第六章 冒険
牧歌的な平原が広がっていた。遠くまで見渡せるほどに晴れ渡った青空。その青空と平原を区切るように、遠くに地平線が流れていた。
その平原を数百人の一団が歩いていた。それはグラーセン陸軍の補給部隊で、サンブールにいる前線部隊に物資を運んでいた。
数百の兵士と、それと同じくらいの数の荷馬車が長い列を成して、アンネル領を歩いていた。
その中にある一台の荷馬車に、クラウスとユリカが乗っていた。乗っていると言っても、彼らの周りにあるのは前線に届ける物資などで、医薬品や毛布などが彼らを取り囲んでいた。
列車を降りた後、クラウスたちは前線に向かう補給部隊にお願いし、途中まで同行させてもらうことになった。
本当は彼らと共に歩こうとしたが、指揮官の計らいで荷馬車に乗せてもらうことになった。
自分たちだけ馬車に乗るのは気が引けたが、兵士たちも交代で馬車で休憩しているので、気にしないでくれとのことだった。
正直ここまで急いできたので疲れていた。それにユリカの体調もまだ万全とは言えないので、申し出に甘えることにしたのだ。
鉄道と違い、ゆっくりと進む荷馬車の旅。そこから外に目を向けるユリカ。どこか懐かしそうな顔になっていた。
「そういえば、アンネルの光景を見るのは、あの日以来ね」
二人が出会ったのはアンネルの首都・マールだった。そこで任務を終えた二人は、すぐにグラーセンに帰国することになった。
二人がアンネルに入るのは、その日以来だった。
「そうだな。もう二度と来れないと思っていたが、こんな形でまた来ることになるとはな」
感慨深く頷くクラウス。人生に台本や脚本があるとするなら、こんな人生を台本にできるのは神か、正気を失った作家くらいだろうとクラウスは思った。
ただし自分が主役の脚本だと、あまり流行らないだろうなと、クラウスは苦笑するのだった。
外を眺めてみる。首都・マールのような華やかさや、近代的な建物は何一つとしてない。昔ながらのアンネルの田園風景だけがそこにあった。
だが、その平和な光景も、かつては戦場になったことがあった。かつてゲトリクス皇帝を中心とした皇帝戦争で、ここでも軍隊が睨み合い、砲火を交えたことがある。
「こんな場所でも血が流れたことがあるのよね」
「ああ。今でも当時の砲弾が見つかる時があるらしい」
皇帝戦争が終わってすでに数十年が経っている。それほどの時間が経っても、皇帝がここで戦った証が見つかることがある。
その皇帝が駆け抜けた戦場を、今は彼らがのんびりと歩いている。不思議な話だった。
その時、補給部隊の将校が顔を覗かせてきた。
「お二人とも。アルデュイナに着きました」
将校の声に導かれ、馬車から降りる二人。それから二人は、目の前に広がるアルデュイナの森に視線を向けた。
それはあるがままの森だった。人の手が入らず、自然の力と時の流れに身を委ねてきた森だけがあった。
「この森を真っ直ぐに進んで、その先を抜ければヴィオルは目の前にあります。何事もなければ夜までには到着するはずです」
将校の説明を受けながら、二人は目の前の森をじっと見つめた。
とにかく深そうな森だった。どれほどの大きさなのか、その場からは想像できなかった。
クラウスは昔読んだお伽話を思い出した。魔女が支配する魔法の森があり、一度に入れば生きて出てこられないと言われている深い森。
今目の前にあるのは、その魔法の森ではないのかと、クラウスはそんなことを考えていた。
「森には時々ヴィオルの住民が狩猟にやって来るそうです。見つかると厄介ですので、気を付けてください。それと、こちらを」
将校はそう言って、クラウスたちに小さな小包を差し出した。
「これは?」
「クラビッツ少将の命令書に、お二人に物資を分け与えるよう指示がありました。受け取ってください」
本当なら前線部隊に送り届けるための物資のはずだ。少将の命令とは言え、貴重な物資を分けてもらうことに戸惑うクラウス。そんな彼の心情を察したのか、将校が笑みを浮かべた。
「安心してください。前線の補給部隊は節約上手ですから、二人分くらいはやりくりできますよ」
そんな軽口を交わす将校。その心遣いにユリカも笑みを返した。
「ありがとうございます。大事に使わせてもらいますわ」
小包を受け取るユリカ。そんなユリカの笑みに将校も満足そうに笑ってくれた。
「それでは、自分たちはこのまま行きます。良い旅を」
「はい。お互いに」
そう言ってお互いに敬礼を交わすユリカと将校。その様子を見ながら、そばを歩いて行く将兵たちも、ユリカたちに向かって敬礼を示した。
その応援が、クラウスの胸を熱くしてくれた。そんな彼らをクラウスとユリカは手を振って見送るのだった。
「……さ、行きましょうか」
そう言って振り向くユリカ。それに続くようにクラウスも振り向く。
彼らの前には、アルデュイナの森が広がっている。まるで呪われた森のように、薄暗い森が目の前にあった。
クラウスたちはその森へ足を踏み入れた。背中には彼らを見送る補給部隊の将兵たち。
多くの人がクラウスたちを応援してくれた。クラビッツもスタールも、その他多くの人たちが力を貸してくれた。
彼らの想いに応えるために。そして何より、自分たちの責務を果たすために、クラウスたちは前に向かって歩み始めた。
アルデュイナの森は、人の手が入っていない森だ。整備された道は当然なく、目印となるようなものは何一つとしてない。自然の迷宮とでも言うべきものだった。
クラウスたちはその森の中を歩く。木々が生い茂り、足元には枯葉が降り積もっており、何度も足を取られそうになった。
「おっと」
「大丈夫?」
「ああ、すまない。つまづいただけだ」
枯葉に隠れている石や木の根っこに足を引っかけたりしてしまう。
その時、ユリカがクラウスを見つめた。彼女の視線がクラウスを上から下へ、観察するように捉えていた。
「どうした? どこか変なところでもあるのか?」
「変ではないけど、その格好で森を歩くのは危険よ。準備してこなかったのかしら?」
呆れたように問いかけるユリカ。今のクラウスは普段着ているスーツ姿であり、少なくとも森を歩いたりするには不向きな格好だった。
どうしてそんな格好なのか。ユリカの指摘にクラウスは気まずそうな顔を見せた。
「仕方ないだろう。参謀本部で君の手紙を受け取って、そのまま君を追いかけ来たんだぞ。準備する余裕なんてなかったんだ」
参謀本部でクラビッツに命じられて、彼は何も準備せずにここまでやって来た。余裕がなかったというより、何も考えずに彼女を追いかけたと言うべきかもしれない。
実際それくらい取り乱していたし、クラビッツと言い合いになるくらいだった。普段の彼ならそんなことはしないだろう。
それもこれも、ユリカが自分を置いて行ったからだ。クラウスはそう言いたかったが、素直にそのことを認めたくはないので、それ以上何も言わなかった。
そんな態度が逆にわかりやすかったのか、ユリカがニンマリと笑みを浮かべた。
「私がいなくなって、寂しかったのかしら?」
悪戯っぽく笑うユリカ。そんな彼女の笑みが悔しくて、クラウスは何も答えなかった。
その様子につい笑ってしまうユリカ。彼女はそのまま彼に近づいて、彼の前で屈んで見せた。
「ちょっとじっとしてちょうだい」
「あ、ああ……」
何事かと戸惑うクラウス。するとユリカは靴下の中にズボンの裾を入れ込んだ。
「はい。いいわよ。これで少なくとも裾が引っかかったりすることはないわ」
そう言ってニッコリと笑うユリカ。その笑みを見ることができなくて、クラウスはつい横を向いてしまった。
「あ、ああ。すまない」
「どういたしまして」
そうって立ち上がるユリカ。すると今度はクラウスがユリカの姿に視線を回した。
「そういえば君のその格好は乗馬服か? 君の私物か?」
乗馬用のジャケットに足にはひざ下まである長ブーツ。乗馬服とわかるその出で立ちは、不思議とユリカに似合っていた。
「ええ、そうよ。よくお家に帰った時は領地を馬で駆けていたわ。これはその時からのお気に入りで、森に入ることがわかっていたから着てきたの。こっちの方が動きやすそうだったから」
クラウスは以前聞いたことがある。ハルトブルクの領地を馬で駆けまわった時の話を。その時の彼女はとても楽しそうで、懐かしそうな顔をしていた。
「そういえば、あなたは馬に乗ったりしないの?」
ユリカが問いかけてきた。特に意味のない、純粋な問いかけのようだった。
