第五十五話 義元の慧眼

義元は休憩中に服を着替えてきたようだ。

皆は下見所で馬と状態騎手の状態を一人一人真剣に品定めをしている。午後の武者競馬は特に馬を出している面々も一様に緊張を顔に張り付けていた。


さっきまでアホみたいに酒をあおっていた岡部元信もこの時ばかりは自らの騎手と馬に真剣な眼差しを向けていた。

自らの騎手に向かってなんらか激を飛ばしているようだが、一応この場での勝ち負けによる遺恨は無きようとの義元の命として文書にしたため判も押させてある。

大丈夫だよな?


元康も先ほどのような予想など口にせず自らの騎手と馬を激励していた。

見るからに壮健な黒い艶のある馬の背にはこの鳴海競馬場にて無双の栄光を燦然と輝やかせる男が乗っていた。

服部正成

体躯に恵まれた男だが、競馬においてはその体躯の良さが馬の枷になる。だがこの男はそれを上回る細緻な技術で馬を巧みに御し、その栄光を勝ち取ってきた。この男がこの鳴海競馬場を何度も沸かせた英雄であると知る者はまだ少ない。

この大舞台でこの男を出してきた辺り元康も本気なのだろう。

それにしてもハットリ…?

忍者キャラにそういうのいた気がするけどあのガチムチ男にそんな雰囲気は無い…まぁ忍者は武将じゃないしたまたま同性ってだけだろう。たぶん。


「ぶぅぉーぶぅぉーぶぶぅぁあーーーぶぼぼぼぉーーーぶぼぼぶぇえーーー」


そろそろお馴染みとなってきた間抜けな法螺貝の音でヤケクソ染みた勇壮な曲が奏でられる。


「ぶぉぼっぶぇっばっぶっぼっぶっぶぉーーぶぉっぼぶぇぶぁぶっぼっぉおーーぶああああぁぁぁーーーー」


…勇壮な曲が台無しだが、一部からは微妙に支持を得つつある。どこかで変えようとも思ったが良い代案も思い浮かばず、なにより角笛隊の面々が案外気に入ってしまっているようでもう諦めた。


各馬ゲートに入る。

もうこの競馬大会もかなりの数をこなし、運営一同皆慣れたものではあるが、やはりここ一番となると緊張する。特に今日のお偉いさんを沢山招いてのこの大会だけは変な事故やミスは起こらないで欲しい…そう心から願う。

義元がゆっくりと銃のトリガーに指をかけ、その指に力を籠めて辺りに鋭い発砲音が響いた。同時に騎手と馬が一斉にコースへとその身を躍らせた。

先ず勢い良く飛び出したのは岡部元信の馬、騎手は水瀬某。勢い良く飛び出したのは良いがこのレースは結構な距離がある。初っ端からあんなにトバして大丈夫だろうか?


「いけーーー!いけーーー!水瀬ーーー!!」


横にいる岡部元信の怒鳴り声で耳が痛い。

トップを独走する岡部元信旗下の水瀬某、確かに彼は早い。二番の馬に相当の距離をつけ先頭を疾走している。十馬身近く差をつけているのではなかろうか?

だがレースはまだ序盤が終わったばかり、今は三番手に付けているが前の馬を風よけにして虎視眈々とタイミングを見計らっている騎手がいた。

三河の服部正成だ。

そして危惧した通り岡部の馬は中盤から勢いを落としてきた。

明らかにスタミナ切れだ、十馬身近くはあったであろうリードは徐々に二番手の馬、そしてその後ろから迫る馬群にじわじわと迫り削られていく。


「水瀬ェェエエエエエエエ!!」

「走れ!!走らんかああああああああああ!!」

「切腹ぞぉぉおおおおおお!!!!」


敬愛する主君よしもとの前で良い所を見せたい気持ちはわからんでもないが、思わず顔をしかめてしまう応援?内容である。


そうしてレースも終盤に差し掛かり中盤で五位にまで落としていた服部正成が馬の影から出て追い上げを始めた。

どうも彼は体感としてスリップストリームの存在を知っているようだ。今まで温存していたのであろうスタミナでぐいぐいとスピードを上げていく。とにかく力強い走りだ。

最後はほんの少し登りの傾斜になっており全体的にスピードが落ちる、それをものともしない走りが相対的に際立つ。あっという間に前にいた馬をゴボウ抜きにし順位を上げていく。


