第42話 ハチ公、ご主人様からちょっとだけ可愛がられる

 ……中庭でのやり取りのお陰か、こだまは心の平穏を取り戻したようだ。

 教室に戻る頃にはすっかり普段の彼女に戻っており、狛哉もこだまが元気になったことを素直に喜んでいた。


 学校側も件のストーカー被害や地域裏サイトに関しての噂を把握したようで、教師から掻い摘んだ情報ながらもそれについての話もされた。

 既に警察には相談済みで、事態を重く見た彼らも周辺のパトロールをはじめとした対策を取り始めているらしい。


 元凶であるサイトに関しても閉鎖や利用者の特定を目指して動いているようで、全てが上手くいけばそう遠くない内に事件は解決するだろうとのことだ。

 必要以上に不安にならず、されど警戒は怠らないようにして学校外での振る舞いに注意してほしい……という教師からの話は、狛哉にとってもこだまにとっても喜ばしいものだった。


 学校や警察といった組織がこの問題を解決するために動いてくれているというのは、とても心強いものがある。

 実際に動きを見せている以上、このままストーカーたちが野放しになるということはあり得ないはずだ。


 あとどれくらいの時間が必要になるのかはわからない。犯人たちが一人残らず逮捕されるという確証もない。

 だが、それでも……平穏な日常が少しずつではあるが近付いているという報告を聞いた二人の心は、登校時の不安な気持ちが嘘であるかのように晴れやかであった。


 授業が終わり、いつも通りに二人で帰宅する時も、心なしかその明るい気分が言動の端々に表れているように見える。

 ……いや、それだけではないだろう。

 僅かながらも狛哉に弱味を見せ、本音を吐露できるようになったこだまは、彼に対して確かな信頼を感じさせる振る舞いを見せるようにもなっていた。


「ハチ、バスが来るまでどれくらいかかりそう?」


「十分くらいかな? 思ったより待たなきゃだね」


「そう。なら、暇つぶしにお喋りでもしましょうよ。ここ、座んなさい」


 停留所にあるベンチに座り、隣のスペースをとんとんと手で叩いて狛哉へとアピールするこだま。

 距離が近くなったというか、彼が傍に来ることを快く思っているような彼女の振る舞いに少しだけドギマギしながらも、狛哉は素直にその命令に従い、ベンチへと腰を下ろす。


「月曜日って妙に疲れるわよね。休日明けだから、体が鈍ってるのかしら?」


「単純に気持ちの問題じゃない? また一週間が始まるのか……って感じで気分が落ちてるから、疲れてる気になるんじゃないかな?」


「かもね。でも、あんたはむしろ嬉しいでしょう? なにせお休みは離れ離れになっていたかわいいご主人様と顔を合わせられるんだから」


「……わん」


 いたずらっぽく笑いながら、狛哉へと人差し指を指を突きつけたこだまがそんなからかいの言葉を口にすれば、彼ははっきりとした返事はせずに曖昧に回答を誤魔化してみせた。

 くすくすと笑いながら、そのはっきりとしない態度が答えであるとばかりに視線を向けてくるこだまに対して気恥ずかしさを感じる狛哉は、朝から随分と態度が変わった彼女の様子に戸惑いと喜びが半々の感情を抱いているようだ。


 こうしてほぼ間を開けずに並んで座っていることもそうだが……たった数時間でこだまとの距離が縮まった気がする。

 物理的な意味でも、精神的な意味でも、彼女とぐっと近付いたのではないかという狛哉の考えは、決して勘違いではないだろう。


 完全に甘々な態度を取るわけではない。普段通りに自分を馬鹿にするし、振り回すし、犬扱いを止める気配もない。

 だが、自分に対する信頼の念をこだまの言動の端々から感じている狛哉は、朝とはまた違った意味で心が落ち着かないでいる。


 今もこだまから微笑みかけられるだけで、彼女が嬉しそうにしてくれているだけで、どうにも嬉しいという気持ちが止められなくなっている自分の浮つき加減を自覚している彼は、それを見抜いているであろうこだまとバスが来るまでの間、楽しく会話を続けていった。


「今週中にスポーツテストをやるみたいだね。森本さん、運動に自信はある?」


「……そういうあんたはどうなのよ、ハチ? あんまりスポーツが得意そうには見えないけど?」


「う、う~ん……走ることと体力だけなら人並み以上だって自信はある、かなぁ? それをスポーツの中で活かせた覚えはないんだけどさ」


「ふふっ、何よそれ? やっぱまるっきり犬ね、あんた」


「単純な短距離走やマラソンなら得意なんだけどなあ……って、森本さんの方こそどうなのさ?」


「……上手いことはぐらかしたんだから、その辺の意図を汲み取りなさいよ。苦手よ苦手、これでいい?」


 ちょっとだけ食い下がった狛哉に対して不機嫌そうな表情を向けながらも、自分が運動音痴であることを告白するこだま。

 ぶーたれた様子で唇を尖らせた彼女は、そのまま苦々しい記憶を蘇らせながら愚痴をこぼす。


「疲れるわ、汗臭くなるわ、体型が浮き出る格好だから注目は浴びるわ、胸が揺れて痛いわ……体育って何一つとして良いことがないと思わない? どうしてあんな授業で喜べる奴がいるのよ?」


「僕は体を動かせるから好きなんだけどな……でも、森本さんには森本さんなりの苦労があるんだね」


 確かに彼女の体操服姿は人目を引くだろうなと、少し前に保健室で目撃することとなったこだまの姿を思い出した狛哉が苦笑しながら頷く。

 緑色のジャージを大きく膨らませていた胸や短パンの下に隠された丸いお尻といった部分についつい視線を向けてしまうのは、思春期ならば男女問わずやってしまうことだろう。


 そういった不躾な視線を向けられるこだまからしてみれば迷惑な話なんだろうな……とは思いつつも向ける側の思考もちょっとだけ理解できてしまう狛哉は、そこまで考えたところで何か違和感のようなものを感じた。


「あ、れ……?」


「……どうしたのよ、ぼーっとして? まさかとは思うけど、あたしの体操服姿を想像して、いやらしいことを考えてたんじゃないわよね?」


「そっ、そんなんじゃあないよ! ただちょっと、何か――」


「何か、なんなのよ? 駄犬の分際であたしを誤魔化せるだなんて思わないことね! これだからデリカシーのない馬鹿犬だって言ってんのよ!」


 妙な沈黙を作ってしまったことでこだまを誤解させてしまった狛哉は必死にそれについての弁明をしようとしたのだが、上手く自分の中にあるこの感覚を言葉にできないでいた。

 いったい、自分は何に対して違和感を覚えたのか? 今も心の中で渦巻いている落ち着かないこの感覚の正体は何なのかと、彼が狼狽しながらも必死に考えをまとめようとした、その時だった。

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