第七章 またこれから……

 グラーセンの『元』王都・オデルンにある喫茶店・モンデリーズ。通りに面した席に座り、クラウスが新聞を読んでいた。


 この時、オデルンは王都ではなくなっていた。新たに誕生したクロイツ帝国の帝都となり、新たな歴史を歩み出していた。



 グラーセン軍とアンネル軍が激突したサンブールの戦いは、グラーセン軍の勝利に終わった。兵力で上回っていたアンネル軍だが、要塞の陥落とアヴェイロ橋の爆破によって補給線が断たれ、将兵たちの士気は大いに低下していた。アンネル軍はこの状況を打破するべく、正面のグラーセン軍の撃破を目論み、戦いに挑んだ。


 しかし物資が不足していたこと、また後方連絡線を断たれたことでアンネル軍の戦闘能力は著しく低下しており、敵の撃破はほぼ不可能な状態だった。


 それでもなおアンネル軍は戦いを挑んだが、強固な包囲陣を築いていたグラーセン軍は、万全の態勢でこれを迎え撃ち、アンネル軍に打撃を加えた。


 アンネル軍の死傷者が一万に達しようとした頃には、アンネル軍は戦意を完全に喪失した。残っていた弾薬も底を尽き始めたところで、アンネル軍は白旗を掲げて降伏の意志を示したのだった。


 これによりアンネル軍は前線における兵力のほとんどが捕虜となり、この戦争におけるグラーセン軍の優位性が確定することになった。


 こうして、帝国統一戦争における最大の決戦は幕を下ろしたのである。



 戦闘が終わって数日後。クラウスとユリカはジョルジュに連れられて、戦場に近い平原にやって来た。


「ここを真っ直ぐ進めばグラーセン軍の野営地がある。彼らに合流して、本国に帰還するといいよ」


 ジョルジュがそんな風に声をかける。その言葉にクラウスもユリカも驚いた。それはつまり、彼らを解放するということだった。


「いいのか? 私たちは捕虜なのだろう? 解放してくれるのはありがたいが、君はそれでいいのか?」


 クラウスの問いかけにジョルジュは肩をすくめて見せた。


「さすがに友人を捕虜にして楽しむような趣味は持ち合わせていないよ。君たちとは良き敵ではありたいけど、卑怯者と呼ばれたくはないからね」


 そんな風に語ってくれるジョルジュ。どこまでも恐るべき敵であり、とても敵いそうにない相手だけど、そんな彼女に友人と呼ばれ、良き敵と言われるのは、複雑だがクラウスには誇らしいことのように思えた。


 それからジョルジュはユリカに視線を向けた。


「次は負けないからね、ユリカくん」


 その言葉にユリカはニンマリと笑みを返した。


「何度でも、返り討ちにしてみせますわ」


 ユリカの言葉にジョルジュも笑みを返した。


 それが合図になったのか、クラウスたちは平原を歩き始めた。ジョルジュはそれを見送って来た道を帰っていった。彼女が愛する祖国への道へ。


 それからクラウスたちは野営をしていたグラーセン軍と合流。そのまま本国へ帰還する運びとなった。



 オデルン郊外にあるスタール宰相の邸宅。屋敷の中を女給がけたたましく走っていた。彼女は主の部屋に勢いよく飛び込んだ。


「お館様! お嬢様とクラウス様が帰ってきました!」


 執務室で書類の山に埋もれていたスタールは、女給の一言で一気に目覚めた。彼は何も言わず、そのままドアから走って行った。


 彼が屋敷の応接間に行くと、そこにクラウスとユリカがいた。体中汚れていて、傷もついていた。


「おじい様。ただいま戻りましたわ」


 ユリカの一言を受け止めたスタールが彼女に近寄り、そのままユリカを抱きしめた。


「お帰り。旅は楽しかったかね?」


「ええ。とても楽しかったわ」


 そんないつもと変わらない言葉を交わすユリカたち。ただそこに込められた想いは、いつも以上に尊いものであった。


 その時、スタールがクラウスにも声をかけた。


「クラウスくん、ありがとう。話は聞いているよ。ユリカを、孫を助けてくれてありがとう」


「いえ、今回も彼女に助けられました」


 彼らの間で笑い声が響いた。全てが終わったのだと、彼らの笑い声が伝えていた。


「それで閣下。すでにアンネルとの講和に動いていると聞いておりますが、交渉は進んでいるのでしょうか?」


 帰国の途上、グラーセンからアンネルへ講和を呼びかけていると彼らは耳にした。勝利は確定的な状況であり、これ以上の戦いは無益として、早期講和を実現させようとしていた。