「馬か……あまり乗ったことはないな。昔は軍人に憧れた時期もあったから、騎兵隊のまねごとをしていたよ。だけど、どうも馬に嫌われるというか、息が合わないことが多かったな。下手でも上手でもないって言われていたな」
クラウスも嗜みとして馬に乗ることもあった。だけど何故かいつも馬と呼吸が合わず、馬は窮屈そうに走ったりしていた。
そんなクラウスの話を聞いて、ユリカが笑い出した。
「どうした? どこかおかしかったか?」
「いえね。その光景を想像するとおかしくて。たぶんだけど、馬もあなたの無愛想な顔を見て、顔色を窺っていたんじゃないかしら?」
愉快そうに笑い続けるユリカ。そんな彼女の言葉を否定できず、クラウスも苦笑いを浮かべた。
「よく父親にも言われたよ。馬は人の感情を感じ取るから、そんな暗い顔をしては怖がるって。当時の自分は暗い顔をしている自覚がなくて、言われていることが理解できなかったよ。結局馬を乗りこなすことは出来なかったな」
今なら父の言うこともわかる。笑うというのがどれほど大事なことか。
そんなことを考えていると、ユリカが顔を覗かせてきた。
「ねえ、それなら今度私の家に来た時、私が乗馬を教えてあげましょうか?」
「え? 君が?」
名案とばかりに笑うユリカ。そんなことを言われるとは思っていなかったので、クラウスはつい驚いてしまった。
「ええ。私、これでも教えるのは上手なのよ。それにハルトブルク家が所有する馬が何頭かいるから、きっとあなたを好きになる子がいるはずよ。いつかハルトブルク家に来たら案内してあげるわ」
「そうか。それは楽しみだな」
馬に好かれる自分というのは想像できないが、彼女に教えられるのであれば、今度こそ上手に乗れるようになるかもしれない。
そう思うと、今度こそ上手に乗れる気がするクラウスだった。
「……ふふ、変なの」
その時、ユリカが小さく笑った。
「変て、何がだ?」
「いえね。未来の話をしているのが、なんだかおかしくて」
そう呟きながら前を歩くユリカ。そのまま彼女は話を続けた。
「ここに来る前は、もしかしたら死ぬかもしれないって思っていたし、その覚悟もしていたわ。それなのに、今はあなたと未来の話をしているのが変だと思って」
そう語るユリカをじっと見つめるクラウス。その表情から彼が何を言いたいかわかった。
「あ、勘違いしないで。今は生きて帰るって決めてるわ。でも、ちょっと前まで死ぬ覚悟をしていた人間が、今は生きて帰った後のことを話しているのが、なんだかおかしくて、バカバカしくて」
「まあ……言いたいことはわかるが」
実際彼女の覚悟は相当なものだったはずだ。それは鋼よりも硬く、溶鉱炉より燃え上がった覚悟だっただろう。
そういう時の彼女の想いは決して揺るがないことを、クラウスは思い知っていた。
その時、ユリカが振り返った。彼女は柔らかく微笑んで、クラウスに笑いかけた。
「だけどね、死ぬ覚悟をしていた時よりも、今みたいに生きて帰るって考えると、そっちの方が作戦を成功させる自信が強くなったわ。自分でも不思議だけど、上手くいく気がするの」
ユリカの瞳が真っ直ぐにクラウスに向けられた。
「これもあなたが、私を追いかけてきてくれたおかげかしらね」
その時のユリカの笑みがあまりに力強くて、クラウスも力をもらえる気がした。
そんなユリカの言葉を受けて、クラウスは嬉しく思った。自分と未来を共有してもらえること、生きて一緒に帰ろうとしていることが、とにかく嬉しかった。
そんな風に思っていることなど、絶対に言えない。そんなことが知られたら、きっと彼女は自分をからかうだろうから。
「……そうか。それならよかった」
だからクラウスは、それだけ返すので精いっぱいだった。だけど、それだけでユリカには十分だったのか、彼女はニンマリを笑みを零すのだった。
「まあ、それなら生きて帰るためにも作戦を成功させないとな。早くヴィオルまで急ごう」
そう言って一歩踏み出すクラウス。
その瞬間だった。クラウスは重力がなくなったような気がした。天地が逆転し、世界が大きく回転したかのようだった。
「うわああ!」
いや、実際には逆だった。クラウスの身体が回転しながら、隠れて見えなかった崖下に転げ落ちて行ったのだ。
「クラウス!」
ユリカの声が聞こえた。あまり高くなかったのか、頭のすぐ上から彼女の声が聞こえた。
クラウスが目を開けると、枯葉の絨毯の上で仰向けになっていた。枯葉がクッションになったのか、少し身体が痛むくらいで、大事にはなっていないようだった。
「大丈夫?」
ユリカが崖の上から降りてくる。心配そうに覗き込んでくる彼女にクラウスも顔を上げた。
「ああ、大丈夫だ。少し痛むけど骨が折れたりとかはしてないようだ。すまな……」
そこまで言いかけてクラウスがその場で伏せた。ユリカも何かに気付いたように身を隠すような姿勢を取った。
じっと沈黙する二人。その時、崖の向こうから物音が聞こえてきた。
「……今、何か聞こえなかったか?」
「何かいたみたいだけど、鹿かな?」
かすかに聞こえる程度だが、遠くで人の声が聞こえた。クラウスたちは声を潜め、相手にバレないようにじっとした。
アンネル訛りの会話が聞こえてくる。どうやら狩猟にやって来たヴィオルの住民のようだった。
彼らが会話する間、クラウスたちは崖下で気配を消し続けた。相手の会話以外に聞こえるのは、森を流れる風の音と、二人の心臓の音だった。
相手に見つかってはいけない。自分たちの存在を知られてはならない。クラウスは腰に携帯している拳銃に手を伸ばした。最悪見つかっても口封じをすればいい。だがそれは最終手段であり、できる限り避けなければならない。
それに相手は狩猟用の銃を持っている。それで応戦されたらどうなるかわからなかった。
相手はしばらく話し込む。クラウスたちは息を潜めながら、相手の会話に耳を傾ける。
「そろそろ戻ろう。鴨の一匹でも獲って、パーティーの御馳走にしないと」
「そうだな」
二人はそう言い終えて、その場から歩き出した。二人の会話と足音が、その場から遠ざかるのがわかった。
相手が遠ざかるのを確認すると、クラウスたちもその場から静かに歩き出した。
ある程度歩いたところで、周りに誰もいないことを確認してから、二人は安心したように息を吐いた。
「はあ……驚いた。さすがに肝を冷やした」
もし相手に見つかれば、どんな形であれ自分たちの存在が相手に露見することになる。そうなれば確実に作戦に支障をもたらすことになる。
ただでさえ成功率の低い作戦なのだ。これ以上厳しい条件にするわけにはいかなかった。
「でも、あの人たちってヴィオルの人たちよね? ここにいるってことは、町は近いってことじゃないかしら?」
確かにアルデュイナはかなり広い森だ。奥深くまで入ることはないはずだ。それに相手の二人は野営するつもりはなく、今日中に家に帰るような話をしていた。
少なくとも、数時間で町に戻れる位置にいるはずだ。
「確かに君の言うとおりだ。意外と近くまで来ていたみたいだな」
その事実に二人は安心した。アルデュイナは最悪、遭難することも考えられる森なのだ。自分たちが目的地に近づいているのかわからないのは、内心不安で仕方なかった。
だが、あの二人の存在が、目的地に近づいていることをクラウスたちに教えてくれた。ひとまず安心といったところだった。
「ぐっ……!」
その時、クラウスの身体に痛みが走った。枯葉がクッションになったとはいえ、勢いよく落ちたのだ。骨折はしていなくても打撲くらいはしているはずだった。
「大丈夫? 歩けるみたいだけど、頭とか打ってないかしら?」
「ああ、大丈夫だ。枯葉がクッションになったから、それほど痛くなかったからな」
クラウスが安心させるように答える。ただ、大事はなくても身体が痛むのは
事実だ。彼の様子を見て、ユリカが提案した。
「少しここで休みましょう。ここなら誰にも見つからないと思うし。休める時に休みましょう」
彼らが今いる場所なら、すぐに身を隠せる位置にあった。ここならさっきみたいに誰かが来ても、すぐに隠れることができる。ここならゆっくりできるはずだ。
それに身体が痛いまま森を動くのは危険だ。今は大丈夫でも万が一ということもある。少し身体を休ませる必要があった。
「それに森に入ってからだいぶ時間が経ってるし、そろそろ食事にしましょう」
森に入ってから半日以上経っていた。さっきまで歩いていたので気付かなかったが、身体が食事を欲しているはずだ。実際一息ついたことで、胃が苦しんでいるのがわかった。
