国王フランシスのたくらみ 3

(なに……これ……)


 エルシーは茫然としていた。

 朝の日課の礼拝堂の掃除。

 今日も今日とてピカピカに磨き上げようと気合を入れて向かった礼拝堂で、エルシーは大きく目を見開いた。

 エルシーのうしろで、ダーナとドロレスも息を呑んでいる。


「なんでこんなことに……」


 昨日丁寧に掃除をした礼拝堂の中は、まるでここだけ嵐でも来たのかと思うほどの大惨事だった。

 大理石の床は泥で汚され、長椅子の上にはごみが散乱している。

 グランダシル神の像には赤い絵の具で落書きがされていて、見るも無残な状態だ。

 壁も同じように赤い絵の具がべったりと。


「わ、わたくし、ジョハナ様にご報告してまいります!」


 ダーナが弾かれたように踵を返して駆けだして言った。

 ドロレスが茫然としているエルシーの肩にそっと手を置き、「一度戻りましょう」と言ったけれど、その言葉はエルシーの耳には入らなかった。


「誰が……こんなことをしたの……」


 その、地を這うような低い声に、ドロレスがびくりと肩を揺らした。


「お、お妃様……?」

「誰が、こんな罰当たりなことを……こんなひどいことを、したの?」


 エルシーの肩がぷるぷると震える。

 ふつふつと腹の底から湧いてくるのは怒りだった。

 礼拝堂は、幼いころに修道院に捨てられたエルシーにとって心のよりどころだった。いつも神様が見守ってくださっていますよというカリスタの言葉を支えに、神グランダシルに祈ることで淋しさや悲しみをやりすごした。その、大切な神様の家に、像に、なんて仕打ちをするのだろう。


(許せない……)


 基本的に温厚なエルシーだが、礼拝堂を汚すことだけは断じて許すことができなかった。


(犯人は誰? 誰がこんなことをしたの?)


 捕まえて、自分が犯したことを悔い改めさせなければ。

 目には目を歯には歯をと言う考え方は、シスターにはご法度だ。エルシーもシスターになると決めたときから、カリスタにそう教わってきたけれども――こればっかりは、どうしても許せなかった。捕まえて反省させなければ気が済まない。


(落ち着いて……犯人を捕まえるにしても、礼拝堂をこのままにはしておけないわ。まずは掃除しないと。ああ、掃除道具がこれだけでは足りないわね。あの絵の具を落とすには石鹸が必要だわ。ジョハナ様に頼んだら用意してくれるかしら?)


 一度冷静になろうと、エルシーは深呼吸をくり返す。

 ここで怒っていても、礼拝堂は綺麗にならない。掃除が先だ。早く、神様の家を綺麗にしなくては。

 八回ほど深呼吸をくり返して、どうにか怒りを押し殺したエルシーは、バケツの中に入れていたぞうきんをぎゅっと絞った。


「お妃様?」

「掃除……掃除しましょう」

「え⁉ でも、この状況ですよ⁉」


 泥を掃きだすだけでも一苦労だとドロレスは言うけれど、例えそうだとしても、このまま立ち去ることはエルシーにはできなかった。


「服が汚れてしまいます!」

「汚れたら後で洗えばいいわ。礼拝堂をこのままにしておく方が問題よ」

「でも!」


 ドロレスが止めようとするけれど、こればかりは従わけにはいかなかった。

 絞った雑巾で、礼拝堂の扉につけられた赤い絵の具を拭きとろうとするが、やはりべったりとつけられた乾いた絵の具はそう簡単に落ちそうもなかった。

 それでも必死に磨いていると、ジョハナと、それから数人の男たちを連れたダーナが戻ってきた。その男たちの中には見知った人もいて、エルシーは目を丸くする。


「まあ、トサカ団長」


 うっかり、こっそり呼んでいた仇名を口から滑らせてしまって、エルシーはハッとしたけれどもう遅かった。

 やってきたトサカ団長――もとい、第四騎士団の副団長クライドは、あきらかにそれが自分に向けられての言葉だと気が付いたようで、ひくりと頬をひきつらせた。


「トサカ……団長?」


 エルシーはついと視線を逸らしたが、クライドの突き刺さるような視線が痛い。

 内心冷や汗をかきながらどう誤魔化したものかとエルシーは悩んだけれど、その答えが出る前に、礼拝堂の中を覗き込んだジョハナが悲鳴を上げた。


「まあ! なんですかこれは⁉ 誰がこのようなことを!」


 ジョハナも犯人に心あたりがないらしい。

 クライドをはじめとする騎士団の面々も唖然として礼拝堂の中を見渡している。

 ジョハナはこめかみを押さえて、扉を拭いていたエルシーに視線を止めた。


「お妃様、このあと始末は陛下にお願いして手配いただきますので、お掃除は結構です。これは一度礼拝堂の中のものを出さなくてはどうしようもないでしょうからね」

「でも……」

「お妃様、そもそも礼拝堂のお掃除はお妃様のお仕事ではありません。どうかここはお引き取りください。お妃様がいては、ほかのものも仕事がやりにくいでしょう」


 幼少期に捨てられたエルシーは「お貴族様」ではないのだが、ここでは伯爵令嬢セアラの身代わりだ。確かに妃候補の伯爵令嬢がいつまでも居座っていては、ほかの人がやりにくいかもしれない。

