第五十七話 羽豆崎の生温かい視線

四国杯も終わり暫くぶりに羽豆崎へ帰ってきた。


久々に戻ってきた村には妙な空気が漂っていた。村の者は俺を見ると生温かい視線と笑顔で返される。

鯨が入ってきた時のような活気溢れる感じではなく、何処か慶事のような雰囲気もあるのだが不気味でもあった。すれ違う者が皆俺に生温かい視線を向けてくる。いや、決して悪い空気ではないのだが。

だが出迎えに来てくれたねねさんの雰囲気は少し暗かった。俺と村長である秀さんを出迎えたは良いのだがどうにも俺と目を合わせようとしない。気遣いの男、秀さんは俺よりも機敏にその空気を察したようで、ねねさんを連れ添い家へと足早に帰っていった。

その様子が少々心配だったが秀さん夫婦の話もあるだろう、俺が口を出す事ではないと割り切り羽豆崎の屋敷へと向かった。


そんな俺を九鬼嘉隆の吠えるような声が引き止めた。


「おお千秋殿!帰ってこられたか!」


がははと笑いながら俺へと近づきがなった。海の男のコイツの大声は陸の上でも健在だ。


「…どうにも村の皆の様子がよそよそしいというか…俺を…なんだ?避けられているとも違うような気がするが…何かあったのか?」


羽豆崎の村は基本九鬼の者だ。顔役の嘉隆が知らないハズはないだろう。この不可思議な雰囲気について聞いてみたのだがそんな俺の疑問に対して嘉隆の答えは酷いものだった。


「ああーそうじゃった、引き留めておいてなんだが今は何も言えないんだった!ああーすまぬなー!強く強く口止めをされててなー!いやー残念残念!後で酒を持っていく!飲もう!」


そうして一方的に話をまとめて背中をばしばしと叩いた。意味不明な上にいてぇよ!

わざわざ話しかけてきて背中への強烈な痛みだけを残して去っていく。平手打ちは地味に肺腑にまでダメージが通り思わず咳き込む。

正直これは嫌がらせか仕返しの類かとも思ったが、それとは裏腹に九鬼嘉隆の目はこれまたやけに生温かくゴキゲンであった。


そして屋敷の前で出迎えに来てくれたさやは相変わらず渋い顔をしている。

しかし俺くらいになるとさやのそんな渋い表情の中にもこれまた少し生温かい気配があるような気がした。ここに来るまでに幾人もの生温かい視線に晒された俺は多少過敏になっているのか、彼女の視線の中にも生温かい成分があると半ば確信した。


「旦那様、しずか様が奥の間でお待ちです」


だが声は相変わらず冷淡だった。…気のせいか?

そしていつもなら屋敷の前で飛びかかってくるしずかとうしおがいない。不思議に思いながらも奥の間へ向かった。館で働く女中からももれなく生温かい視線を受けて、俺はもういい加減生温かくなった。


奥の間では満面の笑顔でしずかが出迎えてくれた。


「すえただ!!!!」


鼓膜をつんざくしずかの喜びの色の乗った声。


「応、ただいま戻った」


「すえただ、あのなあのな…」


しずかが俺に何やら伝えようと俺の側に寄って来る。彼女は顔を紅くし目を伏せて口籠る。

言葉を迷う彼女に何事かと思い「どうした」と声をかけると、しずかは少し逡巡し俺の耳を引っ張った。痛い、めちゃくちゃ痛い。ヤメテ。思わず悲鳴をあげそうになる。耳がちぎれるかと思ったのでほんとやめてほしい。

そして耳元で囁くというには如何せん無理がある声量で叫んだ。


「ややこができた!!」


瞬間顔をしずかに向ける、しずかは白い歯を出して満面の笑顔を俺に向けている。

彼女の笑顔に俺は少し脳がバグったのか、しずかのお腹に耳を当てた。俺の行動に慌てたのか、即座に頭にしずかの肘がめり込んだ。


「ま、まだ何も聞こえないから!!」


比較的殺意高めの肘を打ち出した彼女だが、表情はとても明るく頬に紅が差していた。脳に伝う肘の衝撃に比べて彼女は決して不機嫌という様子ではなかった。

俺はしずかの肩に手をかけ何と声をかけたら良いのか分からず、とりあえず力いっぱい抱きしめた。

また脳天やら顎やらに肘を食らってはたまらん、感激して抱きしめると見せかけて彼女の腕をガッチリホールドする。


「ちょっ!?すえただ!?」


「ああ、よくやった…よくやった」


さっきは脳天に肘鉄を食らったが彼女はもう攻撃の意思はなさそうだ。

呆れたように俺になされるがままになっている。彼女をしっかり抱きかかえたまま言葉を紡ぐ。


「俺の勝手な拘りでお前に無用な悩みを抱えさせてすまなかった…」


「いいよ!!」


明るい声で返答を返すしずか。こんなにも喜んでくれるのならもっと早くに子を生すべきだった。俺の勝手な良心の呵責で彼女を悩ませ、この笑顔を曇らせていた事に心の中で謝罪した。

これで彼女の石女疑惑は払拭され肩身の狭い思いをする事もないだろう。

九鬼の者は誰もそんな事で彼女に後ろ指をさすような者はいないだろうが、それでも彼女はプレッシャーを感じていただろう。

しずかのおなかに宿った子は九鬼と千秋との絆になる。

彼女はかつてのまぶしく屈託のない笑顔を取り戻していた。


「すえただは…その…男の子と女の子、どっちがいい?」


ニッコニコの笑顔でしずかが俺に問いかけてくる。

正直俺個人としては元気であればどちらでも良い。

そして今、彼女はとても機嫌が良い。だがこのしずかの期待に満ちた瞳は俺に対してしっかり考えて悩み、それでいて早く答えを言えと強要してくる目だと気づいてしまった。そして彼女はその矛盾に気付いていない。

ふと妊娠中の夫の言動は一生根に持たれるという格言を何処かで聞いた気がした。多分この質問に適当な返答を返すと後々まで根に持たれる気がする。地味に修羅場なんじゃなかろうか?


「そうだな…」


俺は手を顎に当て、目を瞑って彼女との間に生まれる子を深く想像しているというジェスチャーを交えつつ深く考えた。


男だったら…うるさそうだな…

女だったら…絶対にうるさいな…

もし仮に双子だったりしたら…考えたくないな……

頭の痛くなる楽しい未来を想像して眩暈がしたが、おくびにも出さずしずかの目を見て答える。


「ああ、しずかの子供だったらきっとしずかに似て可愛いだろうな」


そう言って答えを濁した。


「ちょっとーー答えになってないよ!」


しずかは体を一寸沈ませ肘をねじ込む、ねじり込む。本日三度目の肘鉄がみぞおちに刺さった。

突如として水中に叩き込まれたかのような感覚、腕は虚空を掴もうと泳ぐ。俺は必死に宙をもがいたが、溺れる寸前に見た彼女の顔はご機嫌そのものであった。

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