 クラウスの問いかけに対し、答えに困るスタールの姿があった。


「うん、実はそれが今一番の悩みでね。あまりアンネル政府からいい答えが返って来ないんだ」


「それは……講和の条件が厳しいということでしょうか?」


 講和の交渉で一番難しいのは、講和の条件が受け入れられるかどうかであった。賠償金や領土割譲など、降伏する側にとって許容できる条件かどうかが問題だった。アンネルから返答がないということは、それだけこちらが提示した条件が厳しいのだとクラウスは思った。


 だが、スタールは首を横に振った。


「いや、むしろこちらは考え得る限り受け入れやすい条件を提示したつもりだ。ほら」


 スタールは手元にある書類をクラウスに手渡した。そこに書かれていたグラーセン側の講和の内容に、クラウスは驚きで目を丸くした。


 領土の割譲はなし。賠償金は歴史的に見てもかなりの少額。しかも賠償金は軍事に費やすことはなく、傷痍軍人への手当や遺族年金に充てること。軍備の制限すら課すことはしないと書かれていた。こんな講和条約は前代未聞だった。


「こ……こんな条件でいいのですか?」


 思わず問い返すクラウス。するとスタールは何でもないことのように返事した。


「うん。だって我々の目的は帝国統一だからね。それだけ達成できれば、他の条件は必要ないよ」


 その一言にクラウスは驚きすらなかった。何が目的でそのためには何が必要で何が必要でないのか。あまりに簡潔な内容にクラウスは思考することすらできなかった。


「まあそれに、アンネル軍はまだ後方に兵力を温存しているからね。下手に厳しい条件を突きつければ、逆に彼らの戦意を刺激してしまうかもしれないしね。交渉が可能なうちに帝国統一をアンネルに認めてもらう。それが私の仕事だよ。まあ勝ち負けをはっきりさせるために賠償金だけは提示させてもらってるがね」


 確かにサンブールでの戦いでは勝利したが、まだ後方にあるアンネル軍の兵力は健在であり、それを相手にするのは厳しかった。講和の機運が高まっている今のうちに統一を成し遂げる。そのためなら寛大な講和もやぶさかではなかった。


「なるほど、仰る通りです。しかし、それほど寛大な内容を提示しても、アンネル側は講和を渋っているのですか?」


「いや、講和自体に問題はないと思う。ただ踏ん切りがつかないというか、講和に至るきっかけがほしいというのがアンネルの本心みたいだ」


「きっかけ、ですか?」


「ああ、サンブールの戦いで敗北したことが講和のきっかけとするには、アンネルにとっては外聞が悪いからね。この状況で講和を結ぶのは国内にも国外に対しても印象が悪い。このまま和平を結ぶわけにはいかないみたいだ」


 確かにアンネル軍はまだ兵力を温存しており、そのような状態で講和を結ぶのは、アンネル国内の世論が沸騰する恐れもあった。アンネル政府もまた、国民世論の顔色を窺っているわけである。


「何かきっかけがあれば彼らも応じてくれると思うんだ。何か講和せざるを得ない状況というか、この状況でも和平を結ばざるを得ない状況になれば、彼らも講和を結びやすくなるはずなんだが」


 戦争は始めるより終わらせるのが難しい。それを肌で実感するクラウスたち。


 とはいえ、どうにかしてアンネルには講和に応じてもらわないといけない。何か方法がないかと考えていたところ、ユリカが声を上げた。


「おじい様。それなら私に考えがありますわ」


「ほう? 何かいい方法があるのかな?」


 その時、ユリカがいつもの笑みを浮かべていた。悪戯な笑みを見せながら、彼女はその考えを口にした。


「神様を巻き込んじゃえばいいと思いますわ」



 グラーセンの南部に位置する国・シェイエルン。かつてクロイツ帝国の構成国だった国。


 グラーセンをはじめ、帝国の構成国のほとんどは宗教的に信徒派を信仰しているが、このシェイエルンだけは聖書派を信仰しており、宗派の違いから対立することもあった。


 そのシェイエルンには教会建築の傑作・ヴィッテルス大聖堂があった。


 その大聖堂の主人、コル神父が一枚の手紙に目を通していた。


「神父様!」


 その時、大聖堂に入ってくるものがいた。


「おお、マヌエルか」


 マヌエルはこの街の青年団を束ねる有力者で、聖書派と信徒派が混在する街を切り盛りしていた。そのマヌエルが息を切らせながら大聖堂にやって来た。


「神父様。あの話は本当ですか?」


「ああ、本当だ。教皇庁からアンネルに向かうように御言葉を賜った」


 教皇庁は聖書派の教会勢力を統治する機関で、宗教世界における皇帝のようなものだった。その教皇庁からの言葉は神の御言葉と同義であり、その命に服する必要があった。その教皇庁からコル神父に次のような言葉が下された。


