国王フランシスのたくらみ 2
るんるんと鼻歌を歌いながら卵を焼いていると、慌てたように階段を駆け下りてくる足音が聞こえた。
「お妃様! ですから、わたくしたちがしますと言っているじゃないですか!」
よほど慌てていたのか、ワンピースのボタンが二つほど止まっていない。髪がぴょこんと跳ねているから、身支度もほどほどに駆け下りてきたのだろう。いつもきっちりしているダーナだが、ここ数日はこういうちょっと隙のある姿を見せてくれるようになって、エルシーはそれが嬉しかったりする。
「おはよう、ダーナ」
「おはようございます――ではなくて! どうして毎朝、そんなに早起き何ですか⁉」
ダーナはしつこいぐらいに、家のことはダーナとドロレスでまかなうから、エルシーはおとなしくしておいてほしいと繰り返していた。けれども貴族令嬢であるダーナやドロレスよりも、修道院生活を送っていたエルシーの方が家事全般に慣れている。早起きも習慣なので、勝手に目が覚めるし、目が覚めるから二人が起きてくる前に仕事をするだけだ。
(何度も気にしないでって言うのに、ダーナって真面目なんだから)
正直言って、ダーナもドロレスも料理には向いていない。肉は焦がすし、野菜は茹ですぎるし、フライパンで火傷はするしで、見ていてハラハラするのだ。だからできれば、料理はエルシーに任せてほしい。
「スープはできているの。パンも温めたわ。卵を焼いたらそれで終わりよ。ドロレスは?」
「ドロレスはお妃様のベッドメイクをしていますが……多分すぐ降りてきます」
エルシーは毎朝、自分で自分のベッドを整えてしまうから、ダーナやドロレスがすることはほとんどない。ダーナの言った通り、ドロレスが頬に手を当てながらキッチンへ入ってきた。
「お妃様、わたくしたちの仕事を残しておいていただかないと困りますわ」
こちらはおっとりと苦情を言うが、スープの入った鍋を覗き込んで、すぐにぱあっと顔を輝かす。
「まあ、今日も美味しそう」
「そうじゃないでしょう、ドロレス! 本来、わたくしたちがしなければならないことよ」
わたしは焼けた卵を皿に盛りつけつつ、ダーナを振り返った。
「違うわダーナ。女官長――ジョハナ様は三人で生活なさるように言ったのよ。だから、家のことは三人でするの」
ドロレスはうんうんと頷いた。
「そうよ、ダーナ。だってよく考えてみて? わたくしとダーナが料理をしたら、何を作っても炭になっちゃうもの。お妃様に炭を食べさせるわけにはいかないでしょう?」
「そう言う問題じゃないでしょう⁉」
「そう言う問題だと思うのだけど。ほら、適材適所って言うじゃない?」
「お妃様までドロレスの肩を持たないでください! 第一、適材適所と言うのならば、わたくしやドロレスの出番は、それこそなくなってしまいます!」
ダーナもドロレスも貴族令嬢なので、料理のみならず、掃除も洗濯も慣れていない。裁縫も、刺繍はできるそうだが服を作るなんて到底不可能だ。この一週間、家のことはほぼエルシーが行っていた。
「あら、でも、掃除は少し慣れたんじゃない?」
エルシー一人に家事をさせるわけにはいかないと、ダーナもドロレスも奮闘してくれている。そのおかげか、掃除や洗濯ものの取り込みは、二人も問題なく行えるようになった。
「でも、服まで作っていただいて……」
「簡単なワンピースだもの。気にしないで。それに、袖とか襟に可愛い刺繍を入れてくれるじゃない」
そう、支給されている布から服を作ることも、基本的にエルシーが担っている。刺繍ができる二人は、出来上がったワンピースに刺繍を指してくれていて、エルシーとしてはそれがとても嬉しいのだが、二人はそれだけでは不満な様子だった。
だからなのか、最近は食後に礼拝堂の掃除に出向く際、二人も一緒についてきて手伝ってくれている。掃除した後でエルシーは祈りも捧げるのだが、ダーナたちもエルシーのうしろで一緒にお祈りしてくれるから、エルシーはそれがとても嬉しい。
出来上がった朝食をダイニングに運んで、神に感謝しながら食事を取る。せめて食器は洗うとダーナが言うので、エルシーはお言葉に甘えることにして、その間に礼拝堂に持って行く掃除道具を用意した。ドロレスも手伝ってくれる。
準備が終わると、回廊でつながれた隣の礼拝堂へ向かった。
少しひんやりする礼拝堂の中へ入れば、祭壇の奥の窓のステンドグラスからカラフルな光が差し込んでいる。
