はつ恋

ぺんさん

はつ恋

 僕は誰かに甘えるのがきっと生まれつき苦手で、幼いころから周りの大人に涼介はかわいくない子供だとよく言われた。

 弟の敦は誰にでも好かれる性格であるのに対し、僕は誰にも好かれず、もちろん友人もおらず、いつもひとりぼっちだった。

 自然、そんな僕の居場所はいつも本のある場所に偏っていった。本の中での僕はひたすら自由で、騎士にも魔法使いにも、冒険家にも詩人にも、なんなら傾国の美女にだって王子を待ち焦がれる姫にだってなれた。世界中、いや、未来にも過去にも宇宙にも意識を飛ばせたし、そこで見聞きしたことは実際の世界で起こることの何倍も素晴らしいと僕は信じていた。

 寂しいと思うことはとても少ないけれども確かにあった。敦のように家族の中心になれたらと思うこともあった。みんなの太陽みたいな弟のようには絶対になれないことに苛ついて、まだ小さい弟の頬をつねって泣かせてしまって母に怒られたとき、ただただ空しく、まるでもうひとりの自分が上からそれを眺めているような感覚に捕らわれた。それから僕は離人感を友人にしている。僕と彼は、本の中でだけ一体になれた。

 中学に入学しても僕は図書室に入り浸った。むしろそこだけが僕の居場所だった。

 どこにいても息苦しい学校で、本たちの独特の匂いのする静謐なその部屋でだけ、僕は深呼吸をすることが出来たんだ。

 水深の浅いところへ急に上がって来た深海魚が生きてはいられないみたいに、僕に教室の空気は飲み込めない。目が飛び出る。胃が裏返る。

 小学校の図書室と違い、中学校の図書室はまるでそこにない部屋のように閑散としていた。ハリーポッターに出て来る秘密の部屋みたいに、必要とする人間にしかきっとその部屋は見えないのだと僕は思った。

 たまに授業で訪れる図書室は、普段僕がいる図書室とは全く別の空間だった。秘密の部屋と同じように、この部屋は用途に応じて中身を変えるんだ。

 たくさんの生徒が思い思いの場所で本を選び、席に着いている生徒たちが先生に怒られないように雑談をし、そんなみんなの笑いさざめく声が部屋中を埋め尽くして僕は大変居心地が悪い。ふと気がつくと僕は上から僕を見下ろしていて、文字の上を滑るだけの視線をしきりに動かし、機械的にページをめくるだけの僕を哀れにも思いつつ笑いを堪えられない。

 隣の生徒が気味悪そうに僕から離れていく。

 僕はひとりだ。僕はひとりでいい。



中学二年になってしばらくしたころ、僕の図書室に新しいメンバーが現れた。

 司書の先生と僕、たまに他の誰かしかいなかった部屋を新しく埋めたのは、不思議と本の匂いに馴染んで僕を不快にさせない男子生徒で、制服のネクタイの色を見る限りは一学年上の三年生だった。ちなみに今の一年は青いネクタイ、今の三年は緑色のネクタイ、僕の学年はえんじ色のネクタイを卒業まで使う。ひと目で学年が分かるのは良し悪しだが、そういう決まりなのだから仕方がない。

 緑色のネクタイの彼は初めこそ入り口そばの、僕から一番遠い席に座っていたが、二週間もしないうちに僕のすぐ隣の机まで近寄って来ていた。

 それに彼はどうやったのか、あっというまに司書の先生の信頼を勝ち取り、たまにはカウンターの中で僕よりもまだこの部屋の主のような顔をして座っていたりもする。先生が不在のときにはいろいろと任されたりもしているらしく、僕が彼に本を借りる手続きをしてもらうことも多々あるようになった。

 四月の終わりに彼が現れ、五月にはカウンターの主となり、そして六月。僕の斜め向かいの席が彼の居場所になったころ、必要最低限しか言葉を交わして来なかった僕らが少しだけ仲良くなる。

