第33話 ハチ公、ご主人様に目を奪われる

「何かしら、ここ? 水槽も見当たらないけど……」


「深海を再現してるのかな? だからこんなに暗い、とか?」


 こだまも狛哉もここがどんなスペースなのかを確認しないで入ってきてしまったため、さっきまで自分たちがいた明るい巨大水槽前と大違いな暗い空間に戸惑っているようだ。

 もう少し先に進めば展示物があるかもしれないと考えた二人は、最低限の証明が照らす廊下をゆっくりとした足取りで進んでいく。


 自分たち以外の人の気配が感じられないこの空間は、薄暗さも相まってちょっと不気味に感じられた。

 ほんの少しだけではあるがこだまが自分に近付いたような気がするなと考えながら先へ先へと歩いていった狛哉は、曲がり角の先にかすかな光を目にして彼女へと声をかける。


「あっちに水槽があるみたい。結構長い溜めだったね」


「まったくよ。どれだけ勿体ぶってくれるのかしら?」


 ふん、と鼻を鳴らしつつ、明かりが見えたことで元気を取り戻したこだまがこれまでよりも大股で光へと歩んでいく。

 彼女の横に並び、一緒に角を曲がった狛哉は、その先に広がる光景を目の当たりにして、言葉を失ってしまった。


 壁にガラスが貼り付けられているのではなく、両サイドから天井までをぐるりと取り囲むように作り出された水槽。

 その中をふわり、ふわりと漂う白い影を目にした狛哉は、その名を呟く。


「クラゲだ……! ここ、クラゲ専門の展示コーナーなんだね……!」


 こくりと、その言葉に頷いたこだまもこの光景に言葉を失っているようだ。

 ゆったり、ふわりと浮かぶように泳ぐクラゲたちに囲まれながらこのトンネルを歩いていると、まるで海底を散歩しているような気分になる。

 BGMの音量や空調、照明に関しても周囲を漂うクラゲたちを見ることで感じられる神秘的な雰囲気を一層強めるように調整されているようで、二人は水族館が作り出した幻想的な空間を心行くまで堪能していった。


「……勿体ぶられただけの価値はあったわね。凄く神秘的じゃない」


 素直にクラゲたちの展示スペースのことをそう評価したこだまがトンネル状の水槽に触れる。

 ふわふわと漂うクラゲが発する光に照らされた彼女の慈愛に満ちた横顔を目にした狛哉は、自分でも気が付かない内に心の中の想いを呟きとして発してしまった。


「……綺麗だ」


「え……?」


 静寂に包まれた空間では、この程度の小さな呟きでもこだまの耳に拾われてしまうようだ。

 驚いた様子でこちらを見やる彼女の表情を目にした狛哉は、はっとして右手で自分の口を塞ぐ。


 思わず口にしてしまったが、今の発言は改めて考えずともとても恥ずかしいものではないか。

 それをこだまに聞かれてしまったことに狛哉が動揺する中、ふっと微笑んだ彼女が優しい口調で彼へと言う。


「……そうね、凄く綺麗。ゆったりしてて、幻想的で、癒されるわ……」


「あっ……! そ、そうだよね! 凄く綺麗な光景だよね!」


 どうやらこだまは今の呟きを自分の姿ではなくクラゲたちに対する感想だと勘違いしてくれたようだ。

 彼女の言葉に慌てて同意して必死に先の発言を誤魔化してみせた狛哉は、こだまが勘違いしてくれたことに心の底から感謝していた。


「ねえ、見て! あっちにカフェがあるみたいよ! クラゲを見ながらのんびりするのもなかなか良さそうじゃない?」


「そ、そうだね。休憩も兼ねて、ちょっとゆっくりしていこうか」


 廊下を進んだ先にある休憩所を見つけたこだまが明るい口調で狛哉へと提案する。

 それに頷き、完全に今の話が流れたことに安堵した狛哉であったが……どうやら彼は気が付かなかったようだ。


 前を歩くこだまの足取りがこれまでよりも軽やかになっていることに。そして、彼女が今、彼に見えないところで嬉しそうに微笑んでいるということに。

 気遣いというのはこうやってやるんだぞと、心の中で狛哉には言わない指導を行ったこだまは、主人として飼い犬に模範を見せながら弾む気持ちが表に出ないよう、必死に感情を押し殺して彼に接するのであった。

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