第32話 ハチ公、ご主人様と水族館を楽しむ

「いいね、こういうの。テレビで見るのと実際に目にするのとじゃあ大違いだ」


「本当ね。凄く綺麗……」


 やや大きめの水槽の中に生息するごつごつとしたサンゴ礁と、その周囲を泳ぐカラフルな小魚たちの姿を見つめながら感想を述べる二人。

 館内のBGMと程良い静寂が作り出す神秘的な雰囲気に浸りながら、彼らはゆったりと水族館の展示物を楽しんでいく。


 東京湾を再現した多くの魚がせわしなく泳ぎ続ける水槽の光景に目を丸くしたり、タツノオトシゴやチンアナゴといった魚ではない海洋生物が生息する水槽をじっと観察したり、かと思えばカエルやトカゲといった海の生物ですらない生き物たちの展示をおっかなびっくりするこだまと共に見物したりと、彼女と共に過ごす一時を堪能しながら進んでいった狛哉は、これまでで一番大きな水槽の前に辿り着いた。


「うわ、すっご……!!」


 眼前に広がる、青い海の景色。

 陽光を思わせる輝きに満ちた水槽の中でのびのびと泳ぐ様々な海の生物の姿に狛哉は思わず感嘆の声を漏らしてしまった。


 ひらりひらりとカラフルな体を震わせて蝶のように舞いながら泳ぐチョウチョウウオの群れ。

 大きな体を羽ばたかせ、雄大な泳ぎを見せるエイ。

 岩場の陰に隠れ、時折こちらに顔を見せるウツボ。

 大きな体を海底に横たわらせて微動だにしないトラフザメ。


 他にも名前がわからない無数の魚たちが生息しているそこは、様々な命が織りなす美しい世界。

 壮大で、美麗で、想像を遥かに超える絶景に言葉を失っているのは、狛哉だけではないようだ。


 瞳を大きく開き、眼前に広がる青と白が入り交じった世界をじっと見つめていたこだまが水槽へと数歩歩み寄る。

 右手で分厚いガラスに触れ、水中の光景に感激して恍惚としたため息を漏らした彼女の目の前をダイバーに抱えられたトラフザメが大きな体を揺らしながら泳いでいく。


「ひゃんっ!?」


 突如として自分の前を通った巨大な魚影に驚き、悲鳴を上げながら背後へと飛び退くこだま。

 そこではっとした彼女は小さく頬を膨らませながら振り向くと、その全てをばっちりと見ていた狛哉を脅すようにして口を開く。


「……ハチ。あんた今、何か見たかしら?」


「ん? いいや、何も見てないよ」


「そう、ならいいわ。言っておくけど、このことを言いふらしたりなんかしたら、ひどいお仕置きをくらわせるからね?」


「わかってるって。でも、くくく……! さっきの森本さん、かわいかったよ」


「ハ~チ~? あんた、そんなにあたしにお仕置きされたいのかしら? じゃあ、望み通りにしてあげるわよ!」


 驚いた際に出てしまった素の反応をからかう狛哉の脇腹へと、こだまが握り締めた右拳をぐりぐりと押し込む。

 地味に痛い折檻を食らう狛哉だが、しっかりと手加減されていることでどちらかといえばくすぐったさが勝っているのか、笑いながらこだまへと謝罪の言葉を繰り返し、その行動を止めるよう頼んでいた。


「あはははは! ごめんごめん、悪かったって! 許してよ、森本さん!」


「ふんっ、だ! ちょっと褒めたらすぐに調子に乗って、そんなんだから駄犬って呼ばれるのよ! もっとご主人様の気持ちを汲んだり、恥を搔かせないように努力しなさいよね!」


 ぷんぷんとかわいらしく怒りつつ、唇を尖らせるこだま。

 飼い犬である狛哉を叱責する彼女であったが、恥ずかしさを誤魔化すための怒りであるためかその姿からは全く恐怖を感じない。

 周囲の人々や水槽内のダイバーもそんな二人のやり取りをカップルのイチャつきと見ているようで、温かい視線を向けていた。


「もう、次行くわよ! 次!! ぼさっとしてたら置いて行くから!!」


「えっ、もう行っちゃうの? もう少しここを楽しんでもいいんじゃ――」


「うっさい! ご主人様の命令にははいかYESかワンで返事しなさいって言ってるでしょ! この駄犬ハチ公!!」


 羞恥に耐えられなったこだまは醜態を晒した巨大水槽から逃れるように次の展示スペースへと向かって行く。

 そんな彼女の後を苦笑しながら追った狛哉は、これまでとは打って変わった薄暗い空間へと足を踏み入れた。

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