「そうだな。悪いがそうさせてもらおう。朝もらった食べ物をいただこう」
ユリカが補給部隊から受け取った食料を取り出す。中には二人分のパンと干し肉。あとは果物などが入っていた。
「あ、そうだ」
その時、クラウスが何か思い出したように声を上げた。
「どうしたの?」
「いや、実はグラーセンを出る前に、スタール閣下に会っていたんだが」
「え? おじい様に?」
「ああ。その時閣下から預かりものをしていたんだ。何かに困ったらこれを使うようにって」
そう言ってクラウスは、スタールから預かった小包を取り出した。彼はそれを空けて中身を確認した。
「あ、これって」
ユリカが声を上げた。箱の中にあったのはジャムやチーズ。それといくつかパンが入っていた。
「このジャム、サンドラ様が作ったものだわ」
箱に入っていたジャムを手にとって、じっくり眺めるユリカ。苺の他に、オレンジや桃のジャムもあった。
それはシチョフと共にスタールの屋敷に滞在している仮面のメイド・サンドラの手作りジャムだった。彼らの故郷、アスタボ独特のジャムで、ユリカもお気に入りだった。
「なるほど、サンドラさんからの贈り物か」
きっとユリカが作戦に向かうと聞いて、スタールにお願いして持たせたのだろう。こんなところでも色んな人の心遣いが届くのが、クラウスにはありがたかった。
「ありがたくいただきましょう」
「そうだな」
ユリカが嬉しそうに声を上げる。その声に応じてクラウスは地面に食事を広げるのだった。
地面に広げられたハンカチにパンとジャムが並んだ。
「なんだかピクニックみたいになったな」
クラウスの苦笑いにユリカも笑みを返した。
「本当ね。こうしていると、ビュルテンで一緒に山に登ったのを思い出すわね」
かつて任務で向かったビュルテンで、二人は調査のために山に登ったことがあった。そこでも二人は食事を楽しんでいた。
その時のことを思い出しているのか、ユリカが楽しそうに笑った。その顔を見ていると、自然とクラウスも楽しくなるのだった。
「さ、いただきましょう」
「ああ、そうだな」
クラウスたちはパンを手に取った。クラウスは干し肉とチーズをパンに挟み、ユリカはサンドラのジャムを乗せた。
クラウスが一口かじる。干し肉の塩辛さとチーズのまろやかさが絡み合い、それがとろける様に口の中で広がり、舌に程よい刺激を与えてくれた。
やはり空腹だったからか、さらに次の一口へと進む。その美味しさに夢中になって食べ続けた。任務の途中であることを忘れてしまいそうだった。
その時、クラウスが顔を上げると、ユリカの動きが止まっていた。一口パンをかじったようだが、口の中で噛み続けたまま、彼女は不思議そうな顔をしていた。
「どうした? 美味しくなかったのか?」
クラウスが怪訝そうに問いかけるが、ユリカは何も答えなかった。彼女はパンを噛み続け、最後には飲み込んだ。そうしてから、彼女は不思議そうに驚いた顔をした。
「甘いわ……」
「いや、そりゃジャムは甘い物だろう。それがどうした?」
クラウスがそう言うと、ユリカはそうじゃないと首を振った。
「違うの。甘味を、味を感じることができるの。まだ治っていないはずなのに」
その一言に思わず腰を浮かしかけるクラウス。
そうだった。ユリカはまだ味覚障害が治っていないはずだった。戦争のショックで味が感じなくなり、食欲もなくなっていたはずだ。
そんな彼女が今、味を感じているという。その事実にクラウスは驚いていた。
「本当か? 治ったのか?」
「いえ、僅かに感じるというだけで、以前みたいに完全にというわけじゃないわ。だけど、確かに味を感じるわ」
お互いに顔を見合わせるクラウスたち。まさかこの状況で治るとは思っていなかったので、二人とも信じられない様子だった。
そして何より、クラウスには嬉しい出来事だった。以前はたくさん食べてたくさん楽しんでいたユリカが、味を感じられなくなり、食べる量も少なくなっていたのだ。彼女を知るクラウスとしては、寂しいことだった。
それが今、彼女が楽しみを取り戻しつつある。そのことが素直に嬉しかった。
「でも、どうして? まだ治る気配はなかったはずだが」
首を傾げるクラウス。まだまだユリカの障害は治る予兆を見せていなかったはずだ。何かきっかけでもあっただろうか。
そんなことを考えていると、ユリカが小さく笑った。
「そうね。たぶんだけど、こうしてあなたと一緒に任務に向かっているからじゃないかしら?」
そんなことを呟くユリカ。どうして任務に向かうと味覚障害が治るのか、クラウスは理解できなかった。
「どうしてそうなる? 危険な任務に出て病気が治ることなんてあるのか?」
「ううん、違うわ」
そう言って首を横に振るユリカ。彼女は小さく微笑みながらクラウスを見た。
「『あなたと一緒に』任務に向かうから、心が喜んでいるのよ」
あまりに意外な一言にクラウスは言葉を失った。自分と一緒に任務に向かうこと。それが彼女に良い傾向を与えているということに、驚きを隠せなかった。
「あなたと一緒に旅に出て、一緒に冒険できる。それが楽しくて仕方なくて、心が喜んでくれているの。だからだと思うわ」
その言葉に納得するクラウス。参謀本部でユリカを診てくれた軍医も言っていた。心が血を流し、悲鳴を上げると、身体にも異変が起きると。
それが本当なら逆も起こり得るのだ。心が喜び、楽しんでくれたなら、難病も治ることが。
もう一口パンをかじるユリカ。口の中に広がる味をじっくり感じてから、彼女はクラウスに顔を向けた。
「やっぱり私って、あなたとの冒険が大好きみたい」
そんなことを満面の笑みで言ってくる。その一言があまりに強くて、思わず反応できずクラウスは呆けてしまった。その様子がまた面白かったのだろう。ユリカはますます笑うのだった。
そうして彼女が笑うのがまた嬉しくて、クラウスは今度こそ笑った。
「そうか。それならたくさん食べないとな。作戦に向けてお腹いっぱいにしないとな」
彼はそう言いながら、さらにパンをハンカチの上に並べた。
「ちょっと、そんなに食べられないわよ」
「何を言う。旅先ではあんなに食べていたじゃないか?」
「もう。女の子にそんなこと言わないでちょうだい。恥ずかしいじゃない」
そんな風に語り合い、二人して笑い出した。
こうして二人で笑って食事を取るのも、なんだか久しぶりな気がした。
ここは敵地で任務の途中。だというのに、二人はそんなことを忘れて楽しそうに食事を続けた。
アルデュイナの森に、二人の笑い声が響くのだった。
食事を終えて森を歩き続けるクラウスたち。陽も傾き、もうすぐ夜になろうとしていた。
「だいぶ歩いたが、まだ森を抜けられないのか?」
クラウスが声をかける。その声色には、作戦に間に合わないのではないかという焦りの色が見え隠れしていた。
「そうね。そろそろ街が見えると思うのだけど」
ユリカがそう答える。すると彼女はその場に立ち止まり、右手を上げた。
「どうした?」
「しっ伏せて」
ユリカに言われてその場に伏せるクラウス。すると奥の方で何かが動くのが見えた。
じっと目を凝らすと、誰かが歩いて来るのが見えた。
そこには男が一人、何かを探すように辺りを見渡しているのが見えた。
「また街の住民か?」
相手に見つかるまいとクラウスが緊張する。だがユリカがそうではないと首を振った。
「いえ、あれはたぶん、ジョミニ商会の人よ」
ユリカに言われてクラウスはもう一度相手を見る。さっき見かけた住民と何ら変わらない、普通の住民に見えた。彼がジョミニ商会の人間だ
という確証は得られなかった。
「そうなのか? しかし本当にそうかわからないぞ」
「ちょっと待って」
ユリカはそう言うと、荷物の中から鏡を取り出した。それを使って彼女は光を反射させて、相手に何かの合図を送り始めた。
すると、相手もその光を見つけたのか、相手も同じように鏡を取り出して、こちらに合図を送ってきた。それを確認して、ユリカが声を上げた。
「間違いない。私たちの仲間よ」
ユリカは立ち上がると、そのまま相手に向かって手を振った。それに続いてクラウスも立ち上がる。
すると相手はこちらの姿を見つけると、そのままこちらに走ってきた。
クラウスたちの目の前までやって来ると、相手は会釈をして迎えてくれた。
「ユリカ殿ですね? ジョミニ商会のアルダンと申します。当主様よりお話は聞いております。よくご無事で」