「ねえ、君」

 斜め向かいの席の彼が、誰もいない図書室なのになお誰かから秘めるように声をかけてきた。

「君って毎日ここに来てるね」

「あなたも毎日いますね」

「君、二年だろう?」

「そうです」

 声変わりの終わりかけのざらざらとしたその声は、不思議と僕の心を引っ掻かない。僕は素っ気なく答えながら、そのよく動く薄いけれども形の良い口唇を眺めていた。ざらざらとしているのにむしろどこか甘くも聞こえるその声は心地良いとすら言えた。黒い髪は少し長く、整えられた眉、切れ長の奥二重の目、色は白いのに少しだけ荒れた肌はいかにも年ごろの男子らしい。

 三か月も同じ空間にいて、初めて彼の顔をしっかり見たな、とぼんやりした感慨に耽っていると、

「君は、誰?」

 などと、人生の根本に触れるような質問をされて驚く。

「哲学ですか?」

「ううん、君の名前が知りたいだけだよ」

 不機嫌そうに聞き返した自分が馬鹿みたいに、彼がふっと悪気なく笑う。笑顔はいたずらだけれど嫌味がない。

「先に名乗ってもらえますか。すみませんが、気に食わない」

「僕は宥」

 よろしく、と握手を求めて手を伸ばしてくる彼に逆らえず、僕はペンを置いてその手を握り返した。不遜な物言いをした手前、簡単に笑顔は見せられない。まだ警戒を解いていないことを表わすような表情で彼の目を見た。白目の部分が子供のように薄青く、光を帯びてきらきらとしている。

「僕は、涼介」

「そう、涼介。僕たちきっと上手くやれるね」

 ぎゅっと僕の手を再度、宥が強く握る。その手は今まで見て来たどんな手よりも美しく、そしてひんやりしていた。



 とはいえ僕がそんなに簡単に打ち解けることが出来るはずもなく、大体は宥の方から話しかけてきてくれた。図書室に通う僕を、いつも僕の向かいの席で迎えてくれる彼の笑顔を見るのが、いつのまにか楽しみにすらなってきている自分に気づいたとき、僕は酷く動揺した。

「やあ、涼介。来たね」

「涼介、待ってたよ」

「涼介、見せたい本があるんだ」

 彼のひと言めには必ず僕の名前が入っている。図書室に他の誰がいても、僕と宥はふたりでひとつの卵に入っているように一緒にいて、本を読み、感想を言い合って、あれだけ仏頂面を貫くつもりでいたのに僕は、一か月も経たないうちに彼に笑顔すら見せた。

 彼はいつも飄々として自由で、孤独を愛するところだけは僕と似ているけれども、本来は全く違う生きものだった。一番の違いは、彼はその気になれば誰の懐にでも入り込める力を持っていること。彼は大人相手にそれをやってのけ、どんどん自分のやりやすいように彼らを操っていった。もしかしたら僕も操られているうちのひとりなのかも知れないけれど、彼はそんなことを相手に気づかせるほどまずいやり方はしない。

 宥は四月に転校してきたのだと彼から聞いた。道理で今まで図書室で見かけたことがなかったはずだ。

 そして宥はそのどうにも目立ってしまう見た目のせいで、女子からとても人気があるらしい。これは彼から聞いたことではなく、彼が放課後は図書室にいるらしいとどこかで聞いて、釣られて図書室にやって来る女生徒が馬鹿みたいに多いことから分かる。僕だけが主だったころは女生徒なんて数えるほども来なかったのに、宥が来てからは少し騒がしくなった。僕らがひとつの卵に入っているのに気づいた女生徒たちは次第にここを訪れなくなったが、それでもしつこい子たちが数人はいて、ローテーションを組んで僕らを見張っているようだった。

 僕はその音を望まないし、それは彼にしても同じで、彼は僕の知らないところで彼女たちへ警告を行ったようだ。その様子を僕は知る由もないが、今では本以外を目当てに僕らの場所を汚す輩がゼロになったことを考えると、かなりキツい警告をしたんだと思う。