礼拝堂の中はそれほど広くはなく、木製の長椅子が六つほど置かれていて、奥には神であるグランダシルの像が建っていた。
面白いことに、このグランダシル神の像は、各地で顔立ちが異なっている。それは、グランダシル神はいろいろな姿に化けることができるとされていて、どれが本当の姿なのか誰にもわからないと言われているからだ。もちろん神様の本当の姿なの誰も拝んだことがないのだけれど、そう言う理由から、像を作った彫刻家によって顔立ちが異なる。ここの礼拝堂のグランダシル神の像は、三十前後の精悍な男性だった。
ダーナとドロレスが長椅子を拭いてくれるので、エルシーはグランダシル神の像を磨く。それが終わったら大理石の床をピカピカに磨き上げて、およそ一時間かけて礼拝堂を掃除すると、最後にグランダシル神の像の前に跪いてお祈りだ。
ダーナとドロレスも、エルシーが毎朝掃除のあとにお祈りをするからすっかり覚えて、一緒に祈りを捧げてくれる。
この国は宗教国家ではないので、神への祈りはさほど根付いていないらしく、ダーナとドロレスも礼拝堂を訪れることはほとんどなかったらしい。エルシーは強引な布教活動をしたいわけではないのだが、やはりこうして一緒にお祈りしてくれると嬉しいものがある。
掃除と祈りを終えたエルシーたちが礼拝堂から出ようとしたその時、前方から金髪を高く結わえた、派手な令嬢が歩いてくるのが見えた。ローズピンクの胸元が大きく露出しているドレスを着ている。
(まあ、なんて安産型な方かしら)
エルシーは派手な見た目よりもまず、彼女の大きな胸と尻に目が行った。
修道院で暮らすシスターは全員未婚の女性だが、院長のカリスタをはじめ数人は産婆の経験がある。昔から、近くの村や町の妊婦が出産する際に、シスターが手助けに行っていたのだ。そのため、妊婦が修道院に定期的にやってきて、カリスタやシスターに助言を求めることも多く、カリスタの側でそれを見てきたエルシーは、彼女が「安産型」という言葉を使っていたことを覚えていた。エルシーはまだ実際には産婆の手伝いをさせてもらったことはないけれど、「安産型」とは胸とおしりが大きい女性のことを言うのだと解釈している。
エルシーが足を止めると、こちらへ歩いてきていた金髪の女性も足を止めた。彼女のうしろをついてきた二人の女性――おそらく侍女だろう――とは、ダーナもドロレスも面識があるようで会釈をしている。
金髪の女性は、じろじろとエルシーを眺めて薄く笑った。
「まあ、みすぼらしい格好」
エルシーは思わず自分の着ていたものに視線を落とした。
今着ているのは、配給された布地で作ったシンプルなワンピースだった。光沢のある白地の生地だが、襟元とスカートの裾部分に、ドロレスが青い花の刺繍を刺してくれて、それがあまりに可愛かったから、エルシーはすごく気に入っている。だが、彼女が着ている派手なドレスを前にすればやはり霞んでしまうのは確かだった。
(みずぼらしいとは思わないけどね、まあ……、シンプルよね)
ダーナがそっと耳打ちしたことには、彼女はお妃様候補の中で一番右の建物に住んでいる、つまり一番位の高い候補の令嬢らしい。クラリアーナ・ブリンクリー公爵令嬢だそうだ。現国王陛下のはとこにあたるたしい。
言い方はちょっと引っかかるものがあったけれど、お貴族様なら仕方がないのかもしれない。それに、クラリアーナのドレスは確かにすごい。エルシーはシンプルなワンピースしか作れないが、クラリアーナは相当な裁縫の腕前があるのだろう。あのドレス、どうやって作るのだろうか。
「あなたでしょう? 毎朝礼拝堂を掃除しているという小賢しい妃候補は」
エルシーはきょとんとした。ここでは、礼拝堂を掃除することは「小賢しい」と言われる行為なのだろうか。
(だからみんな礼拝堂の掃除をしないのね)
ようやくほかの妃候補が誰一人として礼拝堂の掃除をしない理由がわかって、エルシーは「なるほど」と頷いた。けれど、小賢しいと言われても、こればかりはやめるつもりはない。なので、エルシーは素直に謝罪した。
「すみません。小賢しい行為だとは知らなくて。でも、礼拝堂の掃除をすることは日課ですし、女官長のジョハナ様も大丈夫だとおっしゃったので、お許しいただきたいのですけど」
エルシーがそう言い返すと、クラリアーナはキッと睨みつけてきた。
「まあ、なんて礼儀知らずなのかしら。このわたくしの許しもなく話しかけるなど」
(え? 話しかけちゃダメだったの?)