「迎えてくれてありがとうございます。ユリカと言います。こちらはクラウスです」
紹介されて会釈するクラウス。アルダンはそんな二人を微笑みながら迎えてくれた。
「ひとまずそこの山小屋まで行きましょう。私たち以外は知らない場所なので邪魔は入りません。そこでお話をしましょう」
森の奥に隠れるように佇む山小屋。そこにはアルダン以外にも商会の人間がいた。彼らはヴィオルの街で活動を続けていたようだ。
「まずは街の状況からお話しようと思いますが、実は以前と状況が変わっております」
「変わったとは、何か予想外の出来事でもありましたか?」
ユリカが問いかける。作戦に向けて懸念が生まれたのか、クラウスも不安になった。
「ある意味予想通りでもあるのですが、実はヴィオルにアンネル軍の部隊が増援に来たのです。その数、一個大隊かと」
情報に息を飲むクラウスたち。大隊と言えば数百人規模の兵力だ。相手にするには危険な数だ。
「何故、大隊規模の増援が? 私たちが知る情報では、警備隊程度の人数だったはずですが」
「実は今夜、ヴィオルの街でお祭りが開かれるのです。街の大きな行事で、街の住民はもちろん、その親戚や商人など、普段より多くの人間が街を訪れるのです」
聞いたことがある。ヴィオルの街ではこの時期にお祭りが開かれ、多くの人間が街を訪れるらしい。
「お祭りですか。まさかその増援はお祭りを楽しむために来たわけではありませんわよね?」
「はい。どうやらアンネル軍はこのお祭りに乗じて、グラーセン軍が街に奇襲を仕掛けてくるのを警戒しているようでして、それに対応するために増援を送って来たようです」
アルダンの分析にクラウスも納得する。確かにお祭りという状況を利用して、街に敵が忍び込むことが考えられた。特にこの街は戦場にも近い位置にある。何より、アヴェイロ橋という重要施設があることを考えれば、警戒を厳にするのはあり得る話だった。
「我々もアンネル軍が増援を送るかもしれないとは思ってましたが、それが大隊規模というのは驚きました。もしかしたら、ここを拠点にして戦場に兵力を送り込む計画を立てているかもしれません」
確かに戦場と後方との中継地点でもあるヴィオルなら、前線に近い補給基地としても価値のある場所になり得るのだ。
「しかし、そうなると作戦を行うにはあまりに危険だと?」
ユリカの指摘にクラウスが顔を上げる。確かにそのような状況で作戦を決行するのは危険だ。作戦の中止だってあり得た。
そのクラウスの不安に対し、アルダンは首を横に振った。
「いえ、むしろこの状況こそ利用するべきだと思います。アンネル軍が警戒しているのは街の方でして、アヴェイロ橋にはそれほど警備を置いていないようです。それに今夜はお祭り本番です。アンネル軍も警戒はしていますが、お祭りの空気の中ではどうしても緩みが生じます。街にいるアンネル軍兵士を見ると、どこか浮ついた雰囲気が漂っています。この隙に乗じて橋を爆破させることもできるはずです」
お祭りの空気というのは、どんな相手でも芳しく感じるものだ。まるで酒に酔ったかのように、人々を夢心地にしてしまう。
ならば相手が夢を見ている間に、作戦を成功させればいい。
「我々もできる限りお力になります。微力ながら、協力させてもらいますよ」
そう語るアルダン。味方がいないこの状況で、あまりに力強い言葉。
これは商売で成り立った繋がりだ。お金で築かれた義理など、高潔ではないと人は言うかもしれない。だけど、商人にとって取引で成り立った繋がりは、絶対に背いてはならない繋がりなのだ。ある意味、何よりも信頼できる義理とも言えた。
それにたぶんではあるが、クラウスは彼らとの繋がりの中には、取引や売買以外の義理が育まれているように思えた。
それをユリカも感じたのか、彼女は柔らかな笑みをアルダンに向けた。
「御言葉に感謝します。我がハルトブルクは、ジョミニ商会との繋がりを鋼鉄よりも強くすることを誓いますわ」
「その言葉、当主様に必ずお伝えしましょう」
そう言って二人は握手を交わした。
状況悪く、前途は不明。しかし、作戦を前に幸先の良い仲間を得ることができた。
きっと作戦は成功する。クラウスはそう感じるのだった。
「それで、どのようにして橋を爆破するのでしょうか? 何かお考えでもあるのでしょうか?」
「それに関してはこちらをご覧ください」
ユリカの問いかけにアルダンが一枚の地図を広げた。ヴィオルの街を中心に描かれた地図で、ヴィオルから少し離れた場所に目標であるアヴェイロ橋があった。
「こちらにアヴェイロ橋があります。ここには警備のための施設があり、ここに兵士たちが常駐しているようです。実は我々は普段からこの施設まで足を運び、食料などを売り込みに行っております。今回は祭りの日というのもありますので、商品を売り込みに来たと言って橋に近づこうと思います。お二人には我々と同行してもらい、橋を爆破してもらおうと思います」
「なるほど……しかし普段から相手の懐に入り込むとは、大変だったのでは?」
「大丈夫ですよ。割安で商品を提供すれば、相手も喜んで受け入れてくれます。特に兵隊さんはお酒が大好きですからね。大量に持っていけば感謝してもらえますよ」
軍隊も食料やお酒などの嗜好品の支給はされているが、必ずしもそれに兵士たちが満足しているわけではない。そんな彼らに安価でお酒を与えれば、喜んで受け入れられるに違いなかった。
「なるほど。しかし値段を下げて売ってしまえば、利益も下がるでしょうに。よろしいのですか?」
何気ないクラウスの一言。それを聞いたアルダンはニヤリと笑った。
「大丈夫ですよ。その代わりに彼らからは情報という『商品』を仕入れてますので、お互い損はしておりませんよ」
そんな風に語るアルダンの顔に、クラウスはぞくりとした。その横ではユリカが面白そうに微笑みを浮かべていた。
商品を売り込みに懐に入り込み、そこで貴重な情報を仕入れる。商人ならではの潜入調査にクラウスも感嘆の念を覚えた。
金貨や宝石よりも貴重な情報。それをヴィオルにいる兵士たちは、知らない間にアルダンに与えていたわけだ。
きっとアルダンの帳簿は大きく黒字が記録されていることだろう。
「数日前にも橋に行ったのですが、今日はほとんどの兵士が街の警備に向かうそうです。祭りに行けない兵士たちが不満を零していましたよ。きっと今日はお酒がいつも以上に売れるでしょうから、潜入は容易いかと思います」
ただでさえ息が詰まる軍隊生活なのに、お祭りに行けないのは残念なことだろう。きっと商人の到来に彼らは喜ぶだろう。
「あと、橋の警備にあたる人数とその場所なのですが、大きな変化がなければ概ねこんな位置になるかと思います」
アルダンがペンで書き込みをしていく。。書き込みがされたところが兵士がいる場所ということだった。
その場所を確認しながら、クラウスが気になることを口にした。
「これは……少し厳しいように思えますが。特に橋の上に配置されているとなると、見つからずに爆弾を設置するのは難しいのでは?」
橋に接近することは出来ても、兵士たちにバレずに爆弾を設置するのは不可能に思えた。
「それについては私に考えがあります」
アルダンがそう言うと、彼はクラウスとユリカ、二人を交互に見比べた。
「そのためにもお二人に協力をお願いしたいのですが、こちらを見ていただけますか?」
アルダンが二人にあるものを見せた。それを見てクラウスは驚き、ユリカは面白そうに瞳を光らせていた。
陽も沈み、すっかり夜になっていた。ヴィオルの街ではすでにお祭りが始まっており、楽しそうに笑う声が街中で響いていた。お祭りの火は強く輝き、星の輝きすら薄れていた。
そんな街に背を向けて、荷馬車を引いた一団がアヴェイロ橋へ向かっていた。
一団を率いていたのはアルダンで、彼らは荷馬車にたくさんの荷物を積んでいた。
彼らが向かう先、アヴェイロ橋は鋼鉄で作られた鉄橋で、最新技術を詰め込んだ近代建築の傑作だった。
元々アヴェイロ橋は木製だったのだが、鉄道が敷設されるようになると、鉄道を通すための橋が必要となったため、新たに鋼鉄製の鉄橋を建設することになったのだ。
五年にも及ぶ建設の結果、近代化の時代に相応しい橋がここに誕生した。
そのアヴェイロ橋へ向かう一団は、橋の近くにある軍の詰め所までやって来た。詰所の前では何人かの将兵が歩哨に立っていた。彼らはアルダンたちの存在に気付くと、警戒を強めた。
「止まれ。何者だ?」