 宥が来てから僕はますます図書室へ入り浸り、ますます世界から孤立した。

 それでも僕は満足だった。離人感という友人は僕が図書室以外にいるとき……いや、宥といるとき以外に現れるだけになった。

 宥といると、僕は僕に戻っている。上から僕を見下ろしたりしていない。哲学ではなく、実際的な意味で宥といるとき僕は僕だった。

 七月、本格的な夏が来るころ、僕らは正しく友人だった。僕は一学年上の宥を呼び捨てにし、彼もそれを歓迎している様子だった。僕らは学校の図書室を飛び出し、週末には地域の図書館を巡ったりもするようになった。スマホの番号やなにかを交換しなくても、SNSの情報を知らなくても、僕らは毎日図書館で会って放課後を過ごし、週末の約束をした。僕らは下らない愚痴をツイートしないし、今日飲んだコーヒーをインスタにアップすることもしない。

「ねえ、宥。僕たちはスマホの番号も交換していないね」

 図書室はいつでも空調が効いていて涼しい。今日の僕は少年たちの冒険譚を読んでいた。心躍るような冒険を、本物の冒険など一度もしたことのない僕は好んで読んだ。

「そうだね、涼介。でもそれは僕らにとって問題かな」

 今日の彼は難しい課題をしているらしくずっとしかめっ面だったけれど、僕が話しかけると柔らかい表情でこちらを向いて丁寧に答えてくれる。

 僕は彼の大きな目に見惚れる。どちらかと言うと黒目は小さめで三白眼気味なのが、さらに白目の薄青さを目立たせていて美しい。僕も切れ長と評されることのある目をしているが、彼を見ると同じように表現されるのが恥ずかしくさえ思えることがある。

「問題なんてないよ、ただ少し不思議なだけ」

「僕らは毎日会って話しているのに、これ以上の言葉は邪魔なだけだろ。僕は嫌いなんだよ、メッセージアプリなんかの無機質な言葉がね」

 それもそうだと僕は頷いた。

 本にある言葉だって同じ文字には違いないのに、なぜメッセージアプリを通すとあんなに感情のない言葉になってしまうのだろう。家族への連絡にしか使ったことはないけれど、あの無機質というにふさわしい、感情のない言葉の羅列は宥にはとても似つかわしくない。彼にはもっと表情豊かな方法を以て言葉を伝えて欲しい。そう、今の彼特有のざらざらした声がいい。

「そんなものがなくても僕らはずっと一緒にいられるんだ。言葉を交わしているあいだだけが一緒にいる時間というわけじゃないよ」

「そうだね、宥」

 僕は安心して物語の続きに没頭する。

「Twenty-four seven」

「えっ?」

 しばらく経って、突然な宥の美しい発音に僕は本から視線を上げた。

「ずっと、とか24時間365日っていう意味だね。僕はこの言い回しが好きなんだ」

 ちらり、白い歯をのぞかせて笑ういたずらな顔が、僕は好きだ。

「数字でこう書くんだ、知ってる?」

『24/7』

 宥の筆圧の弱い字が、彼の課題のノートの隅に僕から読める向きにさらさらと踊る。

「ねえ、他にも好きな言葉はあるの?」

 僕は俄然興味をそそられ、彼のノートを指でとんとんとたたいた。他にも書いてみて、と催促するように。

 宥はほんの少し考えて、やはり僕の向きに言葉を書き連ねていく。

『Beauty』『Irony』『Cherish』

 決して皮肉屋ではない彼の好きな言葉に『Irony』が入っているとなんだかおかしくて、僕はふふ、と笑った。

「他には? 他にはなにかある?」

 まだまだもっと、と幼女のようにねだる僕を宥がちらりと見て、もうひとつ単語を書き足す。


『Ryosuke』


 流れるように書かれる自分の名前に僕は、僅かに頬を染めた。彼の書く字は美しい絵画のように僕を魅了した。

「それは、僕の名前だ」

「そうだよ、君の名前だ」

 嬉しいけれども気恥ずかしく、彼の書いた僕の名前から目線を上げられない。宥はきっと僕の反応を見ているんだろう。

 しばらくそうして俯いていると、

「涼介の好きな言葉は?」

 宥が僕に彼のノートとペンを向ける。僕はそれを受け取ってしばらく考える。これだけずっと文字に囲まれ言葉と接してきたはずなのに、自分の好きな言葉なんて今まで考えたこともなかった。僕は頭の中の辞書を一生懸命に走り回る。僕の好きな言葉、僕の好きな言葉……。

