エピローグ

 アイネ・クラージ伯爵令嬢は、王宮から去ることになったらしい。

 そう教えてくれたのはクラリアーナだ。

 彼女は約束通りエルシーにドレスの作り方を教えるために来てくれた。


 本当は教えを乞うエルシーの方が彼女の部屋を訪ねるべきだと思ったのだが、一番右の部屋に住んでいるクラリアーナの部屋を訪ねると目立つためやめた方がいいだろうとクラリアーナに言われたのだ。

 クラリアーナがエルシーの部屋に出入りしはじめたことをイレイズが訝しんだけれど、クラリアーナが王宮の妃候補たちの素行を調べていることは秘密なので、単に仲良くなっただけだと言えば、イレイズはあっさりそれを信じた。礼拝堂を汚した犯人がアイネであることは、彼女が王宮方去ることになったときに知っていたようで、イレイズは、クラリアーナを疑ってしまったことを恥じていたらしい。


 クラリアーナがエルシーを訪ねるときにはイレイズもやってくるようになって、なんとなく三人でいることが増えたある日の夕方、フランシス国王がエルシーの部屋を訪ねてきた。

 それは、エルシーが王宮に入ってちょうど一か月目のことだった。

 クライドを伴ってやって来たフランシスを見たエルシーは、思わず唖然としてしまった。

 フランシスは騎士の制服を着て、茶髪のウィッグをかぶっていたからだ。


「アップルケーキを食べに来た」


 フランシスはそう言った。エルシーのことを黙っていてもらう口止め料にアップルケーキを要求されはしたが、変装までして食べたかったのだろうか。


(どれだけアップルケーキが好きなのかしら……?)


 命じてくれれば、ダーナかドロレスに頼んで、作ったアップルケーキを届けるのに、わざわざ食べに来るなんて。

 突然やってきたフランシスに、ダーナとドロレスも驚愕したけれど、二人はすぐに正気に戻ると、大慌てでダイニングにお茶の準備をはじめた。


 紅茶とアップルケーキが出されると、フランシスは満足そうな顔をしてフォークを握る。

 ダーナとドロレス、そしてクライドが気を利かせてダイニングから出て行って、エルシーはフランシスと二人きりにされてしまった。


「セアラ、かわりないか?」


 フランシスがアップルケーキを口に運びつつ訊ねた。

 二人きりとはいえ、建物の中にはダーナやドロレス、クライドがいるから、彼はきちんと「セアラ」として接してくれる。

 エルシーが頷くと、フランシスは少しだけ心配そうな顔をした。


「クラリアーナがここに入り浸っていると聞くが」


 クラリアーナはエルシーにドレスの作り方を教えにやってくるが、何もそれだけのために来ているわけではない。というか、最近ではドレスの作り方を教えるのがついでで、エルシーの焼いたお菓子を食べながらおしゃべりに興じることの方がメインになりつつある。


「クラリアーナ様はとても親切にしてくださっています」

「あいつが親切ね……。まあ、俺への嫌がらせのような気もするがな」

「どうして陛下への嫌がらせになるんですか?」

「それはあいつがお前の作った菓子の感想を逐一報告してくるからだ」

(?)


 だから、どうしてそれが嫌がらせになるのだろう。エルシーはわからなかったが、フランシスはクラリアーナがよこすお菓子の感想が相当気に入らないと見える。

 フランシスは拗ねたような顔をしていたけれど、気を取り直すと、ケーキの続きを食べながら言った。


「それはそうと、来月だがな、南にある別荘へ行こうと思うんだ」


 別荘のある南のワルシャール地方は、王家での管轄地だそうで、今はフランシスの叔父である前王弟スチュワートが住んでいて、フランシスは毎年視察もかねて訪れているらしい。三週間ほど城をあけるそうだ。

 ワルシャール地方はワインの製造が盛んで、一面ブドウ畑が広がっているそうだ。来月のはじめ――訪れる予定のころは、ちょうどブドウの花が咲きはじめているらしい。と言っても、ブドウの花は花びらがないらしく、一見すると花に見えないそうで、花を見て楽しめるようなものではないらしいのだが。


 エルシーは「そうなんですね」と頷きながら、それならばフランシスは来月はこうしてアップルケーキを食べに来ないのだろうと思った。これまでだってたいして会っていないのに、三週間会えないと思うとちょっぴり淋しいような気がするのは何故だろう。


「お気をつけて行ってきてくださいね」

「何を言っているんだ? お前も行くんだ」

「……はい?」

「だから、お前も連れていくと言っている」

(なぜ?)


 エルシーは目をぱちくりさせたけれど、フランシスは至極当然のような顔をしてケーキを頬張っている。


「ずっとここにいたら息が詰まるだろう。だから連れていくことにした」


 ……そこに、エルシーの意見は反映されないのだろうか。

 ちょっぴりあきれたけれど、修道院の中でずっと暮らして、ここに来てからも王宮の中だけで生活が完結していたエルシーは、行ってみたいような気もしてきた。

 フランシスはアップルケーキを食べ終わって、満足そうな顔で紅茶を飲むと、にこにこと笑う。


「湖があるからな、ボート遊びができるぞ」

「ボート遊び……」


 ボートを見たことのないエルシーにはピンとこなかったけれど、話には聞いたことがある。きっと楽しいのだろう。


「でも……礼拝堂の掃除をしないと……」

「また礼拝堂か。お前の礼拝堂愛にも困ったものだな」


 フランシスは肩をすくめて、それから「礼拝堂のことはジョハナに頼んでおく」と言った。きちんと掃除させて、再び汚されることがないように見張りもつけてくれるという。それならば安心だ。


「きっと楽しいぞ」


 確かに楽しいかもしれない。エルシーが王宮にいるのはあと二か月だろうし、終わればまた修道院から出ることはないだろう。もちろん修道院の生活は大好きだが、この機会を逃せば一生経験することもないはずだ。

 カリスタも何事も経験だと言っていたし、見聞を広めてみるのもいいかもしれない。

 エルシーは小さく笑った。


「わかりました。ダーナとドロレスにも伝えておきますね」

「ああ。決まりだな」


 フランシスは嬉しそうに笑う。

 フランシスが帰るときにもアップルケーキを持って帰りたいと言い出したので、残っているケーキを全部包みながら、エルシーは見たこともないワルシャール地方に思いをはせるのだった。

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