「グラーセンとアンネルの和平のために、私に戦没者慰霊式典を取り仕切るよう命令が下された。私に両国の講和の仲介役となることを求めておられる」


 話が真実とわかり、マヌエルは驚愕した。講和会議において第三国に仲介を求めることは歴史上何回もあった。しかし、その仲介役を教会が行うというのは異例のことだった。


「しかしどうして教会が講和会議の仲介を? 何かあったのでしょうか?」


「私も政治には疎い方だが、どうやらグラーセン側から秘密裏に教皇庁に仲介の打診があったようだ。おそらく教会が和平を促すことで、アンネルが講和に応じやすくするようにグラーセン政府が考えたようだ」


 アンネルは大陸で最も大きな聖書派の国だった。そのアンネルにとっても教皇庁の存在は大きなもので、宗教的にも政治的にも無視できないものだった。


 その教皇庁が両国に和平を促している。それはアンネルにとっては無視できないものであり、同時にアンネルが講和に応じるきっかけにもなった。


 グラーセン政府は内密に教皇庁に接触し、講和会議の仲介をしてもらうことで、アンネルにも講和に応じやすい状況を作ろうとしたのだ。


 教皇庁にとってもこの話はありがたいもので、大陸における教皇庁の権威を世界に示したいというのもあった。この講和で重要な役割を果たせば、教会の威信を示すことができる。


 そしてその講和会議の会場で、両国合同の戦死者慰霊式典が行われることが決定し、その式典をコル神父に任せるという教皇からの手紙が届けられたのだ。


「まさか本当に……すごい話になりましたね」


 耳にした時は信じられない気持ちだったマヌエル。そんな話があるのかと、理解が及ばなかった。


 その時、コル神父が静かに笑った。


「どうしました? 神父様」


「ふふ、どうやらこの話は、あの御方が考えたものみたいだぞ」


 コル神父が『あの御方』と呼ぶ人物。それに心当たりがあるマヌエルはその名前を口にした。


「まさか、クラウスさんたちが?」


 以前クラウスたちは、この街に派遣されたことがあった。当時この街では、聖書派と信徒派との間で激しい対立が起きていた。クラウスたちはその問題の解決のために尽力し、両宗派の関係修復を実現させていた。その時、コル神父やマヌエルとも知己の仲となり、今でもコル神父らは彼らに恩義を感じていた。


 驚くマヌエルにコル神父が手元にある手紙を差し出した。


「ユリカ殿からの手紙だ。平和のために協力してほしいと書かれてある」


 手紙を受け取って中を読むマヌエル。そこには教皇庁に講和会議の仲介を持ちかけたこと。慰霊式典にコル神父を推薦したことが書かれていた。


 手紙の内容にマヌエルは驚きはしたが、ユリカなら考えそうなことだと、不思議と納得してしまった。


「それで、神父様はどうなさるのですか?」


 マヌエルの問いかけにコル神父は静かに口を開いた。


「教皇庁からの指名もあるが、それ以上にこの戦争で多くの人間が亡くなった。国や宗派は違えど、彼らは全て神の子だ。彼らの霊を慰めるのに、断る理由などない」


 シェイエルンは聖書派と信徒派が隣人として生きる国だ。その国で生きてきたコル神父にとって、宗派や国が違っても、全て等しく神の子なのだ。それを慰めるのは、神の使徒である神父にとっては当たり前のことだった。


「それに、ユリカ殿からのお願いなのだ。お前なら喜んで引き受けるのではないか?」


 そう言って楽しそうに笑うコル神父。それに応えるようにマヌエルも笑みを零した。


 コル神父が見上げると、そこには神の姿を模した石像が、こちらを見守るように見つめていた。


「神よ、感謝します。私にこのような巡り合わせをいただけたことに」



 ユリカの目論見通り、教皇庁はアンネルとグラーセンに講和会議の仲介を申し出た。戦争を終わらせたいグラーセンはもちろんだが、アンネルもこの申し出を粛々を受け止めた。


 本音では戦争を終わらせたいアンネルだが、敗北を重ねた状態で講和に臨むのは、面子や外聞の問題もあり、そう簡単に受け入れられないのも事実だった。しかし、大陸でも最大の聖書派の国であるアンネルにとって、教皇庁からの申し出は神の御言葉と同義であり、それを拒否することはできなかった。