『Brother』

 僕は不思議と最初にそんな単語を書き記していた。当然のようにたったひとりの弟のことが思い出される。太陽のような弟、月のような兄。僕は弟の光を受けて、ほんの少しだけ夜に輝く。誰かを癒すことも出来ない冷たい光を放つ。

『Treasure』

 それからこんな言葉も、彼から読めるように逆さに書き込む。

 宝物、その中身がなにかはまだわからないけれど、宝物という言葉はとても素敵にきらきらしている。僕はこれから宝物を探して生きて行きたい。たくさん集めて宝箱に詰めて、戦利品を眺めては夜な夜なラム酒を傾ける海賊船の船長のように生きよう。

 僕の中からこんなに素敵な言葉が出て来るなんて思いもしなかった。宥はにこにこと僕を見ていた。

「まだ、あるよね?」

 さっきの僕のように、宥がノートを指でとんとんとたたく。僕は思い切りもったいぶって、上手くもない飾り文字風に、最後の単語を書き連ねる。


『Yu』


 満足げに笑う宥が、僕の真似をして言った。

「それは、僕の名前だね」

「そうだよ、君の名前だよ」

 僕も彼の真似をして返した。

 今日は司書の先生も他の生徒もいない。邪魔するものはなにもない。

 窓から夕暮れの光が差し込むころ、僕らは僕らしかいないこの閉ざされた箱舟の中で、静かに見つめ合い、くすくすとさざ波のように笑い合った。



「涼介はヘッセを読んだことがある?」

 八月、学校の図書室が開いていないその日も僕らは僕らに合う本を探して、市立図書館内を手がかりを探す探偵のようにうろうろとしていた。

 僕はいろんな本を読んで来たけれど、洋書の、しかも古典にはあまり手をつけたことがなく、ヘッセについては詩人であることくらいしか知らない。素直に読んだことはないと言うと、彼は突然、いつものざらざらとした不思議に甘い声で、詩の一節を小声で諳んじ始めた。


「あなたは私の暗闇の中にそれと隠された星

 あなたは愛をもって私の生命に

 甘い核心の真ん中にいることを思い知らせる」


 余韻を残して終わった朗読に感動して、腕には鳥肌が立った。ほんの僅かな部分だけでも、こんなに情感が伝わることがあるのか。これはヘッセだけの力でなく、宥の読む力もきっと働いているに違いない。彼の表情豊かなあの声は、僕の心を教会の鐘になったかと錯覚させてしまうほどに打ち鳴らす。

 思わず僕は拍手をした。宥が僕の手を咄嗟に押さえる。ひとりの拍手の微かな音は図書室の高くない天井に吸い込まれてすぐに消えたが、周りの人間がちらりとこちらを見た。

「どうだい?」

 得意げにするでもなく尋ねてくる宥に僕は、

「……すごく、いいね」

 それだけしか言えずにもどかしい思いをした。宥はまた本探しに戻り、僕から顔を背ける。

「……君にはこの詩がすごく似合うと思って、少しだけど覚えたんだ」

 誰かのために詩を覚えるなんて、映画でしか見たことがない。ハードカバーの本の背をそっとなぞる彼の人差し指の先が小さく震えている。それを見た僕の胸は言葉にならない感情に満たされた。

 僕はこの感情を表わす言葉を知らない。どの本にそれが書いてあるのか見当もつかない。きっとどの辞書にもないのだろう。ヘッセの詩にはこの感情にぴったりの言葉が綴られているだろうか。