わずかに殺気立つ将校。しかし彼らがアルダンの顔を見ると、その警戒を緩めた。
「おや、アルダンさんじゃないですか。どうかされましたか?」
「やあ、こんばんは。実はこちらの商品をみなさんに持ってきたんですよ」
アルダンがそう言うと、部下たちが荷馬車の中身を見せた。そこには食料やお酒など、贅沢品が多く載せられていた。
「街にいる兵隊さんたちから、こちらにもみなさんがいらっしゃると聞きまして、みなさんにも食事を持ってきたんです。よろしければもらっていただけますでしょうか?」
突然の申し出に明らかに喜んでいた。前に立つ将校も驚きを隠さなかった。
「いいのですか? かなりの量がありますけど」
「もちろんですよ。街の兵隊さんたちがたくさん買ってくれましたので、そのお礼です。それにお祭りも今日までですし、このまま売れなかったらもったいないので、みなさんで食べてくれた方がこちらもありがたいです」
アルダンの言葉に将兵たちは特に疑いもせず、その申し出に喜んでいた。
「それはありがたい。こちらもごちそうは出していたのですが、あまり量もなかったので、物足りなかったのですよ。みんなも喜ぶと思います」
「それはよかった。こちらに並べますので、みなさんを呼んできてください。たくさんありますので」
「わかりました。おい、手の空いている者は、みんなを呼んできてくれ」
将校の言葉を受けて、兵士たちの何人かが仲間を呼びに行くのだった。
鉄橋の近くに何人かの兵士たちが立っていた。明らかに歩哨だろう。灯りに身を寄せるように集まっていた。
その時、遠くから仲間が二人やって来た。その内の一人は酒瓶を手にしていた。
「おい。何をしてるんだ。酒なんか持って」
兵士の一人が声をかける。すると相手は酒瓶を掲げながら声を上げた。
「詰所の方に食い物が運ばれてきたから、みんなで取りに来いってよ。ここは俺たちが見ておくから行って来いよ」
「本当か? それはよかった。お前たちはいいのか?」
「俺たちはもうもらってきたよ。たくさんあるから、両手に抱えて持ってくるといいさ」
「ああ、そうさせてもらうよ。全部なくなっても文句言うなよ?」
そんな軽口を叩くと、兵士たちは笑いながら詰所の方へ向かった。きっと祭りに飢えていたのだろう。先を争うように走っていった。
後に残った二人は、兵士たちが立ち去っていくのを見届けてから橋へと向かった。
「……なんとかなったわね」
そう言って顔を覗かせるユリカ。それに応えるように隣のクラウスも声を上げた。
「ああ、これもアルダンさんのおかげだな」
そう言って、アンネル軍の軍服に身を包んだクラウスたちが、橋の方へ急いで向かった。
軍服はアルダンから渡されたものだった。彼はクラウスたちにそれを与え、アンネル軍に変装して潜入するという作戦を二人に提案してくれた。アルダンが他の将兵たちの注意を引いているうちに、軍服に身を包んだクラウスたちが橋まで潜入する。
軍服などの制服は、それ自体が何者であるかを相手に示すことができる。逆に言えば、人間は制服を信用するあまり、相手の素性にまで気が回らなくなる。
今みたいにアンネル軍の軍服を身に纏えば、クラウスたちは疑われることなく相手の懐に潜入できた。
また、クラウスはアンネルへの留学の経験があり、アンネル特有の発音や言葉遣いなど、大抵のことは話すことができる。彼のアンネル語を聞けば、誰も彼らが敵であるとは思わなかった。
「留学の経験が生きたわね」
ユリカが笑う。アンネルの軍服が意外と気に入っているのか、とても楽しそうだった。
「まさかこんな形で役に立つとはな。あっちでは女性を口説くことも出来なかったのにな」
「それなら今度はオペラでも歌えるようになるといいわ。きっとモテるわよ」
この状況でもそんな軽口を叩けるのだ。我ながら苦笑いが浮かんでくるクラウスだった。
そうして奥まで進んだところで、彼らは鉄橋まで辿り着いた。間近で見ると、鉄橋のその力強さに圧倒された。近代化によって世界は鋼鉄に作り替えられつつあり、アヴェイロ橋はその象徴とも言うべき橋だ。
橋の上を鉄道が走るための線路が敷設されていた。どんな重さでも、どんな衝撃であっても、この鉄橋はそれに耐えてきたのだ。
近代化時代の象徴とも言うべきこの橋を、彼らはこれから爆破するのだ。
アルダンの話だと、橋を確実に使えないようにするには、橋の真ん中で爆弾を起爆しなければならないという。
「行きましょう。足元に気をつけてね」
橋の下はナミュール川が流れている。流れは急で、落ちれば一気に下流まで流されてしまうだろう。
「ああ、わかった」
二人は橋へ向かう。クラウスの手には、アルダンから渡された爆弾が抱えられていた。それを赤子のように大事に抱えながら歩いていく。
橋の上を歩くと、カンカンと無機質な鉄の音が響いた。夜が深いせいか、一層遠くまで響いている気がした。
橋の下ではナミュール川の水の流れが感じられた。日中なら絶景を拝むことができるだろう。
しばらく歩いて行って、二人は橋の中央までやってきた。
「クラウス、こっちよ」
「ああ、待ってくれ」
ユリカに促されてクラウスが爆弾を取り出す。橋の上に設置して、起爆の準備に入った。爆弾は単純な導火線式で、着火すれば数十秒で爆発
することになる。
「大丈夫?」
「ああ、設置完了だ。あとは火を点けるだけだ」
導火線に点火して、あとは橋から避難するだけだった。緊張で震える手で、クラウスは導火線に点火した。
「お前たち。何をしている?」
その時、遠くから鋭い声が聞こえてきた。
二人が顔を上げる。声は自分たちが来た方向とは逆の方から聞こえてきた。見ればアンネル軍兵士がこちらを睨んでいた。
迂闊だった。よく考えれば橋の反対側にも警備がいることは予想できた。兵士は反対側からこちらに近づき、自分たちに気付いたようだった。
兵士がクラウスたちを見る。彼はクラウスたちの足元で火花が散っているのを見て、その異変に気が付いた。
「動くな! 手を上げろ!」
兵士が銃をこちらに向けてきた。明らかな殺意が向けられた。それと同時にクラウスが胸元の拳銃を取り出して、相手にその銃口を向けた。
沈黙の中にお互いの殺意が漂う。ただ引き金を引けばいいだけなのに、銃を向け合うだけでそれができずにいる。極度の緊張の中、二人の足元で導火線が燃える音だけが響いていた。
その時、ヴィオルの町から花火が上がった。花火の閃光に照らされた瞬間、相手が発砲した。
狙いは外れ、銃弾はクラウスの横の鉄柱に弾かれた。クラウスもそれに応戦するように引き金を引いた。あとはもう、なし崩し的に銃撃戦が始まった。
「ユリカ! こっちに!」
クラウスの声に反応してユリカが鉄柱を盾にする。相手は数歩下がったところからこちらに狙いを定めていた。
その時、遠くから声が聞こえてきた。発砲音に気付いた他の兵士たちが、こちらへやって来るのが見えた。
舌打ちするクラウス。さすがにあの人数に背を向けて逃げるのは難しかった。それに足元の導火線もだいぶ進んでいるのが見えた。
「ユリカ! 導火線を止めてくれ! 火を消すんだ!」
「だめ! だいぶ進んでる! もう止められない!」
見れば火を止める余裕はなくなっていた。しかしこのままでは自分たちも爆発に巻き込まれてしまう。
どうする? 焦りと緊張で思考が狂いそうになる。クラウスは必死で足元の爆弾を見た。
「ねえ、クラウス」
その時、ユリカが声をかけてきた。この緊張した状況とは裏腹に、彼女はどこか楽しそうな声をしていた。
「どうした? 何かあったのか?」
「いえね。あなたって、泳ぐのは得意かどうか聞きたいのだけど」
こんな状況で問いかけられることとは思えず、クラウスは耳を疑った。彼女は何を言っているのか。
「泳ぎって、何のことだ?」
クラウスが訊き返す。するとユリカの視線が橋の下のナミュール川に注がれていた。
「私、これでも泳ぐのは得意なのよ」
そんな風に呟いて、彼女は悪戯っぽく笑った。
ここまで言われれば、クラウスにも彼女の真意が伝わった。
とはいえ、ナミュール川もかなりの激流となっている。助かるためとはいえ、このまま川に飛び込んでしまえば、そのまま下流に流されてしまうのは目に見えていた。
しかし、このままでは二人とも爆発に巻き込まれるのは確実なことだった。
助かる見込みが全くないのと、百回の内一回は助かるかもしれない。選ぶべきがどちらなのかは、考えるまでもなかった。
「私も泳ぐのは得意だ」
「なら決まりね」
