部屋にはベリンダが傷を負ったことを示唆させるような血痕などはなかったそうだが、クラリアーナの事件があったあとだ。切り裂かれた枕と散乱した髪の毛を見た侍女の一人は戦慄し悲鳴を上げ、一人は失神してしまったらしい。
侍女が悲鳴を上げたとき、エルシーは立ち入り禁止の札とロープがかけられた礼拝堂の前をうろうろしていて、その悲鳴は聞こえなかったのだが、聞きつけた侍女やメイドや妃候補たちが集まって騒然となったそうだ。
グランダシル神の像が砕かれた礼拝堂は、フランシスの一存でしばらく使用禁止にされていて、朝の日課ができなかったエルシーは落ち着かなかったが、諦めて封鎖された扉の前で祈りを捧げて城に戻り、そのことを知ったのである。
ベリンダは三階の東側を使っているが、エルシーが戻ったときには彼女の部屋の前には見張りの騎士たちがいた。
「何がどうなっているのかしらね」
遠目から茫然とそれを眺めていたエルシーが、背後から声をかけられて振り返ると、そこには相変わらず妖艶なドレスを着たクラリアーナが立っていた。ようやく部屋から出る許可が得られたようだ。
クラリアーナと二人で遠巻きにベリンダの部屋の扉を見ていると、フランシスが大階段を上ってきた。
「今日は一日部屋の中ですごしてくれ」
フランシスはベリンダの部屋を確認しに来たようだが、エルシーとクラリアーナの姿を見つけると、険しい顔でそう言った。スチュワートと相談し、危険から遠ざけるために妃候補たちは部屋から出さない方がいいだろうという結論に至ったらしい。
すべての部屋に一人ずつ護衛のための騎士を配置するそうだ。
「まあ、せっかく部屋の外に出られましたのに」
クラリアーナは不満そうに息をついたが、フランシスに睨まれて肩をすくめる。こんなことのあとだからか、フランシスは気が立っているようで、軽口は通じなさそうだった。
エルシーは言われた通りクラリアーナと別れて部屋に戻った。
ダーナとドロレスも不安そうに出窓につるされているラベンダーを見る。
「本当に、何がどうなっているのでしょうか。クラリアーナ様に続いてベリンダ様もなんて……、この地に住むとされる戦女神様が、よそ者のわたくしたちを追い出そうとしているのでしょうか?」
ダーナがぽつりと言えば、ドロレスがふるふると首を横に振って「怖いことは言わないでちょうだい」と言う。
エルシーも戦女神の呪いなど信じたくはなかったけれど、こうも続けば本当に何かがあるのかもしれないと思わずにはいられなかった。
(グランダシル様の像も壊されてしまったし……、そのせいでグランダシル様の守りが薄れているのかもしれないわ)
皆を愛し、慈しみ、守ってくれるグランダシル神を信じていれば大丈夫だと思う一方で、そんな不安が脳裏をよぎる。
グランダシル神を信じ、いずれはシスターとなって彼の妻になることを目標とするエルシーが、グランダシル神の力に不安を覚えてはいけないとわかっていつつも、立て続けに不穏なことが起きたからだろうか、ちょっと怖い。
こういう時こそ礼拝堂で祈って心を落ち着けたいのに、礼拝堂は封鎖されていて中には入れないし、どうしたらいいのだろう。
グランダシル神の像を壊した犯人もまだわからない。
グランダシル神の像を壊した犯人と、今回の二つの事件を起こした犯人は別人だろうか。……どうしてかエルシーには、関係があるとしか思えなかった。
ララの言うところの、戦女神様の騎士が城を徘徊して、よそ者を排除しようとしているのではないだろうか。
(悪いことを考えたらだめよ。しっかりしないと。ベリンダ様も、きっと無事よ。……グランダシル様。どうかわたくしたちをお守りください)
エルシーは立ち上がり、窓の外に見える礼拝堂にそっと祈りをささげたのだった。
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