「宥」

 僕が呼んでも、彼は振り向いてくれなかった。

「宥、ありがとう」

 やっと宥が振り向いて、僕は彼が顔を背けたかった理由を悟る。彼の白く荒れた頬は、薄く薄く水に溶いた朱色を刷毛で刷いたように少しだけ赤くなっていた。

 いつも感情の起伏の薄い彼がこんな顔をしているなんて。

 その原因が僕だなんて。

 僕がこんな顔をさせているだなんて。

 僕は思わず胸元を押さえた。確かにそこになにかが生まれていた。心臓の鼓動は激しく打って、僕の手のひらをたたく。

「なにか、涼介に贈ることが出来たらと思ったんだけど……僕に出来ることはこれくらいしかないから」

「とっても嬉しいよ、宥」

「いつか、君に手紙を書くよ。そのときはこの詩を添える」

 宥がいつものようにいたずらに笑った。僕はその手紙をもらえる日を心待ちにし始めた。

「僕になにかお返し出来ることはある?」

「君が、君でいてくれれば、それで」

 ひと言ひと言、ゆっくりと区切って、僕を説得するように宥が言うので、

「ずるいや……」

 僕はそんな間抜けな反応しか出来ない。

「じゃあ、君にこの本を読んで欲しい」

 すっと差し出された本を受け取ると、その本から一枚のカードがひらりと落ちた。屈んでそれを拾う前に宥を見ると、彼は薄く微笑みながら僕を見ている。なるほど、このカードは彼の仕業か。

 二つに畳まれた名刺大のカードを拾う。飾り気のない薄いブルーのそれを開くと、絵画のように優雅な宥の文字でメッセージが刻まれている。


『月夜の散歩のお誘い

 本日19時、校門前にて』


 たった二行の簡素なメッセージだったが、僕の心をぐっと掴んで離さない。

「月夜の散歩?」

 上目遣いに彼に尋ねると、彼は少しはにかんで頷いた。

「涼介と過ごしたいんだ、月の輝く夜を。ちょうど今日は満月だ」

 このカードを渡すタイミングを今日の宥がずっと見計らっていたのかと思うと、胸の奥がうずうずとする。本を探しながら、詩を朗読しながら、このカードを僕に渡そうとしていた彼の健気な心がかわいらしくていじらしくて。

「行くよ、七時だね」

 僕はそのカードを畳んで胸ポケットに入れた。そのカードの居場所は、僕のハートに近いほど相応しいと思った。

 僕らはそれからしばらくまた本を探してうろうろとした。けれどさっきよりもずっと、漂う空気が不思議に甘い気がした。



 バックパックを左肩に担いで玄関を出ようとしたところを、弟の敦に呼び止められて僕は焦った。

「兄さん、どこ行くの?」

「学校」

 素っ気なく答えると、敦は「そう……」と悲しげに視線を下げる。僕はなにか悪いことをしている気になり、開けかけたドアを閉めて彼に向き合う。

「どうしたの、敦」

 僕の好きな言葉、『Brother』。それは敦のことだ。小さいころは敦が酷く妬ましいこともあったが、今は守るべき存在だと思っているし、大切な存在だとも感じている。それをはっきり自覚出来たのは、宥と言葉遊びをしてからだった。

「最近、兄さんは家にいないことが多いから」

「夜はいるじゃないか」

「本ばかり読んで、家族と話もしないのに?」

 両親は本に溺れる僕を止めることはしなかった。成績だって悪くないし、問題を起こすわけでもない僕を咎める理由はないだろう。それにあの人たちは、僕への興味が元々薄い。夕食のあと無言で自室に閉じこもっても、誰もなにも言わない。そう、敦以外は。

「話すことがないからだよ」

「なんでも話してよ、友達の話だっていい」

「時間に遅れるから行くよ」

 バックパックを背中にしっかり背負い直し、僕は玄関のドアを開ける。

「……気をつけてね」

 敦の低い声が僕の鼓膜を打った。

 けれど僕は行かなくては。宥の待つ場所に行かなくては。

 蒸し暑い夜を初めは歩き、やがて早歩きに、そして僕は駆け出した。粘つく空気が肌に張りつき、喉に張りついて息が苦しい。スニーカーへの衝撃、膝への衝撃、心臓への衝撃、頭への衝撃。なにかから逃げるように僕は走り続けた。学校まで歩いて十五分の距離を、全力で走って走り抜いた。