ケイフォード伯爵家で教わった淑女教育に、「許しもなく他人に話しかけてはならない」というものはなかった気がするのだが、時間がなさすぎてすべて重要なことしか伝えていないと言っていたから、省かれた中にあったのだろうか。
(気をつけないとね)
エルシーが間違った行動を取ると、あとあと入れ替わったときにセアラが苦労することになし、それが知られるとケイフォード伯爵が修道院への寄付を取り下げてしまうかもしれない。
「それで、今日の掃除は終わったのかしら。終わったならさっさと立ち去っていただきたいのだけど。わたくし、これから礼拝堂に用があるの」
(礼拝堂に用があるってことはお祈りしてくださるのかしら。クラリアーナ様っていい方ね)
そう言うことなら、邪魔にならないように退散すべきだろう。掃除もお祈りも終わったあとで、どのみち帰ろうとしていたのだから問題ない。
エルシーは頷いて、クラリアーナの脇を通り抜けようとした。
「お待ちなさい!」
しかし、立ち去ってほしいと言ったから去ろうとしたのに、クラリアーナに呼び止められる。
「わたくしを無視するとはどういうつもり⁉」
別に無視したつもりはなかったのだが、これもいけなかったのだろうか。エルシーは途方に暮れつつ、クラリアーナに向きなおって無言で頭を下げた。
そして再び歩き出そうとすると、またもやクラリアーナに呼び止められる。
何が正解かわからずダーナとドロレスを見たけれど、二人ともびっくりするくらいの無表情で、助言は得られそうもなかった。
「わたくしはブリンクリー公爵令嬢よ!」
ブリンクリー公爵令嬢とはとても偉い人らしい。しかしどうすればいいのかわからないエルシーは、彼女が望む行動が何かがわからない。
困った顔で無言を貫いていると、クラリアーナは眉をつり上げて甲高い声で怒鳴った。
「何とか言ったらどうなの⁉ なんて失礼な女なのかしら!」
今度は何も言わなかったからいけなかったようだ。しかしさっき、許しもなく話しかけるなと言われたばかりだった。まだ話しかける許しは得られていないように思うのだが、違ったのだろうか。
「……ええっと、話しかけてよろしかったんですか?」
「なんですって⁉」
「先ほど、許しなく話しかけるなとおっしゃられたので……」
それに素直に従っただけだと言えば、クラリアーナの顔に朱が差した。ふるふると肩が小刻みに震えている。
「なんて……なんて無礼な女なのかしら⁉ もういいわ‼ 行きましょう‼」
クラリアーナはヒステリーに叫んで、くるりと踵を返した。侍女二人を連れて、すたすたと礼拝堂の中へ入っていく。
クラリアーナがどうして怒ったのかがわからずにエルシーは途方に暮れたけれど、ダーナとドロレスが「帰りましょう」と言ったので、家に帰ることにした。
エルシーが使っている建物の玄関に入ると、それまで黙っていたダーナが憤然と口を開いた。
「まったく、何だったんでしょうか、あれは!」
エルシーはきょとんとした。
「どうかしたの?」
「どうかしたのじゃありませんよ! クラリアーナ様のことです!」
腹が立たなかったのかと訊かれて、エルシーはさらにきょとんとした。クラリアーナを怒らせたのはエルシーの方だ。エルシーが怒るのは筋違いではないだろうか。そんなことを思っていると、ドロレスが嘆息しながら言った。
「あの方はお妃様候補筆頭ですけど……、少々性格に難があると言いますか。あの方に付かされリリナとサリカも苦労しますわね」
リリナとサリカは、さきほどクラリアーナの側にいた侍女二人の名前らしい。侍女たちの誰がどの妃候補につかされるかは、最終的には公平にくじ引きで決まったらしい。
「でも、許しなく話しかけたわたくしが悪かったんでしょう?」
掃除道具を片づけながら言えば、ダーナとドロレスがびっくりしたように目を丸くした。
「まあお妃様、あれを信じちゃったんですか?」
「許しなく話しかけてはいけないというルールなんてありませんよ」
国王陛下や王太后相手ならば不用意に話しかけない方がいいらしいけれど、ここにいる妃候補たちは住まい分けはあるけれど、一応「平等」扱いだそうだ。身分が下だからと言って話しかけてはならないルールはないらしい。
「ふふ、でも、だからあのようなことをおっしゃったんですね。わたくし、お妃様が痛烈な厭味を言ったのかと思って、少しハラハラしてしまいましたわ」
「そうね。……でも、あれはちょっと、すっきりしたわね」
ドロレスが小さく笑うと、ダーナも頷いて口角をあげる。
そのままドロレスとダーナがくすくすと笑いだしたけれど、エルシーはなんのことかさっぱりわからず、首を傾げる。
(よくわからないけど、わたしは間違いは犯さなかったのね?)
ひとまず、それだけわかれば十分だろう。
エルシーは掃除道具を片付け終わると、選択に取りかかろうと裏庭へ向かった。
ダーナとドロレスも手伝おうとしてくれたけれど、これはエルシーの趣味のようなものなので丁重に断って、かわりに、昨晩仕上がったばかりの紺地のワンピースの刺繍をお願いする。
ダーナとドロレスは、生地だけよこして自分で服を作れと言われることが不満で仕方がないようだが、びっくりするほど上等な生地がたくさん用意されているのだ。エルシーは楽しくなって、あいている時間のすべてを服飾に宛てている。
クラリアーナが着ていたような豪華なドレスは作れないけれど、いくつかの着替えができたら、少し凝ったデザインにもチャレンジしてみたい。
井戸から水を汲んでたらいに移しながら、エルシーは身代わりになれと言われた時はどうしようかと思ったけれど、意外にもここでの暮らしは悪くないなと思っていた――のだが。
エルシーに衝撃が走るのは、翌朝のことだった。
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