 教皇庁からの言葉に仕方なく応じるという形で、アンネルはグラーセンとの講和を受け入れることを決定した。


 講和会議は戦場となったサンブールで行われた。両国の代表団が面と向かい合い、講和条約について話し合われた。当初のグラーセンからの申し出の通り、領土割譲は行わないこと。賠償金は軍事費として扱わず、負傷者への手当や遺族年金に使われること。そして戦後統一することになるクロイツ帝国を国家として承認してもらうことが提示され、アンネルはその条件に概ね合意した。


 逆にアンネルからは捕虜になったアンネル軍の将兵の全てを本国へ帰還させること。陥落したロレーヌ要塞の返還とアンネル領に駐留しているグラーセン軍の即時撤退を要求し、グラーセンもこれに応じた。


 そうして講和会議が終わろうとしていた頃、サンブールの戦場跡で、戦没者慰霊式典が行われた。コル神父は両国の将兵に対し、式典に参加するよう呼びかけた。憎しみを超えて和平を結ぶべきだと訴えた。


 さすがに銃を向け合い、殺し合いをしてきたのだ。神父の言葉であっても、簡単に応じることは出来なかった。


 参加を拒否する人間もいる中、それでも式典に出席する将兵たち。この前まで殺し合った相手が目の前にいる。憎しみを向ける者や、背を向ける者もいる中、グラーセン軍とアンネル軍の間で、小さな語らいが始まった。


 グラーセン兵士はこの戦争で、兄弟が戦死したことを話した。アンネル兵士は大事な部下がほとんど戦死したことを話した。


 他にも何人かの将兵たちの間で語らいが広がっていった。それぞれの悲しみを語り合い、お互いに慰め合う人々。その光景に眉をひそめる者もいたが、それでも彼らの語り合いを止めようとする者はいなかった。


 この時、彼らは銃を向け合った敵ではなく、共に悲しみを抱く隣人となったのだ。


 決して綺麗事だけではない。彼らのように慰め合うのはほんの一部であり、憎しみや恨みが完全に消えることはない。


 だけど、そこで彼らが語り合ったこともまた、消えることのない事実なのだ。


 この小さな語り合いが、これから彼らが歩むであろう歴史に何かをもたらしてくれるだろう。


 今はただそれだけを信じるしかないのだ。


 こうして慰霊式典は幕を閉じた。その後、講和条約も早期に調印が実現した。グラーセンはアンネルに帝国統一の承認を最優先に求め、アンネルもそれを承認。概ねグラーセンの要求通りとなった。グラーセンに捕らえられたアンネル軍の捕虜も早期に本国への帰還が約束された。


