第44話 入浴中、愛犬と通話するこだま

(……終わったの、これで? 本当に、解決した?)


 夜、入浴中のこだまは肩まで湯船に浸かりながらぼんやりとそんなことを考えていた。

 真っ白な天井を見上げている彼女は、風呂場に持ち込んだスマートフォンを手慰みとして弄びつつ、深く息を吐く。


 あまりにも突然の事態で、状況を飲み込めていないが……今日、自分を盗撮した男が警察に捕まったという事実は認識できていた。

 その男が例の掲示板サイトの利用者であり、そこの書き込みを見てこだまを狙っていたと聞いた時には、言いようのない恐怖で背筋が凍えるような感覚に襲われたものだ。


 だが、その男は自分の目の前で逮捕された。

 掲示板サイトの方も警察の捜査の手が伸びており、閉鎖も目前とのことだ。


 こういった情報は既にサイト上に出回っており、残る盗撮犯たちもここらが潮時だと口々に言い合って……もとい、書き込みあっている。

 文字通り、一人の馬鹿が下手を打ったことで事態は急速な収束を迎えようとしており、こだまや他の女子生徒たちを狙った変態たちの盗撮行為もまた終わりを迎えようとしていた。


「まだ終わりじゃないけど……終わったのよね。これで、終わった……」


 そう、自分を取り巻く環境を声に出して呟いたこだまが安堵のため息を漏らす。

 自分で言うのもなんだが、それが最も的確に今の状況を表していると考えた彼女は、浴槽に背を預けながらゆっくりと瞳を閉じた。


 事件は間違いなく収束に向かっている。こうして堂々と犯行に及んだ人間が現れた以上、警察も一層警戒を強めるだろう。

 盗撮犯たちも犯行に及び腰になっているし、彼らのたまり場であるサイトがなくなればその動きも完全に停止するはずだ。


 無論、まだ完全に油断することなんてできないが……それでも、今の状況がこだまにとって喜ばしいものであることは間違いない。

 少なくとも、全く正体がわからない盗撮犯たちに怯える段階は過ぎ去ったのだと、そう考えた彼女は瞳を開けると共に僅かな頬笑みを浮かべた。


 戻って来るのだ、平穏な日常が。高校入学直後から嫌な気持ちになったが、それももう終わりを迎えようとしている。

 馬鹿な男が愚行のツケを払う形で逮捕されたことで一気に状況が変わったことを喜ぶこだまが、この事態を招いてくれた飼い犬のことを思い浮かべていると――


「あっ……!」


 ――浴槽の蓋の上に置いたスマートフォンの画面が光り、着信を告げる音が風呂場に反響する。

 今しがた思い浮かべていた男の名前がそこに表示されていることを見て取ったこだまは少しだけ悩んだ後、スマートフォンを手に取って通話に出た。


「あっ、もしもし。八神ですけど……」


「どうしたのよ、ハチ。何か用?」


「いや、用ってわけじゃあないけど、森本さんの様子が気になったからさ……って、何か声の響きが変じゃない?」


「今、お風呂に入ってるからだと思うわ。声が籠りやすいもの」


「えっ!? あっ、ごご、ごめんっ! また後でかけ直――」


「いいわよ、別に。暇だったし、あたしの話し相手になりなさい」


「わ、わん……」


 予想通りの反応を見せる狛哉に対し、楽しそうに笑いながら命令を下すこだま。

 自分が風呂に入っていることを強調するために敢えて水音を響かせたりして彼にそのことを意識させてみれば、電話の向こうの狛哉がわかりやすいくらいに慌て始める。


 自分が全裸の状態で異性と通話する日がやって来るだなんて思いもしていなかったこだまは、ちょっとだけこの状況に驚きを感じてもいた。

 狛哉が相手ならばそういったことを許してもいいか……という、彼に対する親愛による判断を下した彼女は、そのままセクハラじみたからかいの言葉を投げかけていく。


「なに? そんなに緊張して、どうかしたの?」


「だ、だって森本さん、お風呂に入ってるんでしょ? そしたら、その……」


「想像しちゃったわけね、あたしの。ハチは今、いやらしいこと考えてるんだ?」


「そ、そんなんじゃないよ! 確かにちょっと意識したことは認めるけど、想像だとか妄想だとかをしたわけじゃあないって!」


「ふふふ……! 別に責めてるわけじゃないのに慌てちゃって、かわいいわね。ねえ、どうせならビデオ通話でもしてみる? あんたが今、どんな顔してるか気になるし……」


「う゛え゛っ……!?」


 言葉を失いながらもなんとか絞り出したといった様子の狛哉の反応に、とても愉快気な笑みを浮かべるこだま。

 自分の言葉に翻弄される飼い犬の姿を想像した彼女は、そろそろ意地悪も止めてやるかと考えながら狛哉に告げる。


「ば~か、本気にしてんじゃないわよ。冗談に決まってるでしょ」


「わ、わかってるよ……! っていうか、今日の森本さん、なんかおかしくない? 普段は僕がそういう素振りを見せたらすぐにエロハチとかデリカシーがないって言ってくるのにさ」