あまりに危険なこの状況を、ユリカは心から楽しんでいるようだった。きっとこれも彼女の言うところの冒険なのかもしれない。
クラウスが足元の爆弾に目を向ける。あと少しで爆発するところまできていた。
「タイミングを合わせて飛ぶぞ」
「わかったわ」
二人が立ち上がる。その時、クラウスがユリカを抱き寄せた。
びっくりするユリカ。彼女はクラウスを見上げると、彼は珍しく笑っていた。
「二人一緒なら、絶対大丈夫だろ?」
これなら二人が離れることはない。クラウスの言葉を聞いて、ユリカも笑いながら抱き返した。
「ええ。私たち、どこまでも一緒よ」
そう言って二人の笑みが交差する。それから二人が橋の下を流れる川を見た。
「行くぞ、せーの!」
その掛け声を合図に二人が同時に飛び降りた。闇のように黒い川目掛けて、お互いに抱きかかえたまま飛び込んだ。
その瞬間、彼らの頭上で爆発音と、鉄が破壊される音が聞こえた。
「……ん」
ベッドの上で目を覚ますクラウス。おぼろげな意識の中、彼は何か物足りないと思った。
物足りなさの正体はすぐにわかった。いつも自分を起こしてくれる起床ラッパが聞こえてこなかったのだ。それに、いつもと違う柔らかさの
ベッドに身体が戸惑っているのがわかる。
寝心地はいいはずなのに、どうしても身体が違和感を覚えていた。
「ここ……どこだ?」
そう呟きながら体を起こそうとするクラウス。その時、彼は何かが横にいるのに気付いた。彼が横に視線を向けると、彼女がそこにいた。
「ユリカ……?」
クラウスが寝ているベッドの横で、ユリカが椅子に座って眠っていた。上半身だけクラウスに寄せるような形で、静かに寝息を立てていた。
寝苦しいはずなのに、とても安らかな寝顔だった。まるで親鳥と一緒に寝る雛鳥のような、そんな印象を受けた。
「……んん」
その時、クラウスが起きたことに気付いたのか、ユリカも目を覚ました。彼女は寝ぼけ眼でクラウスを見つめる。そんな夢心地の顔でクラウスを見つめた後、彼女はニッコリと笑った。
「おはよう、クラウス」
ユリカの言葉で、クラウスの中で一気に血が巡り始めた。顔が熱くなるのを感じながら、彼は言葉を返した。
「あ、ああ。おはよう……」
その様子がおかしいのか、ユリカがクスリと笑う。
「身体は大丈夫? 手当はしているけど、どこか痛むところはない?」
「え? いや、特に何もないが……」
そこまで話したところで、クラウスは自分たちが何をしていたのかを思い出した。
「そ、そうだ! 作戦は!? 橋はどうなったんだ!」
「大丈夫、落ち着いてクラウス」
起き上がろうとするクラウスをなだめながら、ユリカが微笑んだ。
「大丈夫。終わったのよ。全部終わったわ」
ユリカの微笑みを前に落ち着きを取り戻すクラウス。彼はそれからいくつかの疑問を口にした。
「終わった……? 成功したのか? そういえば私たちは橋から飛び降りたはずだが、助かったのか? それにここはどこなんだ? 病院ではなさそうだが、まさか地獄に落ちたわけじゃないだろうな」
「おいおい。私の屋敷を地獄呼ばわりだなんて、ひどいじゃないか」
そんな風に呟くクラウスに応えるように、歌うような声が聞こえてきた。
その声を聞いた瞬間、クラウスの心臓が一気に飛び上がった。彼が声のする方に視線を向けると、彼女がそこにいた。
「ジョルジュ……!」
「やあ、おはようクラウスくん。よく眠れたかい?」
その姿は間違いなくジョルジュだった。アンネル軍の情報部員、そしてクラウスたちの絶対の敵対者。かつてグラーセンで対峙した時と同じ笑みを浮かべ、ジョルジュがこちらを見つめてきた。
「ふふ、その様子だと大丈夫のようだね。安心したよ」
「あ、ああ……ここは君の屋敷なのか? じゃあ、君が私たちを助けてくれたのか?」
「ああ。まさしくその通りさ。さて、どこから話したらいいかな」
そこで一旦言葉を切ってから、ジョルジュがこちらに歩み寄る。
「ここはサンブールの近くにあるデオン家の別荘でね。前線に近い位置にあるので、私たちのチームが拠点に使っていたんだ。ちょっとした司令部みたいなものでね。そんな別荘暮らしを満喫していたところ、二日前に私たちの耳にアヴェイル橋が爆破されたという話が飛び込んできた」
それはまさにクラウスたちが決行した作戦のことに違いなかった。ただそれより、クラウスはもっと気になることがあった。
「えっと、ちょっと待ってくれ。報告が二日前って、それじゃあ私は二日間眠っていたのか?」
「ああ、とてもぐっすりとね。報告を受けた私たちは調査のためにヴィオルまで走っていった。そうしたらその途中で、ナミュール川で君たちが気を失っているのを見つけたんだ。その姿を見て大体のことを私は察したというわけさ」
橋を爆破すると同時にクラウスたちは川に飛び込んだのを思い出す。どうやら二人はそのまま川を流れて、下流に流れ着いたようだった。そこをジョルジュに見つかったということだ。
「ヴィオルに着くと警備についていた部隊からは怪しい二人組がいたと報告を受けて、そこで君たちが橋を爆破させたと確信したよ。ただ彼らに君たちを引き渡すのも面倒だったので、私の方で保護……まあ捕虜にしたということさ」
「……そうか。私たちは君の捕虜になったのか」
捕虜という言葉に横で聞いていたユリカが頬を膨らませた。
「まさか貴方の捕虜になるだなんて、悔しいわ」
ユリカの言葉にクラウスも複雑そうな顔をした。捕虜になったのは悔しいが、それでも生き残れたのは素直に喜びたい気持ちもあった。
そんな二人の心情を察したのか、ジョルジュが微笑みを向けてきた。
「ははは。そう言わないでおくれよ。少なくとも陸軍の捕虜になるよりはマシな待遇を約束するよ」
それが慰めになるのかクラウスにはわからなかったが、確かにジョルジュの捕虜になるのはマシだったに違いない。実際傷付いた自分の手当てをしてくれた事実もあるのだ。むしろ感謝するべきなのだろう。彼はそこで頭を下げて見せた。
「大体のことはわかった。私たちを助けてくれて感謝する。ありがとう」
「どういたしまして」
クラウスの言葉に微笑みを返すジョルジュ。
「しかし、そうか……私たちの作戦は成功したんだな。これで何とか前線部隊の援護になればいいのだが……」
クラウスが呟く。このアヴェイロ橋の爆破はアンネル軍の補給線を断つことが目的だ。これで敵に圧力が加われば、前線のグラーセン軍の援助になるかもしれない。
未だ戦況は厳しいが、これで状況が好転してほしい。クラウスはそんな風に考えていた。
すると、クラウスが顔を上げると、ユリカとジョルジュが自分を見つめていた。二人とも驚いているというか、意外なものを見るような顔で、ジョルジュに至っては呆気に取られたようにしていた。
「えっと……私は何か変なことを言ったのだろうか?」
「変というか……なんだいユリカくん。まだあのことを彼に言ってないのかい?」
ますます理解できないクラウス。一体何があったのか、彼は不思議そうな顔をした。そんな彼にユリカが笑みを浮かべて言った。
「大丈夫よ。クラウス。終わったのよ」
「終わったって、私たちの作戦は無事に終わったんだろう?」
「ううん。違うの。全て終わったのよ」
ユリカが首を横に振る。そうして彼女は嬉しそうに呟いた。
「この戦争はもうすぐ終わるわ。私たち、勝ったのよ」
まるでからかうように笑うユリカ。その後ろではジョルジュが複雑そうな顔で苦笑いを見せていた。
そのユリカの言葉を受け止めて、クラウスはその言葉の意味が理解できずにいた。
「……終わった? 私たちの、勝ち? いや、どういう意味だ?」
「信じられないでしょうけど、言ったとおりの意味よ。まだ戦闘は続いているけど、戦況は大いにこちらに傾いているの。このままなら私たちの勝利で終わるわ」
ユリカの顔を見ると、とても嘘を吐いているようには見えなかった。だからこそクラウスにはわからなかった。一体何が起きたというのか。
混乱するクラウスにユリカはさらに話続けた。
「ジョルジュから聞いたのだけど、私たちが橋を爆破させたのと同じ日に、ロレーヌ要塞をグラーセン軍が陥落させたの」
「……要塞が陥落?」
その言葉の意味を理解して、クラウスの驚愕は頂点に達した。
ロレーヌ要塞はサンブールとアンネルの首都・マールを繋ぐ連絡線だ。そのロレーヌを陥落させたということは、サンブールのアンネル軍は後方連絡線を断たれたことになる。さらにロレーヌを陥落させたなら、グラーセン軍は敵を包囲することに成功したことになる。