 講和条約が実現したことで、ローグ王国やアスタボ帝国などの列強も帝国統一を承認した。


 あとは統一を宣言するだけとなった。



 そうして、待ち望んだ日がやってきた。




 グラーセン王都・オデルンにある王宮。そこに多くの人が集まった。階級の区別なく、多くの市民が王宮の広場に集まっていた。


 この日、王宮でクロイツ帝国の統一式典が行われようとしていた。広場は人々の熱気に包まれており、帝国が統一される瞬間を心待ちにしていた。


 その光景をクラウスとユリカが遠くから眺めていた。彼らは二人きりでそこに立ち、その光景に見入っていた。


「やっとこの日が来たわね」


 感慨深そうに呟くユリカ。彼女が願い、待ち望んだ帝国統一が実現する。目の前の光景に彼女は微笑みを浮かべていた。


「やっぱり嬉しいか?」


 横からクラウスが問いかける。この日のために彼女は世界を旅し、戦い、走り回ったのだ。当然嬉しいだろうと思っての質問だったが、彼女の答えは意外なものだった。


「正直言うと、不思議な感覚だわ。嬉しいとは思うけど、こんなに早く達成できるとは思ってなかったから、むしろ戸惑っているわ」


 確かにその通りかもしれない。クラウスは彼女に出会うまでは、帝国統一なんて考えもしていなかった。そんな奇跡みたいなこと、起きるはずがないと思っていた。


 それがユリカと出会い、彼女が語る統一への願いを聞いてから共に世界を旅して、こうしてこの日を迎えた。


 こんなにも早く実現できるとは思ってもいなかった。もはや呆気ないとすら思えるほどだった。


 だけど、ユリカと出会った時、彼女は帝国統一の夢を語った。彼女が語るその夢にクラウスは胸を熱くした。彼女が語ると、その夢が実現する予感がした。


 そうして今日、彼女はその夢を実現することに成功したのだ。誰もが夢と思い、あり得ないと考えていたことを、彼女は成し遂げたのだ。


 クラウスは彼女に伝えた。胸を張れと。


「これは君が成し遂げたことだ。胸を張って喜べばいいんだ」


 クラウスの言葉に目を丸くするユリカ。すると彼女はいつもの悪戯な笑みを浮かべた。


「ありがたいけど、少しだけ言葉が足りないわね」


 そんな彼女の言葉に首を傾げるクラウス。今の言葉に何が足りないのか、クラウスは思い至らなかった。怪訝な顔をするクラウスにユリカが満面の笑みを浮かべて言った。


「これは『私たち二人』で成し遂げたのよ。間違えたらダメよ」


 私たち二人で。まさかそんなことを言われるとは思っていなかったので、クラウスは固まってしまった。そんな彼にユリカがさらに語り掛ける。


「あなたがいたから、この日を迎えることができたのよ」


 アンネルで彼女に出会って、共に世界を旅してきた。ユリカがいなければ、統一を成し遂げることは出来なかっただろう。全ては彼女が成し遂げてきたとクラウスは思っていた。


 だけど、それはユリカも同じ気持ちだった。彼女もクラウスと出会い、隣に並んで歩いてくれた。彼がいなければ、この日を迎えることは出来なかったかもしれない。


 彼女が抱いていた夢は、いつのまにか二人の夢になっていた。同じ夢を見つめていた二人は、こうして夢を実現させることができたのだ。


「だから、あなたも胸を張って喜びなさい」


 そんな風に彼女はクラウスに笑いかけた。


 その言葉を受け止めて、クラウスは何故か顔を背けた。


 彼女の言葉は正直嬉しかった。自分も彼女の夢に参加できたことが誇らしくさえあった。


 だけど、それを素直に認めるのは悔しいクラウスは、にやけそうになるのを見られたくなくて、彼女から視線を外した。


 そんな彼の様子にユリカは面白そうに笑うのだった。


 その時、広場に拍手が鳴り響いた。




 王宮前広場には多くの人が集まっていた。正装姿の貴族や市民。新聞記者や軍人。その中には戦場で負傷したのか、薄汚れた包帯を巻いたまま、この場に立つ者もいた。


 階級や出自も、立場も何もかもが違う人々だが、誰もが同じように顔を輝かせていた。今日この日、この場所にいられることを誰もが誇らしそうにしていた。


 この日、彼らは新たな歴史の始まりの目撃者となる。誰もがその瞬間を待っていた。


 その時、王宮のバルコニーのドアが開いた。そこから現れたのは国王フリード。その後ろからは宰相スタール。それに続くように閣僚や高級将校、さらに帝国の構成国となる各国の代表がバルコニーに姿を現した。


 国王たちの登場に歓呼の声と拍手が巻き起こった。それに応えるように国王たちは片手を上げて彼らに手を振った。


「みなさん、お静かに!」


 スタールの声が響き渡る。その声に従うように観衆は声を静めた。それを見届けてから、スタールはその場にいる誰にも届くように。世界中に届くように高らかに宣言した。


「宣言します。今日ここに、クロイツ帝国が再建されることを。かつて同じ帝国の一員だった国が一つとなり、新たにクロイツ帝国として出発することを。そして」


 スタールが隣に立つフリードを見た。それから彼はもう一度、高らかに声を上げた。


「この国にいる全ての人々の総意により、新たな帝国の皇帝に、グラーセン国王・フリード国王陛下が即位されることをここに宣言します」


 その言葉を受けて、フリードが前に出た。彼はいつものように毅然とした態度で、観衆に語り掛けた。


「スタール宰相の布告により、グラーセン国王たる自分は、多くの人々の総意を受け、ここに帝位に就くことを宣言する」


 この瞬間、フリードは新たなクロイツ帝国皇帝となった。新たな皇帝、新たな君主の誕生を前に、人々の間から歓声が上がった。誰もが万歳を叫び、皇帝の即位を祝った。


 今日この日、新たな歴史が始まった。クロイツ帝国の統一により、世界は新たな時代が始まったのだ。


「みなさん」


 その時、スタールが再び前に出た。


「どうか、私の話にお付き合い頂きたい」


 その言葉を受けて、観衆の声が静まった。観衆の視線がスタールに注がれた。それを見て、スタールがゆっくりと口を開いた。


「かつてのクロイツ帝国は、数十年前の皇帝戦争により消滅しました。かつて帝国の仲間だった構成国はバラバラになり、もはや修復不可能なほどに傷だらけになった。かつての構成国はそれぞれ新しい道を進み、違う生き方をしてきた。そうして数十年。もはや帝国の面影はなくなり、帝国のことを覚えている者はいなくなってました」