 とにかく僕は時間よりも早く校門前に着いて、膝に手を置いて吐きそうなほど激しい呼吸をなんとか収めようとする。宥が来るまでに汗が引けばいい。逃げて逃げてここに着いたことを彼に知られたくはなかった。

 僕がぜいぜいと屈んだまま背中を上下させていると、その背中をポンとたたかれ死ぬほど驚いた。

「やあ、汗だくだね、涼介」

 振り返ると宥が月の光を浴びて立っていた。微かな笑みを赤い口唇に刷いた彼の、僕よりも色素の薄い目が月光を帯び、まるで夜の空をそのまま取り込んだように青く光る。

「宥。僕は、間に合った?」

 時間には間に合っている。だが僕は確かめたかった。彼の月夜の散歩に自分が果たして参加資格があるのかどうか。

 彼はまだ息を切らしている僕の手を、彼のひんやりした手でそっと取り上げ、ただただ上品に微笑んだ。

「図書室の鍵もあるんだ、早く行こう。ここは暑い……だろ?」

 僕の汗のことを指しているんだろう、彼の問いに僕は少し赤面してしまう。もう少しマシな自分でここにいたかったというのに。

「夜の学校に入るの?」

「僕たちに相応しいと思わないか」

「うん、素敵だ」

 宥が僕の手を握ったままで歩き出す。汗をかいた手のひらは少し恥ずかしいけれど、宥が平気にしているから僕も気にしないことにした。彼の美しい手を頭に思い描きながら、その手を握る僕の手に力が入る。いつだってひんやりしている彼の手にも力が入る。

 僕らは共犯者だ。月夜の共犯者。

 校門からは中に入らず、外周を回ってプールのフェンスの壊れたところから忍び込む。なにがぶつかったのか、へこんで低くなっているフェンスを難なく乗り越える宥に続いて、僕も何気ない顔で乗り越えようとして、運動に関して鈍い僕は思い切りよくこけた。その勢いでプールサイドに宥を押し倒してしまう。

 乾いたコンクリートに手を突いた僕、その手の横に宥の呆けた顔、彼の目に映る月のかけらと僕。

 僕はみっともないほどうろたえてしまい、フェンスに引っかかった足をなんとか取り戻してすぐに彼の視線を避けた。彼はまだコンクリートの上に寝たまま、

「はは、はははは!」

 心底おかしそうに笑う白い頬に月が宿る。スッと彼の腕が月を掴むように持ち上がる。

「起きるのを助けてよ、涼介」

 言われてやっと、僕は彼を助け起こさねばならないことに気づいた。彼の腕は月ではなく僕の腕にしっかり絡められた。よいしょと引き起こすとまるで重さなどないようにふわりと彼は立ち上がった。そしてそっと彼は僕の頬に触れた。

「ありがとう、涼介」

 艶めく口唇から目が離せない。あの口唇の感触を知りたい。

 彼の名前を呼ぼうと僕が口を開いたときには、彼はもうくるりと向こうを向いていた。ゆっくりと歩き出す背中に呼びかける勇気もなく、僕はその背中を追って歩き出す。乾いたコンクリートのプールサイド、きらきらと水面が輝き、僕らはなにか別の空間に踏み出しているような気がした。

 校内に入ると月の光の届かないところも多く、宥がここを開けようと、校舎に入れる扉を指したときもその扉は地獄に通じているのではないかと思えるほどにおどろおどろしく見えた。

「ここの鍵も持ってるの?」

 まさかと思いつつ聞いてみると、彼はポケットから針金を二本取り出して僕に見せる。

「それで開けるの?」

 まさかを超えていた。

「こんなのも楽しいじゃないか」

 鍵穴にそれを差し込み器用に動かす彼の横顔が美しい。彼特有のいたずらな顔はいつまで見ていても飽きない。がちゃり、とそれらしい音がして彼が嬉しげに振り向いたときも、僕は彼の横顔しか見ていなかった。急に目が合い勝手に驚く僕に、彼は器用にウインクして見せ、