それを理解した時、クラウスはそれが真実であるとは考えられなかった。そんなこと、不可能のはずだからだ。
「ちょっと待ってくれ。どうやって要塞を陥落させたんだ? グラーセン軍に別動隊でもいたのか?」
そう考えてみたが、それもあり得なかった。前線のグラーセン軍には兵力を分散させる余裕はなかったはずだ。本国から要塞攻略に部隊を派遣しても、到着するには時間を要するはずだ。
こんなに早く要塞が陥落するのは不可能なのだ。
すると後ろで聞いていたジョルジュが口を開いた。
「ユリカくんの言ったことは本当だよ。ロレーヌ要塞は陥落し、我が軍は不運にも挟み撃ちされる形にされてしまったということさ」
「い、いや。それはわかるが、でもどうやって? どこからそんな兵力が?」
「簡単だよ。南のビュルテンから進軍してきたのさ」
ジョルジュがたった一言で説明した。要塞攻略部隊は、南からやって来たという。
アンネルとグラーセンとの間に位置するビュルテン。ビュルテンはアンネルの南に位置しており、確かにそこから進撃することはできる。
だがその説明を受けてもクラウスはわからなかった。ビュルテンから進撃したとしても、こんなに早く要塞が陥落するはずがないのだから。
「しかしビュルテンからでも数日はかかる距離だぞ? まだ鉄道だって開通していないのに」
アンネルとの戦争のために開通を目指していたビュルテンの鉄道も、結局は間に合っていないのだ。それなのにビュルテンから一気にロレーヌ要塞まで部隊が進軍した。そんなこと、不可能なのに。
「そうね。確かに難しいわ。だけどねクラウス」
クラウスの呟きに反応して、ユリカがニンマリと笑った。それはいつも彼女が浮かべる、いたずら好きな笑みだった。
「これは、私たちが成し遂げたことなのよ」
グラーセンの南に位置する国・ビュルテン。鉱山や山脈に囲まれた険しい地域であり、かつてはクロイツ帝国の一部だった国。
以前クラウスたちは、ビュルテンとグラーセンとの間に鉄道を敷設するために、このビュルテンに派遣されたことがある。彼らの尽力もあり、鉄道の敷設計画が始動し、アンネルとの戦争に備えようとしていた。
その鉄道もアンネルとの戦争には間に合わず、線路の敷設も途中までで止まっていた。
そのビュルテンを、数え切れないほどの荷馬車が走っていた。荷馬車に積まれていたのは銃器などの軍需物資で、積めるだけ積み上げて運び続けていた。
その荷馬車の列を睨みながら、一人のグラーセン軍人が声を張り上げていた。
「急げ急げ! 早く前線に運ぶんだ!」
叫んでいたのはグラーセン参謀本部鉄道課に所属するフェリックス大尉だった。彼もまたこの地でクラウスたちと共に、鉄道敷設のために働いた人間だった。彼は目の前で列を成す荷馬車に指示を飛ばし続けていた。
「大尉!」
フェリックスに部下の一人が駆け寄ってきた。
「後続部隊が全員馬車に乗り込んだのを確認しました! すぐに出発できます!」
「わかった。すぐに出発させるんだ。引き返してきた馬車があればまた荷物を載せて前線に向かわせろ」
フェリックスの指示を受けて部下も走り回る。その様子を見てフェリックスも一息ついた。
「まさか鉄道より先に馬車を走らせることになるとはな」
苦笑いを浮かべながら、そんなことをフェリックスはつぶやいた。
遡ること数日前。フェリックスは参謀本部で、作戦課のクラビッツ少将に呼び出され、とある作戦について相談を受けた。
それは荷馬車を使って大量の将兵を運び、ビュルテンを通ってアンネル領内に進軍させるという作戦だった。
本来は鉄道によって実行されるはずだったが、それも戦争に間に合わず頓挫していた。
しかし鉄道を走らせるための道は作られており、後は線路を敷設するだけであった。
そこでクラビッツは大量の荷馬車を使って、ここを補給路として使うことを考えた。クラビッツはフェリックスに、ビュルテンで作った鉄道用のトンネルに荷馬車を通すことが可能かどうかを聞き、それが可能であることを知ると、すぐに作戦準備に入った。
軍が所有する軍馬はもちろん、国内で手に入る馬はできるかぎり徴用した。またビュルテンの馬車業者に協力を要請するなど、数え切れないほどの馬を使い、大輸送部隊を編成した。
そうして編成された輸送部隊が最初に運んだのは、一万を超す陸軍の将兵らだった。部隊を載せた馬車はそのままアンネル領内へ進軍し、そのままロレーヌ要塞の攻略に向かった。
ビュルテンの鉄道は開通していないこともあり、南からの攻撃はないものとアンネルも考えていたため、いきなり南からの敵部隊の侵攻に対応することができず、手薄になっていたロレーヌ要塞も抵抗できず、陥落してしまうのだった。
フェリックスはビュルテンに派遣されていたこともあるので、ここで輸送部隊を監督する指揮官として働いていた。
「やあ、大丈夫かい?」
そのフェリックスに声をかける者がいた。ビュルテンの有力者であり、ここの鉄道会社を任されているラコルトだった。
「何か必要なものはないかい?」
「ああ、ラコルトさん。今のところは大丈夫です。ラコルトさんのおかげで馬も足りていますよ」
ビュルテンに協力を要請した時、特に熱心になってくれたのがラコルトだった。元々鉄道開通を戦争に間に合わせようと頑張ってくれたが、結局それも間に合わなかったことにラコルトも責任を感じていた。それもあってラコルトは多くの人に声をかけたり馬の調達に役立ってくれたのだ。
「鉄道が間に合わなかった時は申し訳ない気持ちだったが、こうして無駄にはならずに済んだ。これであのお嬢様たちに顔向けできる」
ラコルトもまた、クラウスたちと切れない縁を結んでいた。二人のためにここまでしてくれたのだ。
「きっとお二人も感謝すると思います。今度会った時にはご褒美を望んでみてください。きっと喜んで用意してくれますよ」
「そうかい。それならまたグラーセンのビールでもお願いするかな」
そんなことを言ってフェリックスたちは笑い合うのだった。
「おーい。ちょっといいかい」
その時、フェリックスに声をかける者がいた。どうやら御者のようだった。
「あんたがグラーセン軍の指揮官かい? 今荷物を積み込んだから確認してもらえるかい?」
「ああ。わかりました。今行きます」
そう答えるフェリックスを、御者がじっと見つめていた。何事かとフェリックスは首を傾げた。
「失礼、何かありましたか?」
「軍人さん、あんた以前この街にいたよな? グラーセン軍だったのかい?」
フェリックスが以前ここに派遣された時は身分を隠し、グラーセンの鉄道会社の人間であると偽っていた。結果的に騙していた形になるので、フェリックスは居心地悪く感じた。
「え、ええ実は。申し訳ありません。騙すつもりではなかったのですが」
「ああ、それはいいんだ。別に悪いとは思ってないよ。それより聞きたいことがあるんだ」
フェリックスが怪訝に思う。自分に訊きたいことなんて、どんなことだろう? 彼は先を促した。
「失礼、何でしょうか?」
「以前この街にグラーセン人の二人組を運んだことがあるんだ。確かクラウス? あとユリカというお嬢さんだったかな? とても面白い二人で、仲がよさそうだったのを覚えているよ。もしかして、知り合いじゃないかい?」
御者の話を聞いて、フェリックスとラコルトが顔を見合わせた。まさかこんなところであの二人の名が出てくるとは思ってもいなかった。
「は、はい。確かにその二人ならよく知ってます」
「おお。そりゃよかった。わしも今回の仕事で埃被ってた荷馬車を引っ張り出したが、あの二人の役に立ったんなら嬉しくてね」
御者はそう言って嬉しそうに笑みを浮かべた。
「あんたらグラーセン軍がやって来て荷馬車を使わせてほしいって言われた時、わしはすぐにあの二人のことを思い出したんだ。もしかしたら、あの二人に関係があるのかもしれないって。そう思うといても立ってもいられなくて、すぐに知り合いの御者連中に声をかけたんだ。みんな昔使っていた荷馬車が眠っていたから、それを引っ張り出してグラーセン軍に協力しようって」
その話を聞いていたフェリックスは驚いていた。ありがたい反面、どうしてそこまでしてくれるのか、純粋に疑問だった。
「失礼、ありがたいことですが、何故そこまで協力を?」
「いやなあ。あの二人のことを思い出すと、どうしても助けてやりたいって思ってね。見ていて気持ちのいい二人だったからなあ。どうしても役に立ちたかったのさ」