 かつては大陸に君臨していた帝国も消滅して久しかった。帝国の名は歴史用語となり、誰もその存在を覚えてはいなかった。


「帝国の統一など、夢ですら語られることはなく、十年前ならその夢ですら笑い飛ばされていたでしょう。ですが、その夢を本気で願い、叶えようとする人も、確実にいました」


 クラウスが隣にいるユリカに視線を向けた。スタールの言うように、ここにいるのだ。その夢を本気で願い、信じ、追いかけ続けた少女が。


「いつしか彼らが語るその夢は、人々の間に広がっていきました。彼らが語る統一の夢は人々の中に広まり、彼らも同じ夢を見るようになりました」


 ユリカがクラウスに視線を向ける。ユリカの語る夢は、いつしかクラウスの夢になっていた。彼らは同じ夢を共に追いかけ、共に旅してきた。


「今日この日を迎えられたのは、同じ夢を叶えようと、共に追いかけてきた人々の想いが叶えたものだと、私は思います。多くの人が共有したこの夢は、国を変え、世界を変え、歴史を変えました。帝国統一は多くの人々の願いの結晶であり、彼らの夢が成し遂げたものだと」


 ユリカだけではない。きっと彼女と同じように、統一を願った人はいただろう。かつては誰も信じられなかった統一の夢。その夢を語る彼らの言葉に、多くの人が同じ夢を見るようになった。


 その願いの渦は大きくなり、そして今日、彼らはその夢を実現を目の当たりにしているのだ。


 今日この日は、帝国統一の日であり、人々の願いが叶えられた日なのだ。


「私はここに願います。この夢がいつまでも続くことを」


 そう言って、スタールは頭を下げた。ここに彼は願った。彼らの夢、帝国がいつまでも続くことを。もう二度と、この国が消えないことを。


 その瞬間、観衆の間で万歳が叫ばれた。涙を流す者や、喜びに手を突き上げる者もいた。


 永遠に続くとすら思える人々の声に、スタールとフリードが手を振って応えた。それに呼応するようにさらに人々の間で万歳の声が大きくなっていった。


 その光景を遠くから、クラウスたちはじっと見つめた。その光景を忘れないように、目に焼き付けるように。




 即位の日から一か月。クラウスは帝都となったオデルンで、喫茶店モンデリーズでコーヒーを飲んでいた。通りでは人々がいつものように街を歩いていた。


 今日もオデルンはにぎやかで、家族連れや恋人たちが楽しく街を歩く姿が見受けられた。


 その光景を見て、クラウスは手元にある新聞を広げた。


「隣、いいかい?」


 と、聞き覚えのある声がクラウスの耳に響いた。彼が顔を上げると、ジョルジュがそこにいた。


「久しぶりだね。傷は治ったのかい?」


「……ジョルジュか?」


 いきなりのことに驚くクラウス。アンネルとの戦争が終わってまだ日も浅い。アンネル国民の入国制限は緩和されているが、それでも情報部員であるジョルジュが入国していることに、クラウスは驚きを隠せなかった。


「よくグラーセンに来れたな。入国審査は合格したのか?」


「ああ、問題ないよ。合格するには『コツ』がいるのさ。私にはお手伝いしてくれる友人が多くいるからね」


 きっとジョルジュのことだ。グラーセン側に秘密の仲間を作っていてもおかしくはなかった。


「それに、私にとってアンネルもグラーセンも関係ない。私はどこへだって行くし、行きたいところに私は行くのさ」


 そう言って彼女はクラウスの前に着席した。すでに注文を終えていたのか、給仕がジョルジュのところへコーヒーを置いて行った。


 それを一口飲んでから、ジョルジュが語り掛ける。


「今日はユリカくんはいないのかい?」


「いや、ここで待ち合わせをしているんだ。もう少ししたら来ると思うから、話がしたいなら待っているといい」


「ふふ、魅力的な申し出だが、今日は君にだけ話がしたいんだ」


 そう言ってジョルジュはクラウスに視線を向けた。


「まずは帝国統一おめでとう。これは紛れもなく君たちの勝利だ。惜しみない拍手を送らせてもらうよ」


 そう言って微笑みを向けてくるジョルジュ。その言葉に偽りがない事がわかるクラウスは、逆に不思議に思った。敵である自分たちの勝利を祝福するというのは、どういう心境なのか。