「僕らの城へようこそ」

 そう言って仰々しく扉を開いた。

 真っ暗な廊下を、スマートフォンのライトと窓から差し込む月明かりを頼りに歩いて行く。

「僕らの図書室へ行こう。窓が多いから月もよく見えるよ」

「宥、君はたびたびこんなことをしてるわけじゃないよね?」

「なに言ってるんだい、涼介。そんなわけないだろ」

 妙に手慣れて思えた手順を不思議に思った僕が尋ねるが、宥は肩をすくめて少し笑っただけだった。

 四階にある図書室まで階段を上るとき、宥がスマートフォンを持っていない方の手を僕に差し出してきた。指先が意味ありげに動き、僕はこの手に掴まれという意味だと悟る。プールまではつないでいた手を再び重ね、僕らはほとんど手探りで階段を上った。それでも、彼の温度があるから怖くはない。僕はむしろわくわくして、彼の少し後ろを跳ねるように上る。

 この瞬間が永遠でもいい。ずっと同じ階段を上り続けるのでも、宥が先を照らしてくれるならそれでいいとさえ思った。

 僕らはやがて図書室に到着し、宥が持っていた鍵で扉を開けてくれた。

 がらりと引き戸を開けて中へ入ると、そこは一切が青白く染まった別の世界だった。およそこの世のものとは思えないその光景は、たくさんある窓から入り込む月光によって作り出されていた。

 本棚に収まったたくさんの本たちが、光を受けてきらきらと自己主張している。入り口から動かずに見惚れている僕の背中を、宥が軽くたたいた。

「涼介、入ろう」

 彼の甘くざらざらとした声に誘われ、僕は一歩を踏み出した。

 宥は僕より先をすたすたと歩き、窓際の低い本棚に足をかけると、ひょいとその上に上がって座ってしまった。月が窓の向こうから彼の白い肌を照らし、彼はこの世の全てを嘲るような表情で窓の外を見下ろし、それから恋焦がれるようなまなざしで月を見上げた。少し長い前髪が影を作り、彼の切れ長の目をさらに意味深に見せる。

 しばらくそうして月の光を浴びていた宥が、やっと僕に振り向いた。彼の心は月が持って行ったみたいに、僕に向けた顔は無表情に見えた。

 だけど、にこり。突然君がそんなふうに笑うから。

 僕はきっと、月を眺める宥のように、恋い焦がれる瞳で彼を見ていただろう。彼の子供のように無垢な笑顔を、手を伸ばしても僕には手に入らないそれを、恋うても恋うても遠くにしか見えないそれを、必死の目で見つめていただろう。

「涼介もここに座るといい」

「本棚に上がるの?」

「僕も上がってるだろ?」

 くすくすと肩を揺らして笑う彼が、僕へと手を伸ばした。それは、宥の『場所』へ、僕を引き上げてくれる救いの手だった。

 そっと近寄りその手を握る。本棚に足をかける僕を、宥がぐっと持ち上げてくれる。プールのフェンスで転んだ僕でも、宥の手助けで彼の『場所』へと軽く上がれた。

 とはいえ本棚に上るのは初めてのことで、僕は言い知れぬ背徳感を妙に心地よく感じていた。

 本来は禁忌の場所で、膝を軽く抱えた僕らは見つめ合う。

「ねえ、涼介」

 宥が口を開く。僕は視線だけで返事をした。

「もしも今日で全てが終わってしまうなら、どんなにかいいだろうね」

「……どういうこと?」

「世界が今終わればいいって、本当に思ったんだ。君といる今」

 僕は戸惑い、窓の外、夜の闇に答えを探した。宥は僕の視線の先を探り、そして僕と同じに闇の中を彷徨っている。

 今世界が終わったら……それは、この瞬間が永遠ならと思うことと、どう違うのだろうか。宥と上る階段がずっと続けばいいと願った僕と、今全てが終わればいいと願う宥に、どれだけの差があるのだろうか。

