第一四一話 入り女に出鉄砲
美濃には二つの勢力が拮抗しているといったな、あれは嘘だ。
現在親光秀派であったはずの帰蝶姫の居住地である鷺山が無事元、織田家臣の池田恒興と合流し第三勢力となったようだ。予想はしていたが最悪である。
鷺山で陣を構えるのは推定四百以上の鉄砲を持った旧織田軍。
尾張のハナシじゃないからいいか…というわけにもいかない。稲葉山城のうしおの身柄を狙っているとの事で光秀から応援の要請が入ったのだ。そんなわけで俺は政情不安の地、美濃へ兵を進める事になった。
◇ ◇ ◇
出陣までの束の間、俺は熱田で穏やかに過ごしていた。
遠くから集まった兵の声が聞こえるが、屋敷にはぱちり…ぱちり…と細い枝を切る子気味の良い音が響いていた。『いけばな』という文化がどの程度浸透しているのかは分からないが、実家が薬屋で植物に造詣が深い妻たあは新しい鋏を手に入れてしまいご機嫌のようだった。永く平和利用してくれることを願うばかりである。
そんなうららかな陽気を切り裂く鳴き声を発する息子の楠丸はすくすくと大きくなりパワーが増していた。そして残念ながら体の成長に応じて脳は大きくなっていないようで、まさに動ける馬鹿と形容するに相応しい生き物となっていた。教師役を早めにつけないと将来千秋家は酷い事になるな…などと忙しさを言い訳に他人事のように悩んでいた。
…こんな穏やかな日々が続いて欲しいものだ。
そうして出陣を控えた夜の寝室でたあが思い詰めたように俺に声をかけてきた。
「旦那さま…」
「熱田で大宮司に専念する訳にはいかないのでしょうか?」
たあの声色から俺の身を案じてくれているのを感じる。彼女は多少ヤバい性根が見え隠れするが良い妻だ。
そして不安に感じるのも無理からぬ事だ。つい最近も年を跨いで三月ほど熱田を空けて京に行っていた。本来なら熱田大宮司という職にある俺は出歩かず正月には腰を落ち着けて熱田の大神を祀るべきなのだ。
「…俺も出来る事ならこの平和な日々を永く謳歌していたい。だが武力を放棄して神職だけに従事するというのはこの時代では難しい」
尾張が斯波か織田によって盤石な支配であったならそういう選択もあったのかもしれない。だが現在尾張は今川の支配下にある。大宮司職を戴く時に後ろ盾になって貰った織田と違い今川は熱田の後ろ盾になっている訳ではない。
鳴海には岡部、そして那古野には井伊が座し熱田は監視されている。二者との関係は決して悪くはないが、これは熱田神宮という土地もあって今川なりに配慮してくれているのだろう。まぁその分今川の為に働かないとほどなく
「わたくしには…難しい事はわかりませぬ」
彼女は戦国武将の妻になるべく覚悟を持てと育てられたわけではない。たあは比較的安全な町の中で箱入りのお嬢様として育った。だがそれでも令和の文明人である俺よりは余程この世界の無限の蛮性を理解している。
「ですが…わたくしには旦那さまと楠丸だけが全てなのです」
世は大蛮族時代、野盗は昼間からスナック感覚で跋扈し坊主は借金のカタに人を売り買いし侍は最新兵器を横流しする世紀末だ。彼女は世の無常を理解してなお俺と楠丸の無条件な幸せを願ってくれている。
「俺は…楠丸には大宮司を任せ戦場に立たなくて良いようにしたい」
俺も彼女の気持ちに近い。少々ろくでなしの香りはするが息子は本当に可愛い。親になって思う事は『俺の事はいいから息子の安全を』という気持ちが湧いてきた事だ。
…というかあのハナたれが無謀にも戦場に乗り込んだら蛮勇に逸り無闇に敵陣に突っ込みお供の兵ごと死ぬ未来しか見えない。そうならぬよう俺がなんとかしなければならない。理想を言うなら戦国時代がさっさと終わり太平の世になってほしい。
「その為にももう少し我慢をしてくれないか?」
「…はい」
「…それに今川様の御意向には逆らえないのだ」
特に今は鉄砲狩りをして貢げとの命が下されている。熱田が桶狭間の時分に持っていた兵力は三十(それも一度は壊滅してしまったが)それが現在は二百程になっている。急に増えた兵に尾張の何処かにあるかもしれない鉄砲を俺が隠し持っているなんて疑われ翻意ありと睨まれては困る。義元はまだしも現当主の氏真に俺はどうも良く思われていない。
「ならせめて…美濃に関わらず…織田様のお子に関わらずに生きてはいけませぬでしょうか?」
「未だ織田様に義理立てをする理由がございましょうか?」
たあにしては珍しく突っ込んだ話をしてくる事に驚く。先日の話を何処からか小耳にはさんだのだろうか?
「…すまない、お前には心配をかける」
だが秀さんと滝川のおっさんの手前『織田家再興の為』なんてぶち上げてしまったが自分でもどうしたいのか分からない。なにより織田家を再興してその後は?信長の代わりにこの戦国の世を終わらせてくれる事を期待して良いものなのだろうか?その後のビジョンを俺は全く見えずにいた。
「あの子は…主君の忘れ形見だ、俺は放り出す事など出来ない」
「…そう でございますか」
そしてうしおは単に信長の遺児というだけではない、今はもういない彼の小さな育ての親の為にも一角の者になってもらわねばならない。
そんな夫婦の会話が途切れ眠りに落ちようとした時ふと脳裏に過るうしおの義理の母、帰蝶姫の姿が思い浮かんだ。彼女が美濃でどのような選択をするかは分からない、だが出来れば一度体を重ねた彼女には幸せになっ
「旦那様」
不意にたあから声がかかり、夢に沈みかけていた意識が覚醒する。
「いま他の女の事を考えてはおりませんでしたか?」
そう言うたあの声は無機質で、目元は暗闇に沈んでいて感情が窺えない。
「いや…決してそのような……」
俺は闇の中『しゃきり』と鉄の刃物が擦れる音を聞いた。
◇ ◇ ◇
翌日早朝、俺と息子は無事である。
そうして二百ばかりの兵を率いてまさしく美濃へ向かおうと馬の鞍に跨ったその時にそれはやってきた。
「きちゃった…」
入り鉄砲に出女を悠々と抜けて来た不届き者がやってきた。
「帰蝶…姫?」
とりあえずは彼女がこれから向かう鷺山で敵対しないで済む事に安堵した。
…それと同時に背に冷や汗が伝う。たあが手に入れた新しい鋏が今度こそ火を噴く事を恐れ俺は馬上で一物を縮こまらせた。
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