「ありがたいことだが、どうしてそんなことを?」


「言っただろう? 私たちは敵同士ではあるけど、それ以上に君たちとは友人でありたいと。そんな友を祝福したいと思うのは当然の心境だと思うけどね」


 そんなものだろうか。クラウスは怪訝な顔をしていると、ジョルジュはさらに語り掛けてきた。


「それに潔く負けを認め、相手の勝利を祝福するのも必要な美徳だと思うけどね。私はそれほど高潔な人間ではないけど、矮小な人間にはなりたくはないのさ」


 そう言って笑いかけてくるジョルジュ。確かに彼女は卑屈さや矮小さといったものは似合わない。そういう意味では、やはりユリカと似ているとクラウスは思った。


「それに、今は君たちの勝ちだが、私も私の夢を諦めたわけではない。私もアンネルも完全に屈服はしていないよ。いつかもう一度、君たちに挑ませてもらうから」


 そう言いながら、クラウスを指差すジョルジュ。彼女の夢、それはかつてのゲトリクス皇帝の時代をもう一度アンネルにもたらすこと。その夢のために彼女はこれからも世界を駆け巡るのだろう。


 この世界にいれば、いつかどこかで鉢合わせることもあるだろう。また敵として相まみえることもあるかもしれない。


 ならば、クラウスたちも負けられなかった。クラウスは笑みを浮かべながら答えた。


「私たちも負けない。今度こそ勝たせてもらうよ」


 そのクラウスの言葉にジョルジュはにんまりを笑うのだった。


「今日はそれを伝えに?」


「それもあるけど、実はもう一つ。こっちの方が本命かも知れない。クラウスくん、君はリタくんのことを覚えているかい?」


 リタという名前にクラウスの意識が覚醒する。リタとは以前、参謀本部で働いていた女給で、彼女はジョルジュに協力して、参謀本部の機密文書を持ち出してアンネルに逃亡していた。リタにはよくお世話になっていたクラウスとしては、忘れられない名前だった。


「……彼女は、元気なのか?」


「ああ、元気だよ。彼女のお母様も病気が治って、二人とも元気に過ごしているよ」


 リタがジョルジュに協力したのは、病気の母親を治療してもらうためだった。それを条件にジョルジュはリタに協力を持ち掛け、仲間に引き込んだのだ。アンネルに逃亡した後、リタたち親子はジョルジュに保護される形でアンネルで生活しているはずだった。


「実はリタくんのことでお願いがあるんだ」


 ジョルジュが話し続ける。お願いとは何なのか、クラウスが身構えていると、ジョルジュは話の続きを口にした。


「リタくんたちを、グラーセンに帰国させてあげたいんだ」


「……何だって?」


 思わずそんな呟きがクラウスから零れた。わざわざ仲間に引き入れたリタを帰国させたいというジョルジュの言葉が、クラウスには不思議に思えた。するとジョルジュが話を続けた。


「実はリタのお母様がグラーセンに帰りたがっているようでね。病気も治って元気にはなったけど、その代わりにホームシックになったみたいなんだ。それを聞いているリタくんも、どうにかしてグラーセンに帰ることができないかと、悩んでいるようなんだ」


 その話自体は納得できる。故郷から離れれば、望郷の念に駆られるのも無理からぬ話だ。しかし、ジョルジュはそれでいいのか、クラウスは疑問だった。


「君はそれでいいのか? 危険な目を冒してまで連れて帰った協力者だろう?」


 するとジョルジュは何でもないこととばかりに笑った。


「私はね、可愛い女の子が大好きなんだ。可愛い子の願いは叶えてやりたいと思うのは当たり前のことさ。それに、グラーセンとの戦争も終わったんだ。これ以上我々の対決に巻き込むわけにはいかないと思うのさ」


 ジョルジュのその言葉に理解できないではなかった。グラーセンとアンネルの戦争も終わり、束の間ではあるが平和な時を迎えているのだ。これ以上リタを巻き込むのも止めるべきだった。


