宿花

@shibachu

 

「恋占いだってできるのよ」

 桜色の唇を綻ばせた彼女が取り出したカードの束には、美麗な妖精の姿が淡い色彩で描かれていた。

「へえ、そうなんだ」

 アシンメトリーな僕の声は無機質だった。ずきりと心臓が揺れたのは、彼女の口から零れた言葉の響きのせいなのか、ふわりと華やいだ笑顔が記憶の中の彼女と寸毫も変わらずにいたからなのか。何にせよ、声を震わせることなく返せたのは上出来だと思う。いや、少し無愛想過ぎただろうか。

 彼女は気にした様子もなく、鼻歌を奏でながらピンクのラナンキュラスが活けられた一輪挿しの水を替え始めた。肩の高さで切り揃えた髪は瑞々しく、黒いシャツの袖からしなやかに伸びる白い腕が眩しい。彼女が一輪挿しをカウンターに戻すと、うなだれていた花冠は顔を上げ、花弁は艶を増した。

 ぬるくなったコーヒーをすすりながら、僕の口は言葉を探していた。

「お店は順調?」

「んー。まあまあかな」

 僕の目はひたひたと店内を彷徨う。天井から吊り下がったシェードから控えめに零れるランプの光。奥の壁一面にサイケデリックな色調で描かれた花たち。お酒を呑めない彼女の背後に並んでいる、色とりどりの洋酒の瓶。黒塗りのカウンター席には椅子が四脚。小さなバーを間借りした空間は、僕と彼女の二人だけ。

「このお店のオーナーがね、友達なの」

「へえ、そうなんだ」

 今度の声は硬質だった。漬物石のような唾をどうにか飲み込む。その友達は男女どちらだろうか。視線が彼女の左手を探った。指輪は、ない。

「いい色でしょ」

 彼女が誇らしげに手の甲を見せつける。ランプの朧な灯りを浴びた指先が濡れたように光っていた。

「ピンクパールの色だね。綺麗だ」

「でしょう?」

 マニキュアを塗った爪を眺めつつ、彼女は柔らかに笑う。僕の声も弾んだものに変わっていた。

「せっかくだから、何か占ってもらおうかな」

「あ、付き合ってくれる? ありがと」

 真珠色の指先が黒塗りのカウンターの上をなぞり、そろりとカードに触れる。光り輝く杖が描かれた裏面を人差し指で数回ノックし、彼女はそれを恭しく掲げた。

「まず、どんなことについて知りたいのか聞かせて」

「うーん。おまかせします」

「もうっ! 何よそれ」

「じゃあ明日の天気とか」

「スマホで調べて」

 はあ、とわざとらしい溜息をついたあと、諭すように彼女は言う。

「オラクルカードリーディングっていうのはね、カードからのメッセージを、受け取る人にイメージを作る準備ができていないと駄目なの。カードに聞きたいことを、カードを選ぶ前に頭の中に思い浮かべておくの」

「聞きたいことかあ」

 別に占いを信じているわけじゃない。会話を続けられるなら何でもよかった。聞きたいこと、そんなものは決まっている。今、付き合ってる人はいるの? デートを申し込んだら、君は受け入れてくれる? あの時みたいに、傷つけたりはしない?

 それらの言葉を、僕の咽喉は胸の奥へと押し込めた。瞼に映るのは、腰まで届く長い髪をした彼女の困り顔。

「昔、ちょっとあって顔を合わせづらい友達がいるんだけどさ」

 用心深い舌が彼女の顔色を探る。彼女は合わせ鏡の眼差しで相槌を打った。

「また仲良くできるかな?」

 カードに目を落とした彼女の唇は微かに笑みを象った。

「友達だったなら、そんな気にすることないんじゃない?」

「いやまあ、そうかもしれないけど」

「聞きたいことはそれでいいのね?」

 白い手がゆっくりとシャッフルを始めた。

「じゃあ、その友達のことを思い浮かべてみて」

「思い浮かべた」

 シャッフルを続ける彼女を真っ直ぐに見据える。彼女から発せられると、カードを切る音ですら極上の調べとなって耳に沁みた。

「ここ! って思ったタイミングでストップをかけて」

「ストップ」

 反射的に言葉が飛び出した。刹那、ぴたりと時間が止まる。彼女はゆっくりと魔法を解くようにカードを扇状に広げた。

「じゃあ、この中から好きなカードを選んで」

「一番上を」

 真珠の指が扇の端をトントンと二度叩いてから一枚目のカードを表に返した。緑の濃い森の中、蜻蛉の羽根を生やした少女が草木の装いで着飾って遊んでいる。絵の上部には「Summer」と書かれていた。

「夏。あなたの求めているものはすべて、夏には手に入るでしょう」

 厳かに告げる麗しき預言者。

「いい意味に思えるけど。順調にいくってことかな?」

「それはあなた次第。夏って聞いて、何か連想できた? あるいはイラストからインスピレーションを得たりしない?」

 夏、夏、夏。春に続いてやって来る季節。軀の裡を真っ赤に灼く熱。草いきれのこもる森の中から、あどけない妖精が僕を見つめている。春の名残りを感じさせる瞳は、どこか見覚えのある気がした。

「朱夏、かな」

「しゅか?」

 僕が頷くと、彼女は両手で髪をかき上げた。

「聞いたことないなあ。どういう意味の言葉?」

「朱い夏。朱色の朱に夏で、朱夏って書くんだけど。ほら、青春ってあるじゃない。青い春の」

「うん」

「青春も朱夏も元々は中国の思想から来た言葉で、人間の一生を四季になぞらえたものなんだ。まだ若い成長期を春、働き盛りの夏、成熟期の秋、老年期の冬、っていう風に」

「へええ」

「今の世の中、青春だけが有名で貴重なものとして扱われがちだけど」

「そうね。青春、って聞くとかけがえのないものって感じるわ」

「我々、残念ながらもう青春期は過ぎちゃったじゃない」

 何が可笑しかったのか、彼女はお腹を抱えて笑い出した。

「そんな面白いこと言ったっけ?」

「ごめん、ごめん。いや最近ね、もう若くないなと実感することが多くて」

「いやいや。十分若々しいと思いますけど」

「さっき若い時期は終わったみたいに言われたんですけど。で、その朱夏? 夏っていうメッセージをどういう風に受け取ったの?」

「うーん。ぱっと頭にその言葉が浮かんだだけで、深い意味は考えてない」

 僕の手がカップに伸びて、すっかり冷えた琥珀の液を運んできた。最後の一口を呷った舌が紡ぐ。

「ただまあ、人生まだ先があるんだし、秋が来るまでは焦らなくてもいいのかな、と」

 彼女は口を窄めて、その言葉を凝視しているようだった。

「じじいになるまでは」

 くすり、と笑った彼女は「気が長いのね」と髪をかき上げた。ピアスの青い石が耳朶で揺れている。

「その友達も、仲直りの機会を待ってるかもよ?」

「だといいんだけど」 

 僕の口も小さな笑みを象ったけれど、彼女の容とは少し違う気がしていた。僕と彼女のあいだには、いったいどれだけの空気が詰まっているのだろう。

「コーヒー、もう一杯もらえる? ホットで」

「はーい。ありがとうございます」

 暖簾を掻き分けて奥の厨房へと消える後ろ姿を見送る。一瞬だけ、彼女の髪が長くなったように視えた。

 僕は知っていた。過ぎた春に熾った火は、まだ胸の奥で燻り続けている。朱夏の焔は青春よりも激しく燃え盛ることを予感させた。


                  (了)

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