 礼拝堂の中のものを一度出すというのには賛成だが、エルシーの腕では運び出すこともできないだろう。

 ここはジョハナの言う通り、お任せした方がいいのかもしれないけれど、どうしても納得できなかった。神様のために、せめて何かがしたい。


「それでしたら……グランダシル様の像をわたくしの部屋の庭まで運んでいただけないでしょうか? 綺麗にお掃除したいんです」


 ジョハナは少し悩んだようだったが、まあそのくらいならば邪魔にならないし構わないだろうと許可をくれた。

 クライドたち騎士団がグランダシル神の像をエルシーの家の庭まで運んでくれる。ジョハナに掃除用の石鹸をもらい、エルシーはワンピースの裾をぎゅっと縛ると、像にこびりついている赤い絵の具をせっせと落としはじめる。

 ダーナとドロレスがおろおろしつつも手伝ってくれた。

 そうして二時間かけてグランダシル神の像を磨き終えたエルシーは、乾いたタオルで像の表面の水分を拭きとったあとで両手を組んでお祈りを捧げる。


(グランダシル様、申し訳ございません。礼拝堂が綺麗になるまで、すごしにくいでしょうが、ここで我慢してください)


 ジョハナによると、礼拝堂の掃除は一日では終わらないらしい。泥を掃きだし、壁を拭き、そして乾かさなくてはならないから、二、三日はかかるらしい。

 グランダシル神の像に祈ったあとで、エルシーはせっせと運び出した長椅子を掃除してくれている騎士団の面々の姿を見て、ほかに何か自分にできることはないだろうかと考えた。

 ジョハナが許してくれたのはグランダシル像の掃除までで、それ以外は手出し無用と言われている。

 エルシーは空を見上げて、そろそろ昼になるなと思った。騎士団の面々は日が暮れるまで掃除をしてくれるのだろう。


(……食材はまだたくさんあったわよね?)


 掃除の手伝いが無理でも、差し入れならいいのではないか。

 そう考えたエルシーは、さっそくキッチンへ向かった。昼食を作るから、多めに作って騎士団の方々に差し入れしよう。

 キッチンを確認したエルシーは、ジャガイモがたくさん残っていることに気が付くと、それを一口大に切って油で揚げて「揚げじゃが」を作ることにした。これは修道院の子供のおやつにも出していたもので、簡単でとても美味しい。パンの数があまりないから、その分ジャガイモで我慢してもらおう。


(それからトマトのスープと、リンゴが五つあるから……リンゴのケーキはどうかしら?)


 メニューが決まると、エルシーはさっそく調理に取りかかる。

 せっせとじゃがいもを揚げていると、ワンピースに刺繍をしてくれていたダーナとドロレスが降りてきて、その量にギョッとした。


「お妃様、どうしてこんなにたくさん作っているんですか?」

「礼拝堂を掃除してくださっている騎士団の方に差し入れをしようと思って。ちょうどよかったわ。揚げたジャガイモに塩を振って、そっちの底に紙を敷いた籠の中に入れてくれるかしら?」

「わかりました……ってお妃様、この紙、手紙用の紙ですよ」

「ええ。ちょうどいい厚みと大きさでしょ?」

「そうかもしれませんが……こちらは陛下にお手紙を書く用のものですが、よろしいんですか?」

「いいのよ、使っていないもの」

「…………そう言えば、お妃様は陛下にお手紙を一度も出されていませんでしたね」


 今頃気が付いたようにダーナが愕然とした。

 ドロレスも隣で頷いている。


「皆さま、こぞって陛下にお手紙を書きたがるものですが……お妃様は陛下にお手紙は書かれませんの?」

「お手紙? お手紙ねえ……」


 そうは言われても、国王陛下の手紙なんて何を書けばいいのかわからない。悩んでいると、ダーナがこめかみを押さえながら言った。


「せめて一通だけでもお出しくださいませ。このままですと、お妃様選びがはじまって早々に陛下のお心が離れてしまいます」


 そう言うものなのだろうか。エルシーとしてはまったく構わないが、エルシーはセアラの痣が治るまでの身代わりだ。セアラと入れ替わったときに国王陛下の心が離れてしまっていたら困るだろう。


(なんだかとても煩わしいけど、わたしは身代わりなんだから、役目はきちんと果たさないといけないわよね?)


