第五十九話 那古野城入城
初夏の日差し、蝉が喧しく求愛する季節となった。
桶狭間の戦いから約三年、この那古野城を守ってきた井伊直盛が国元に帰り、代わりに俺がこの城に入る日である。
信長はこの城で育ったとかで大切にしていたとの話を秀さんから聞いたが、俺はこの那古野城を掘のある屋敷だと思っている。規模はもう少し小さいがこういった掘のある寺もある、そういう寺も城扱いなのだろうか?
そして清須城や犬山城と違って大きな川も無く海運力に乏しい、何故信長はこの城を重宝したのだろうか?あえて言うならこの城は尾張の真ん中辺りにあるくらいだが…
そんな事を考えていると登城した俺にウッキウキに声をかけてくるおっさんがきた。
「おお!千秋殿!よく来てくれたな!!」
井伊直盛のおっさんはテンションあげあげである。三年もの間、他国で労役を強いられ無事に国に帰れるのだ、テンションも上がろうものだ、気持ちは分かる。その分、俺のテンションは冷えまくりだ。
そしてそんな上がったテンションのおっさんの横に俺同様…いや俺以下にテンションを下げた女性がいる事に気が付いた。
表情こそ怒りを露わに不満気この上ない表情だが、美しく気の強そうな女性だった。前に言ってた娘さんだろう。美人なのだが誰かに似ている気がする…一体誰だっただろうか?
「これはワシの娘でお祐という」
「父上、私まだこの話を承服しておりませんが?」
おっさんの言葉にお祐殿が不満を被せる。
そしてお祐殿の声を聞いて閃いた。元康の奥方、瀬名姫と声が同じだ。血縁関係でもあるのだろうか?
「というてもなお祐…お前も良い歳ではないか…せっかくそこそこ見れる顔で生まれたのにこのまま枯れさせてしまうのは父として口惜しくも不憫に思うのだ」
よよよと泣きまねをするおっさん、はい名演技、でもそんな演技じゃ全然俺らの同情誘えてないからね?
「父上の命により直親様を生涯愛すると決めたのです。今更どうして心変わりなど出来ましょうか!」
こんな美人がこの歳まで嫁いでいないのには彼ら親娘の間でなんらか理由があるようだが俺には関係ない。そんな家庭の事情には全く興味がないのでしっかり話し合って納得して欲しいのだが直盛のおっさんは俺に火の粉をかけようと必死に煽ってきた。
「大丈夫!これでもワシが見込んだ男ぞ、きっといいやつに違いない!」
バシバシと俺の背中を叩き空笑いをする直盛のおっさん。
ウワァ―雑ゥー
お祐殿の敵意の籠った視線が俺へと向けられる。まるで毛虫でもみるような目だった。俺は火の粉を被りしっかり延焼したようだった。
「さて、それでは父はこれから治部大輔様に溜まった報告を一刻も早くせねばならぬ、後の事は頼んだぞ!」
「父上!まだ話は終わ」
「それでは健やかにな!」
そう言って直盛のおっさんは娘の言葉に被せるように挨拶を残し、手持ちの兵と共に那古野城から馬を駆って逃げるように…事実逃げた。初夏の空に馬の蹄で巻き上げられた乾いた土埃が舞った。
残されたお祐殿は頭を抱えている。
俺も眉を顰め心の中で頭を抱えていた。
そして彼女が垂れた頭を上げ、俺を見た目はとても冷ややかなものだった。二人の間には痛ましい空気が流れ、更にその周りには彼女の護衛として残された三百の兵の六百の目が俺を凍り付かせた。
◇ ◇ ◇
「…千秋殿は少々男気が足りぬとは言われませぬか?」
俺は彼女に対して深々と土下座していた。
那古野城の広間、俺と彼女は対面し話合いという名のマウント合戦である。パワーバランスはお祐殿百で俺はゼロである。
三百の兵と共に残されたお祐殿はご機嫌斜めどころかご立腹であらせられるので先ずは彼女の気持ちを落ち着けて貰わないと生きれるものも生きれない。
この三百の兵は彼女を守る為の兵であって那古野城、ましてや俺を守る為の兵ではない。もちろん彼女の号令があれば俺の命を容赦なく刈りにくる俺からすれば敵に近しい存在だ。堀に囲われた狭い城の中で敵兵三百に囲まれるに等しい最悪の状態だ。
そんな深々と土下座をした俺をお祐殿は呆れた顔で眺めている。
蛮勇に逸り桶狭間で泣きながらうんこを漏らした身だ、男気が足りないと言われようとプライドなど捨てて全力土下座くらいわけもない。
「千秋様、私には心に決めた殿方がおります。紆余曲折あって結ばれること叶わぬ事となりましたが、それでも私はその約束を違えるつもりはございませぬ」
声も似ているがよくよく顔を見ると駿河一の美人と謳われた瀬名姫の面影がある。確かにあのオッサンが言う通りもったいない美人だ。
「随分と父上に私の身請けを請われたようですが私は承服いたしかねます」
しかし彼女のいう「請った」ってまるで俺から結婚を申し込んだみたいな事になっているのが気にかかった。…まさかとは思うが、もしそうなら早めに誤解は解いておかないといけない。
「…少し待って欲しい、そこは…少々誤解があるような?」
俺は直盛のおっさんに一寸の恩義もないので自らの保身への強い想いを包み隠さず、身の上を含めてお祐殿に説明した。
国元に帰りたい事、孫の顔が見たい事、織田信清が攻めてきそうな事、兵を置いていく代わりに娘をやると言われた事、俺にはもう妻がいる身である事。
俺が話をしていくと彼女の顔は次第に紅潮していく。勘違いの気恥ずかしさと怒りが半々くらいだろうか?
「あんの………!!槍をもて!!」
「落ち着いて!」
自分で焚き付けておいてなんだが槍を持って厩舎に向かおうとするお祐殿をなんとか引き留めた。
俺が彼女を引き留めるのを見かねた護衛の兵に少しこずかれたが、その情けない姿が彼女の慈悲の心に刺さったのか一応踏みとどまってくれたようだ。
何せ此処で彼女に「父を討つ!続け!!」などと号令を下されれば、この那古野城は一兵もいなくなりあっという間に軍事的空白地となるだろう。
再び那古野城の広間、俺がいかがわしい事をしないよう護衛のつもりなのか先ほど俺をこずいた男がついてきたのは気に食わないが仕方ない。
俺はまた彼女に対して全力土下座をかます。彼女は二度目となれば慣れたようだが俺をこずいた男の方は驚いたようだ。
「俺はそこまで節操の無い男ではない、お祐殿の意思を尊重し、夫婦関係であろうとは望んでいない。ただ井伊直盛殿が三年守ったこの城を引き続き守る為にお祐殿とは友好的な関係でありたいと心から願っている」
都合妻が既に二人いる身だ、正直身に余る。だが夫婦でなくとも彼女に敵対しておらず友好的である事を彼女を守る為に残された兵に示しておきたい。というか兵の視線が痛いのだ。
そして護衛の男はこの城の内情、聞いてはいけない事を聞いてしまったと知って居心地が悪そうだ。
彼女も暴れて少しは落ち着いた心に城を守り続けないといけないという大義名分が届いたようだ。
「…わかりました。私の気持ちを尊重して頂けるのでしたら父が三年も守った城です。お力になるのも吝かではございません」
助かった…
こうして俺の那古野城での仮面夫婦生活が始まった。
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