「宥、僕は明日も君に会いたい。全部終わってしまうのは寂しいよ」

 宥は左手で僕の右手をそっと握り、本棚の上に両膝立ちになる。彼の身体が傾ぎ、あっと思うよりも先に僕らの口唇は触れ合い、彼の吐息を意識するよりも先に冷えた口唇は離れていった。

 一瞬なにが起こったのかわからずにいる僕に宥はとても美しいものでも見たように嬉しげに微笑み、彼の右親指が僕の口唇を拭う。

「宥……?」

「僕らの世界はここで終わるんだ、それで永遠になる」

 僕の初めてのくちづけは、古いインクの香り、積もった埃の匂い、冷えた月の光みたいな彼の薫りと共に胸の宝箱にしまい込まれた。

 手をつないで図書室を出て、廊下で宥から二度目のくちづけを受けた。

 これからの人生、誰かと幾度も繰り返すだろうこの行為の中で、一番清浄で神聖なそれが宥とのくちづけだろう。今、僕らにしか出来ないそれが、無駄に僕らの胸を締めつけた。

 別れ際、

「次はいつ会おう? 市の図書館に明日?」

 そう言った僕に宥は透明に笑った。

「そうだね」

 それから二度と僕の前に現れることはなかった。

 学年が違うせいで、僕には宥の情報は入らない。そもそも宥との接点は図書室しかなく、司書の先生に聞いて僕が把握したのは結局彼が九月を前に転校したということだけだった。どこへ行ったかまではわからない。電話番号もSNSのアカウントも交換していない僕らには、そこが追跡の限界だった。

 彼がいつからこの終わりを知っていたのか、僕になにも知らせようと思わなかったのか、もし僕が月夜の招待を受けなかったらどうするつもりだったのか、全部に疑問符がついた。

 けれど僕は、このやり方はとても彼らしいとも思っていた。たった数ヶ月だけれど、まともに話し始めて三ヶ月ほどだけれど、僕は彼らしさを判別出来るくらいには彼を知っているつもりだ。

 彼の一方的なやり方を、僕は恨む気にはなれなかった。

「世界が今終わればいいって、本当に思ったんだ。君といる今」

 あの言葉は嘘ではないとわかっているから。あの瞬間、本当に世界が終わっていれば、僕らは一番しあわせなときに人生を終えられただろう。彼と見つめ合った月の下、忍び込んだ学校の雰囲気と古いインクの匂いにつつまれて、そっと手を取り合ったままで。わずらわしいことなど全て忘れた瞬間を、永遠とは言わずにそこで終わらせようとする彼らしさを僕は愛した。

 美しいものを胸に抱いて、僕は少しだけ大人になった。


『Dear Ryosuke


 突然のことで君は驚いたかも知れないね。

 僕は君に伝えたい言葉をいくらでも頭の中には思いつくことが出来るのに、

 実際にはなにひとつ伝えることが出来ない臆病者なんだ。

 がっかりしたかも知れないね。それとも僕がこんなやつだと知っていた?

 まあ、どちらでもいいよ。

 月夜の散歩は楽しんでもらえたかな。僕は充分に楽しんだよ。

 もうわかっているかも知れないけれど、君を想ってる。

 最後に、約束の詩を添えておく。僕の声が聞こえるといいけど。


 24/7 Yu』


 街中で、知らず宥の面影を探し歩く癖は、浩司と出会っていつのまにか消えた。

 それでもたまに、あの少し荒れた白い頬を見かけた気がして振り返る。大きな切れ長の目が、僕を捉えて微笑みはしないかとほんの少しだけ期待してしまう。

 それは彼にまだ思いがあるのではなく、人を愛する方法を教えてくれてありがとうと伝えたくて。

 人を愛することが美しく素晴らしく特別なことだと君が教えてくれたから、僕は今、浩司の隣にいられるんだ。

 ありがとう、宥。君にまた会えることが出来たなら、君に浩司という男を紹介したい。

君と正反対の、僕との永遠を願う恋人を。

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