 すべては修道院への寄付のためだ。

 会ったこともない人にどんな手紙を書けばいいのかはわからないが、あとで考えてみよう。

 わかったわと頷くと、ダーナとドロレスがホッとしたように胸をなでおろした。

 エルシーは残りのジャガイモを揚げて、並行して作っていたスープの味を見ると、自分とダーナとドロレスの三人分だけ小鍋に取り分けて、大きなスープ鍋をよいしょと抱える。


「お妃様⁉」

「何をしていらっしゃるんですか⁉」

「なにって、差し入れを持って行くって言ったでしょ? あ、ダーナはそこのジャガイモの籠を持って。ドロレスは食器を入れたそっちの籠ね!」

「ちょっ、お、お待ちください!」


 さくさくと鍋を持って歩き出すと、揚げじゃがの籠と食器の籠をそれぞれ手に持ったダーナとドロレスが慌てて追いかけてきた。


「そんな重たいもの、危ないです!」


 そうは言うけれど、修道院ではもっと重たいものを抱えていたから、これくらいどうってことはない。

 大丈夫大丈夫と言いながら礼拝堂まで歩いて行くと、作業をしていた騎士たちがギョッとした。


「お妃様⁉ どうされたんですか⁉」

「差し入れを持ってきました」


 慌てたようにかけてきたのはトサカ団長こと、クライド副団長である。

 エルシーの手から鍋を奪おうとしたので、エルシーはさっとその手をよけつつぴしゃりという。


「汚れた手で食べ物に触ってはいけません!」


 つい修道院の子供たちに言うような口調になってしまった。

 クライドはハッと自分の手のひらを見つめて、それから急いで手を洗って戻ってくる。


「そんな細い腕でそのような重たいものを持ったら腕が折れてしまいます!」


 大げさな、と思ったけれど、重たいのは間違いなかったので、素直にクライドに鍋を預ける。


「みなさん、礼拝堂をお掃除していただきありがとうございます。簡単なものですけど食事を持ってきましたので、よろしかったらどうぞ」


 ダーナとドロレスも持って来た籠を、手を洗ってきた騎士たちに渡すと、やはり朝からずっと作業をしていてお腹がすいていたらしく、みんな作業を中断して嬉しそうに食べはじめた。


「クライド副団長も鍋を置いて、よかったらお食べください」

「今度はトサカ団長って呼ばないんですね」


 揶揄い口調で言われたので、エルシーは明後日の方向に視線を向けつつ「なんのことでしょうか」ととぼけることにした。ああ、失敗した。さすがに本人を目の前に「トサカ団長」はなかった。

 クライドはプッと吹き出して「それでは俺もいただきます」と言うと、鍋を礼拝堂から外に出した長椅子の上に置いて、食器の入った籠から深皿を取ってスープを注ぐ。一口飲んで、「うまい」と破顔した。


「これはどなたが? すごくうまいですよ」


 貴族たちの肥えた舌にはエルシーの作る食事は質素すぎるかと思ったが、ちゃんと美味しいらしいのでホッとする。

 ドロレスがにこりと微笑んで「すべてお妃様がお作りになったものですよ」と告げると、クライドをはじめ、食事を取っていた騎士たちが驚いたように顔をあげた。


「お妃様が⁉」

「本当ですか⁉」


 どうしてそんなに驚くのだろう。じろじろ見られて、まるで珍獣にでもなった気分だ。


「か……簡単なものしか、作れませんが……」

「いえ、めちゃくちゃ美味いです!」

「スープもジャガイモも最高です!」

「そ、そうですか。よかったです。……あ、まだ作り途中のものがあるので、取りに帰りますね」


 わらわらとごつい騎士たちに取り囲まれてひるんだエルシーが逃げ腰になれば、スープを飲み干し、揚げじゃがを三つほど口の中に入れたクライドが皿を置いた。


「では俺も手伝いましょう。何を運べばよろしいですか?」

「ええっと……もうすぐアップルケーキが焼き上がるので、それを……」

「アップルケーキ!」


 クライドがぱあっと顔を輝かせた。十六歳のエルシーよりも十歳も年上のクライドなのに、まるで少年のようにキラキラした笑顔だった。


「俺、好物なんです!」

「そうですか? それはよかったです」


 トサカ団長はアップルケーキが好き、と心のメモに書き記しておく。そのメモを使う日が来るかどうかはわからなかったが、一応、覚えておこう。

 クライドとともに家に戻り、オーブンを覗き込めば、アップルケーキはちょうどいい焼き加減だった。粗熱を取るためにオーブンから出し、上に軽くシナモンをかける。

 あとは人数分に切り分けるだけだが、クライドがすごく食べたそうな顔でアップルケーキを見つめていたので、先に味見程度に分けてあげることにした。


「どうぞ。まだ熱いですけど」

「いいんですか⁉」


 トサカ団長はどうやら鶏ではなく犬属性だったらしい。満面の笑みの向こうに、しっぽをブンブンと振っている大型犬の幻覚が見える。

「美味い美味い」ともぐもぐとアップルケーキを食べながら、クライドはふと思い出したように言った。


「そう言えば、陛下もお好きですよ。アップルケーキ」


 いいものをたくさん食べていそうな国王陛下は、素朴なアップルケーキがお好きらしい。しかしこの情報が必要になる日は絶対に来ないだろうと、エルシーはそちらの情報は心のメモに書き留めなかった。


(陛下に会うことなんて一生ないでしょうからねー)


 身代わりエルシーは、三か月後の里帰りまでしかここにいないだろう。国王陛下に会う機会はないだろうから、彼の好物を覚えておいても何の役にも立たない。

 ――そう判断したエルシーだったけれど、その日の夜、王太后のお茶会の招待状が届いて目を丸くすることになったのだった。



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