 だが、それならそれでクラウスにはもう一つ疑問が浮かんだ。どうしてジョルジュはその話をクラウスに持ち掛けたのか。


「それはわかったが、どうして私にお願いするんだ?」


「簡単に言うと、君にはリタくんを守ってもらいたいのさ。どう言い繕っても、リタくんは君たちにとっては裏切り者だ。そんな彼女がグラーセンに戻ればどんな目に遭うか。絞首刑は無いにしても下手をすれば一生監獄での生活だ。私としてもそれは避けたい。だから君のコネを使って彼女を守ってほしいんだ」


 リタは参謀本部の機密文書を持ち出した。それは確実に国家反逆罪であり、もしこのままグラーセンに戻れば、彼女はその罪で逮捕されるだろう。


 そうなればジョルジュの言うとおり、重罪人として監獄での生活を強いられるかもしれなかった。


「私が巻き込んでしまった形だからね。せめて無事に帰国させるのが私の果たすべき責任だと思う。だから君に協力してほしいんだ」


 あくまでリタは争いに巻き込まれたのであって、争いが終われば無事に帰してやりたい。それがジョルジュの考えだった。


 彼女は自分を高潔ではないと言っていた。ただどこかお人好しなところがあるのも否めなかった。これで情報部員として世界を相手にしているのだから、クラウスはそのギャップについ笑うのだった。


「わかった。どこまできるか保障できないが、できる限りのことはしよう」


 さすがに無罪放免というのは無理だろうが、せめて減刑だけでも叶えばいい方だろう。それで十分だったのか、ジョルジュは嬉しそうに笑った。


「ありがとう。感謝するよ」


 そう言って彼女は残りのコーヒーを一気に飲み干して席を立った。


「そろそろ行くよ。私はまた世界を旅することになる。またどこかで会えるのを楽しみにしているよ」


 彼女はこれからも世界を旅するのだろう。彼女が抱く夢のために。


 やはり彼女はクラウスにとって絶対の敵対者であり、恐るべき敵だった。


「また会おう。愛しの君よ」


 そう言って、鮮烈な笑みをクラウスに刻みつけて、ジョルジュはその場を後にするのだった。




「クラウス」


 ジョルジュが立ち去った直後、後ろからユリカが話しかけてきた。


「さっきの、もしかしてジョルジュ?」


「ああ、彼女だよ。少し話をしていたんだ」


 クラウスはそう言って、ジョルジュとの会話の内容をユリカに伝えた。


「そう、ジョルジュがそんなことを……。彼女もこれから旅に出るのね」


「ああ。またどこかで会おうと言っていたよ」


「彼女らしいわね」


 ユリカが苦笑いを浮かべる。しかしそこには嫌なものは混じっておらず、どこか心地良い感情が漂っていた。


 おそらく、ユリカも楽しみにしているのだ。ジョルジュと再会するのを。


 きっとどこかで再会することになる。その時も敵であり、そして友人として語り合うことになるのだ。ユリカはその時が来るのを楽しみにしているのだ。


 本当に似た者同士だと、クラウスは思うのだった。


「さ、私たちも行きましょう。ジョルジュには負けられないわ」


「ああ、今度の目的地はサヴィア王国だったか?」


「ええ。サヴィア王国との間で新たな通商条約を結ぶのに、現地の外交官に協力するよう言われているわ。早く行きましょう」


 そう言って楽しそうにするユリカ。


「何だか楽しそうだな。そんなにサヴィアに行くのが楽しみなのか?」


「それはそうよ。サヴィアはアルジェ海の海産物が有名なのよ? どんな美味しいものがあるのか、今から楽しみだわ」


 確かにサヴィアでは海の幸が有名だ。きっとその料理も絶品に違いなかった。


 戦争が終わってからユリカの治療が続き、先日彼女の味覚障害が完治した。帝国が統一してから、これが久しぶりの旅立ちだった。


 これまで美味しいものを満足に食べられなかったのだ。これからどんな食べ物を口にしようか、ユリカは楽しみで仕方ないようだった。


「さ、早く行きましょう」


「わかったから落ち着いてくれ」


 数歩先を歩くユリカを追いかけるクラウス。以前と同じように彼女に振り回されるクラウスは、やはりこの光景が当たり前であり、やはり楽しいと感じていた。


 またこれから旅に出る。クラウスもそれがとても嬉しくて、つい顔がにやけていた。


 その時、ユリカが彼に振り向いた。


「さあ、行きましょう! 早くしないとおいて行っちゃうんだから!」


 そう言って走り出すユリカ。そんな彼女をクラウスはやれやれといった様子で追いかけるのだった。

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