「……今日はちょっと機嫌がいいのよ。どこかの飼い犬のお陰で、悩みが一つ解決したからね」


 普段は絶対に許さない下世話な話題を自ら振っている理由を口にしたこだまが、ふわりと優しい笑みを浮かべる。

 遠回しな彼女からの感謝の言葉に狛哉が息を飲む中、こだまは続けて彼へとこう問いかけた。


「……ご褒美、何がいい? 欲しいものとかしてほしいことがあったら遠慮せずに言ってみなさい」


「何もないよ。僕はただ、人として当然のことをしたまでで――」


「いいから言いなさいよ。あそこまでしてもらっておいて何もお礼をしないだなんて、逆にこっちが気を遣うじゃない。頑張った飼い犬にご褒美を与えるのはご主人様の役目なんだから、ハチの分際で遠慮なんてしてんじゃないわよ」


 デートの時のように、ご褒美などほしくないという狛哉の言葉を却下したこだまが尚も彼に詰め寄る。

 借りを作りっぱなしというのが性に合わないこともそうだが、彼にここまで助けてもらっておいて何のお礼もしないというのは人としてどうかと思うし、それを容認することができない彼女は強引に話を進めていく。


「あんたが遠慮し続けるっていうなら、今すぐビデオ通話に切り替えて徹底的に話をしてやってもいいのよ? もしくは、裸の自撮り写真でも送ってやりましょうか?」


「い、要らないよ! 流石にテンションが迷子になってるって、森本さん!!」


「ふ~ん? 折角のあたしの厚意を無下にするわけね? ハチはあたしの裸になんか興味ないって、そう言いたいんだ?」


「ほ、欲しくないっていうわけじゃあなくって、そんな形でのお礼は必要ないって意味であって、決して森本さんに魅力がないと言ってるわけじゃあ――って、だからテンションがおかしいって!! 変だって!!」


「あははははは! ……ほんと、正直者でかわいい犬なんだから」


 少しは鼻の下を伸ばしてくれた方が面白いとは思うのだが、こうして馬鹿真面目に自分の逆セクハラに反応する彼の姿があまりにも想像通りで、愛らしさを感じてしまう。

 頬笑みを浮かべながら、愉快さを感じながら……そろそろ本格的にからかうのは止めようと考えたこだまは、優しい声で狛哉へと言った。


「……また、駅前のハンバーガー屋でいい? 久しぶりに寄り道して、のんびりお喋りでもしましょうよ」


「う、うん。僕はなんでもいいよ。その、ありがとう」


「馬鹿ね、どうしてあんたがお礼を言うのよ? あんたはあたしを助けたんだから、堂々とその手柄を主張すればいいの。それで、あたしからのご褒美をありがたく受け取ればいいのよ」


「……わん」


 多分それは、「そんなことできない」という意味のワンなんだろうなと思いながら、彼らしいその反応にくすりとこだまが微笑む。

 忠実で、控えめで、だけど自分のために頑張ってくれる自慢の飼い犬のことをもう少し褒めてやろうとした彼女であったが、狛哉は慌てた様子でこう言ってきた。


「ご、ごめんっ! スマホの電池がなくなりそうだから、そろそろ切るね! また明日、学校で!」


「あっ、ちょっと!?」


 ぷつんっ、とそれだけを言い残して通話を切った狛哉に対してツッコミじみた言葉を投げかけるこだまであったが、その声が彼に届くはずがない。

 仕方がないな、と思いながら、大事なところで締まらないことをする愛犬に対して愛しい感情を募らせたこだまは、最後に言いたかった言葉を優しい声で呟く。


「……ありがと、ハチ」


 いきなり切れた電話は、明日、その言葉を面と向かって言ってやれという神様からの命令だと受け取った彼女は、ほんの僅かな勇気を振り絞るための覚悟を決めつつ、長風呂を終え、浴槽から立ち上がる。

 バスタオルで体を拭きながら、上機嫌に鼻歌を歌いながら……こだまは、明日の朝に彼と会うことを楽しみにしつつ、就寝の準備を整えるのであった。

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