「うおおおおおおおおおおおおお!!!!」


会場は狂乱の坩堝、乱痴気騒ぎである。

一等は誰が見ても文句の付けようのない走りでレースを制し、英雄的勝利を収めた元康旗下の服部正成。

その大逆転劇のようにも見える王者の走りに観客は湧きに湧いた。はずれ馬券が飛び、何故か服を脱ぐ輩が出、喧嘩が始まり、警備員が刺又で取り押さえ、怒声が飛び交う。

いつもの平常運転蛮族共だ。


そして岡部元信旗下の水瀬某さんは十騎中九位という残念な結果になってしまった。

岡部元信は顔を真っ赤にしてものすごい剣幕で松平元康を睨んでいる。

流石に食って掛かる事はしないようだが、正直剣呑な雰囲気に元康は努めて視線を合わせないようにしているようだ。だが岡部の視線を前に珍しく狼狽しているのを感じた。この偉丈夫が顔色悪いのを初めて見た気がする…


そしてそんな不穏な空気を打ち払うかのように今川義元が厳かにそして泰然と円卓に馬券を響かせた。


「捌ー伍」


円卓に神妙な音を響かせた馬券。そこに印された数字はこの未来を確信をもって予知していたようだ。その場にいる者の目は一様に驚きの色を露わにしている。午前に行われた町衆競馬の一度はまぐれの類と思ったかもしれないが、二度ともなると義元の未来を見通す力に感服せざるを得ない。所詮お遊びではある。だがこの場で義元の慧眼をあからさまに疑う事は出来なかった。自然と場に義元に対して畏れとも敬いともつかぬ空気が醸し出されるのが分かった。

今回のゲストである斯波義銀もその当たり馬券に目が釘付けになっている。

ちなみにこれ八百長ではないがタネはある。全てのパターンの馬券を予め買っておいただけだ。そしてさも自らの予想が当たったかのように懐の中から当たりの馬券を掴み、提示しただけ。服の下には一枚一枚はそう大きくも厚みもない木札とはいえ、九十枚近くのはずれ馬券を身に纏っている。

タネは簡単だが一枚百貫の印が施されている馬券だ、とんでもない金額になる…だがこの場の主導権、そして今後の影響力の拡大の為に義元は必要経費と割り切ったようだ。事実この場にいる者…特に尾張守である斯波義銀に「治部大輔いまがわよしもとは未来を見通す慧眼を持っている」とのイメージを植え付ける事に成功したようだ。

タネを理解した聡い者もその力と財力を感じ、聡いが故に下手に騒ぐような事はしないのではなかろうか。

こういうマウントの取り方も政治の一環なのだろう。タネを知っていると若干の思う所はあるが運営側としてはやましい事はなく、過去最高の収益なので俺の心の内は満面の笑顔である。


「皆、最初に申し付けた通りこの競技会において意趣遺恨なきよう。如何な結果になろうとも乗り手と馬を潰しておっては腕の良い者から居なくなろう。反省し鍛え次の競技会に経験を生かすが良い。」


明らかに岡部元信を意識しての発言だったが釘を刺してくれてよかった。

当の岡部元信は家臣の不甲斐ない姿に怒り心頭であったようだが、敬愛する主君の言葉は素直に聞き入れたのか、青菜に塩をかけたようにしんなりとしていた。

あの騎手が城に戻ったら腹を切らせられるのではないかと心配だったが本当に良かった…

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