そんなことをにっこりと笑って呟く御者。そんな彼の話を、フェリックスは呆然と聞いていた。
そして、彼はクラウスたちのことを思った。あの二人が残した足跡は、こんなところで実ったのだと。「もしあの二人に会う時があれば、伝えてやってくれないかい? またこの街に来たら自分を呼んでくれって。いつでも馬車に乗せるからって」
きっとその時が来るのを思い、御者は楽しそうに笑った。そんな彼にフェリックスも笑みを返した。
「わかりました。必ずお伝えします。あなたがお二人を待っていると」
その言葉に御者は笑い、それから自分の馬車に戻っていった。
その背中を見ながら、フェリックスは遠くにいるであろうクラウスたちを思った。
あの二人が残したものは、確かに実った。全ては無駄ではないとわかり、彼は胸の底から笑った。
「クラウスさん、ユリカさん、貴方たちの旅は、無駄ではありませんでしたよ」
彼らの旅が実ったこと。それが何よりフェリックスには嬉しかった。
「まさか……そんな作戦が」
ユリカからビュルテンでの出来事を聞き、クラウスは呆然としていた。そんな作戦が行われていたことに驚いていた。
「いやあ、まさかこんな作戦を思い付くなんて。さすがはクラビッツ少将だ。こんな力技をやってのけるなんて、私としてもお手上げさ」
そんな風に困ったように笑うジョルジュ。事実、アンネル軍はビュルテンからの攻撃はないものと考え、こちらへの警戒を怠っていた。おそらくクラビッツもそれを織り込んでこの作戦を立案したのだろう。
「南方から進軍してきたグラーセン軍はそのままロレーヌ要塞を攻略。これによりサンブールにいる我が軍の前線部隊は挟撃される形になった。この状況を打破するために戦闘が行われるだろうけど、勝利するのは難しいだろう」
「し、しかしアンネル軍はこちらを上回る兵力を集結させているのだろう? そんな簡単に負けることなんて……」
「いや、数の問題じゃないんだ。兵力を集中させてしまったことで補給が追いつかなくなっているんだ。元々ロレーヌ要塞、それにヴィオルを中継地として前線に補給物資を届ける計画だったが、それも不可能になった。ヴィオルでは君たちが橋を爆破し、さらに要塞は陥落。これによって前線に補給物資を届けることができなくなってしまった。そもそも後方連絡線が断たれ、敵に包囲されている状況だ。とてもではないが、この絶望的な状況を逆転させるのは難しいだろうね」
軍事に疎い者にはわかりにくいかもしれないが、後方との補給が断たれ、敵に包囲されるというのは想像以上に絶望的な状況なのだ。
もしサンブールのアンネル軍が要塞を奪還しようと来た道を戻ろうとすれば、前線のグラーセン軍主力に背を向けることになるし、逆にグラーセン軍主力と戦えば要塞を陥落させた要塞攻略部隊も戦闘に参加し、アンネル軍を挟撃することになる。
このままならサンブールの戦いはグラーセン軍の勝利に終わるのだ。
「いや、しかしサンブールでグラーセン軍が勝利に終わったとしても、まだアンネル軍は兵力が残っているだろう? それで戦争が終わるはずは……」
サンブールでグラーセン軍が勝利しても、それはあくまで局地的な戦闘での話だ。戦争を有利に動かすことは出来るだろうが、これだけで戦争の決着となるはずはなかった。
そんなクラウスの疑問にジョルジュが答えた。
「いや、戦争はもはや次の段階に移行したんだ。アンネルはこれ以上負けないために戦争を終わらせないといけないんだ。君たちは知らないだろうけど、アンネル国内に少しずつ、厭戦気分が漂い始めている。これ以上国民は戦いを望んでいないんだ。それに我々にとっては、戦いが終わった後の方も問題なんだ」
戦いが終わった後。それは戦後における新たな世界秩序においての問題だった。
「この戦争が終わり、クロイツ帝国が成立すれば、それは強大な軍事力が大陸に誕生するということになる。隣国となるアンネルにとって、その帝国と対峙するための兵力は維持しないといけない。これ以上損失を大きくして貴重な兵力を失うわけにはいかないんだ。だから今、許容できる内容での講和を結ぶ必要があるんだ」
クロイツ帝国の誕生はアンネルにとって脅威となる。その絶対的な脅威に対抗できるだけの軍事力を持つ必要がある。もはやアンネルは、戦後のために動かざるを得ない状況なのだ。
これ以上損失が大きくなれば、講和のために厳しい条件が課せられる可能性だってあるのだ。まだ交渉できるだけの軍事力があるうちに講和を結ぶ必要に迫られていた。
「すでに私の部下たちは首都に送り返している。彼らには講和のために軍部を説得させている。アンネル政府も講和のための準備に入っている。どのような形であれ、戦争は君たちの勝利で終わるのさ」
そう言って、ジョルジュはある物を取り出した。アンネル産のワインだった。
「私が言える立場ではないが、おめでとう。君たちはこの戦争に勝利した。お祝いに受け取ってくれ」
クラウスは呆気に取られた。これほど鮮やかに負けを受け入れるジョルジュの姿に戸惑いを見せていた。悔しさや悲痛さといった物はないのだろうか。
「君は、それでいいのか?」
「情けない話だけど、受け入れざるを得ないさ。私は軍の総司令官ではないし、大統領でもない。国家や軍を指導できる立場ではない。あくまで私はアンネル軍の情報部員なだけであって、この状況を変える力はないからね。私は私にできる立ち回りを演じるしかないのさ」
世界を相手にし、神すらも利用すると豪語する黒狼も、一人の少女に過ぎない。運命を変えるような力や、歴史を動かす力を持っているわけではないのだ。
「だけど、これだけは忘れないでほしい」
その時、彼女は宣言するようにクラウスたちを見据えた。
「この戦争は我々の負けだが、私の夢はまだ終わっていない。いつかこの夢と共に、また君たちに挑んでみせるよ」
ジョルジュの夢。それはかつて世界を制覇したゲトリクス皇帝の時代を取り戻すこと。アンネルを世界最強の座に戻すこと。
たとえこの戦争に負けて、その道までは途絶えてはないのだ。彼女も彼女の夢も、まだ負けてはいなかった。
「……だそうよ」
そんなジョルジュの言葉を受けて、微笑みを浮かべるユリカ。負けてもなお笑みを浮かべ、世界に挑み続けるジョルジュの姿に、ユリカも嬉しくなったのだろう。
それに何より、ジョルジュの言葉にユリカは強く共感しているに違いなかった。似た者同士の二人は、その想いの強さも似ていた。もし立場が逆だったなら、ユリカも同じことを口にしていただろう。
その時、ジョルジュが背を向けた。
「私は仕事が残っているから、君たちだけで祝杯を挙げるといい。それじゃあ、失礼するよ」
そう言って静かに部屋から出て行くジョルジュ。
ジョルジュがドアを閉める。その音が、戦争の終わりを告げる鐘のように聞こえた。その心地良い音を前に、クラウスはじっと固まったままだった。
本当に、本当に終わったのか。本当に自分たちは勝ったのか。信じられない気持ちでいっぱいだった。
その時、ジョルジュから渡されたワインをユリカが手に取った。
「ほらクラウス。せっかくだからいただきましょう」
そう言ってワインを開けて、グラスに注ぐユリカ。そのことにクラウスはやっと思い知った。
これは現実で、それを今ユリカと共に噛み締めている。
そう感じた時、クラウスの中でじわじわと喜びが沸き起こってきた。
そうして爆発しそうな感情を抱きかかえるようにして、彼は思い切りベッドに横になった。
「やった……やったんだな」
その時、ユリカが信じられないものを見た。
クラウスがベッドの上で泣いていた。喜びやら達成感やら、色々な感情がごちゃまぜになった涙が、彼の頬を伝っていた。
命の危険さらされても、銃で撃たれても、どれだけ辛い目に遭っても、涙だけは流さなかったクラウスが、初めて彼女の前で泣いていた。
その光景に驚きつつ、彼女はからかうように言った。
「無愛想だと思ってたけど、ちゃんと涙が流せるのね、あなたって」
その言葉が聞こえたかどうかわからない。あとはもう訳がわからないくらいクラウスは泣いた。思い切り泣いた。
クラウスの嗚咽が屋敷に響いた。だけど嫌な感じは全くしない、心地の良い嗚咽であった。
数日後、サンブールで両軍が激突。ジョルジュの言葉通り、アンネル軍は降伏した。
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